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第6話 憑依する魂

 画面の右側を猛烈な速度で上へと流れる文字の群れは、もはや個々の単語として認識することすら不可能だった。


『偽物』『降りろ』『ふざけんな』『消えろ』。


 無数のアカウントから次々と投げつけられるテキストの暴力は、ひたすらに黒い感情の塊となって任三郎の視界を容赦なく打ち据える。見知らぬ数万の人間から存在そのものを頭ごなしに否定されるという経験は、これまでの彼の三十余年の人生にはなかったものだ。たとえ舞台の客席から厳しい視線を向けられることがあったとしても、それはせいぜい数十人、数百人の空間での出来事。だがここは違う。画面越しの悪意は、距離や物理的な壁を完全に無視して、直接神経へと流れ込んでくる。

 無機質な形をとった悪意の連なりが、任三郎の皮膚を粟立たせる。背中を嫌な汗が流れ落ち、肌に密着するモーションキャプチャースーツの化学繊維がひどく冷たく感じられた。喉の奥が砂を噛んだように乾き、舌が上顎に張り付いて言葉が出ない。

 インカムからは、コントロール卓に座るスタッフたちの切羽詰まった声が交錯していた。


「ダメです、NGワード設定、追いつきません! 弾いた端から隠語を使って別のアカウントで連投されてます。手動のIPブロックも焼け石に水です!」

「同接11万突破。……11万5千! サーバー負荷、イエローゾーンに入りました。これ以上はシステム側で入場制限をかけないと落ちます!」

「トラフィック異常。どこかの巨大掲示板にURLが貼られたみたいです!」


 パニックの連鎖。分厚い防音扉に守られた地下スタジオの密室に、見えない群衆の怒号が直接反響しているかのようだった。モニターの光だけが暴力的に乱舞する中で、任三郎は床のテープの上に立ったまま、頭部を締め付けるヘッドギアの重みに耐えかねたようにうつむきかける。


『全員、口を閉じなさい』


 インカムのノイズを切り裂くように、エレナの冷徹な声が響いた。

 コントロール卓の喧騒が、まるで主電源を落とされたかのようにピタリと止む。キーボードを乱打する音すら消え、巨大な冷却ファンの唸りだけが残った。


『平野さん。聞こえているわね』


 任三郎は唾を飲み込み、わずかに頷いた。額から伸びるカメラのアームが小さく揺れ、視界の端で黒い影がちらつく。


『今、画面の向こうには11万人の人間がいるわ。ここで沈黙を選ぶなら、今すぐ配信を切る。生じた損害と違約金は、契約通りあなたに請求する』


 静かな、しかしカミソリのように鋭い声だった。


『でも、プロの役者として板の上に立ち続ける気があるなら、客から目を逸らさないで。そのスーツは、逃げ隠れするための隠れ蓑じゃない。役を全うしなさい』


 その言葉が、任三郎の鼓膜から脳の芯へと真っ直ぐに突き刺さった。

 そうだ。自分は今、小劇場の暗がりでオーディションの結果に怯えている哀れな男ではない。プロデューサーに雇われ、無数の観客の前に引きずり出された役者だ。客席からの罵声に萎縮して黙り込むなど、三流以下のやることだ。一度舞台に立ったのなら、どんな石を投げられようと最後まで演じ切るしかない。

 任三郎は深く目を閉じた。

 視界から巨大なモニターの光を、流れる文字の雪崩を強制的に遮断する。

 深く、長い呼吸を一度。肺の底に溜まった澱んだ空気を吐き出し、代わりにスタジオの冷え切った空気を吸い込む。

 スーツの生地が肋骨を締め付ける感覚。スタジオの静電気防止マットを掴む足の裏の確かな感触。首の角度、肩の落ち具合、重心の偏り。自分という人間の輪郭を形作っている無数の癖を一度すべて解体し、頭の中にある「天ノ川シリウス」の骨格へと同期させる。

 宇宙から来た王子様。ファンを愛し、愛される存在。常に余裕を持ち、優雅で、決して客席からの反応に怯えたりはしない。

 今のこの荒れ狂う客席を、シリウスならどう受け止めるか。

 ただ怯えて弁明を繰り返すのではない。彼らを丸ごと包み込み、圧倒するはずだ。そこに、平野任三郎という人間が十数年の間、泥水をすすりながら這いつくばって培ってきた、手放しがたい執念を混ぜ合わせる。

 任三郎は、目を開けた。

 正面のカメラを見据える。ただの冷たいレンズではない。その向こう側にいる、無数の生きた人間の顔を正確に想像し、視線をロックする。


「……こんな顔、見せたくなかったな」


 マイクに乗った声は、先ほどまでの焦りに満ちた上ずった声ではなかった。

 芯のある低いテノール。ボイスチェンジャーのフィルターを通しているにもかかわらず、吐息のわずかな震えや、言葉を絞り出す際の摩擦音までが生々しく出力される。

 モニターの右側を流れるコメントの速度が、ほんのわずかに落ちた。


「みんなを不安にさせて、傷つけて。……本当に、僕が馬鹿だった」


 任三郎はバミリの上を静かに歩き、カメラに向かって一歩近づいた。

 モニターの中のアバターが、画面の前の視聴者に向かって距離を詰めるように大きく映し出される。足を引きずるような歩き方ではない。深い傷を負いながらも、真っ直ぐに前を見据える高貴な人間の歩幅。

 コメント欄にはまだ『何言ってんの』『誤魔化すな』『声が違う』という棘のある言葉が流れている。任三郎はそれらの文字列を静かに見つめ、一つ小さく頷いた。まるで、その容赦のない罵倒すらも、ファンが自分を案じるがゆえの混乱として受け止めるかのように、痛ましげに目を伏せる。

 汗が額から流れ落ち、ヘッドギアのパッドに吸い込まれていく。睫毛の端に汗の雫が引っかかっても、任三郎は瞬きの回数すら厳密にコントロールし、アバターの表情に不要なノイズが乗ることを防いだ。彼の中の「平野任三郎」という個我は沈黙し、ただ「傷ついた王子様」としての機能だけが稼働している。


「自分の星で休んでいる間、一人でずっと考えてたんだ。君たちにどうやって顔向けすればいいかって」


 任三郎は胸に手を当て、首を横に振った。アバターの軍服のマントが、重力に従って重々しく揺れる。フェイシャルトラッキングが任三郎の表情筋の動きを克明に拾い上げ、シリウスの碧眼が苦悩に歪んだ。


「声が上手く出せなくて、いつものように笑えなくて。君たちの知っている『完璧な僕』じゃなくなるのが、すごく怖かった。……今も、怖いよ」


 嘘のない、むき出しの感情。

 長年培ってきた役者としての純粋な恐怖。求められないことへの絶望。それらが金髪碧眼の王子様の姿を通して画面の向こうへと放たれた。

 コメント欄の速度が、目に見えて遅くなり始めていた。


『え……』『どういうこと?』『ガチで体調悪いの?』という戸惑いの声が、明確な敵意の間に混じり始める。古参のファンと思われるメンバーシップの緑色のアイコンからは、『無理しないで』『シリウス?』という言葉も拾えるようになってきた。


「でも、逃げたくなかった」


 任三郎の声に、強い圧力がこもった。喉の奥から絞り出すのではなく、腹の底から響かせる太い声。


「どんなに不格好でも、声がかすれていても、今日、ここで君たちに会いたかった」


 任三郎はカメラを真っ直ぐに見据えた。

 モニターの中のシリウスの目が、鋭く、熱を帯びて視聴者を射抜く。


「僕が君たちの知っている僕に見えないなら、それは僕のせいだ。君たちを不安にさせた、僕の弱さだ。だから……」


 任三郎は静かに膝を折った。

 スタジオのマットの上に片膝をつく。化学繊維のスーツが膝周りで強く張り、かすかに擦れる音がマイクに拾われる。カメラに向かって、手のひらを上にしてそっと右手を差し伸べる。

 画面の中で、高貴な王子様が床に片膝をつき、画面の向こうの観客に向かって手を差し出していた。指先の関節の曲がり具合、腕を伸ばす速度、すべてが緻密に計算し尽くされた所作。


「もう一度、僕を信じてくれないか」


 静寂。

 コントロール卓のキーボードの音すら消え失せ、スタジオには機材の冷却ファンの低い唸りだけが響いていた。

 そして、モニターの右側のウィンドウが、全く別の性質を持った文字で埋め尽くされ始めた。


『え……』

『なんか……今日のシリウス、ヤバイ』

『声違うけど、めっちゃ震えた』

『何この演技、凄すぎる』

『映画見てるみたい』

『泣きそう』

『ごめん、信じる』


 明確な敵意と罵声の嵐が、困惑へ、そして抗いがたい熱狂へと塗り替えられた。

 言葉の重み。沈黙の凄み。モーションから伝わる生々しい質量。


『スーパーチャット、止まりません……!』


 インカムから、先ほどまで悲鳴を上げていた若手スタッフの、ひっくり返ったような声が聞こえた。


『同接12万超えました。ネガティブコメントの比率、急降下しています。全体の5パーセント未満です』


 報告の声には、困惑と興奮が入り混じっていた。


 コントロール卓の奥で、腕を組んでモニターを見つめていたエレナは、大きく肩を上下させて深く息を吐き出した。

 組んだ指先がわずかに白くなるほど力を込めていたことに、今更のように気づく。


「……化け物ね」


 誰に聞こえるでもない声で、彼女は小さく呟いた。

 視界の端に映る分析グラフの赤いラインが急速に縮小し、代わりに好意的な感情を示す青や黄色のラインが爆発的に跳ね上がっていく。防音扉の外には誰もいない。この地下スタジオにいるのは、機材にしがみつく数人のスタッフと、黒いタイツを着て汗だくになっている大柄な男だけだ。たったそれだけの物理的な要素が、十万人を超える群衆の感情を根底から引っくり返してしまった。

 エレナは組んでいた腕を解き、モニターの中の天ノ川シリウスを見つめる。グラフの数値とコメント欄の有様が、今ここで起きた事象のすべてを物語っていた。


 スタジオの中央。

 膝をついていた任三郎は、コメント欄の流れが完全に変わったことを視界の端で確認し、静かに立ち上がった。

 スーツの中は汗でびしょ濡れで、片膝をついた関節はひどく疲労していた。だが、精神はこれまでにないほど澄み切っている。


「ありがとう。……君たちは本当に、優しいね」


 任三郎は笑った。

 モニターの中の王子様が微笑む。その笑顔には、これまでのシリウスにはなかった、大人の男の生々しい色気と、底知れぬ凄みが宿っていた。


「さあ、最高の夜を取り戻そうか」


 その一言とともに、コメント欄は黄色い歓声と無数の星の絵文字で完全に埋め尽くされた。

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