2. Erosion
「アオイ……?」
僕は彼女に呼びかける。彼女はニコッと微笑み,「タクミ」と僕の名を呼んだ。
慌てて会社用のカバンを床に放り投げ,アオイを抱きしめるとしっかりと温かく,確かにそこに存在していた。僕は夢を見ているのだろうか。
「どうしたのタクミ。会社遅れちゃうよ?」
小首をかしげるアオイ。そう。これがついこの間までの,そしてもう決して戻らないはずの僕たちの日常だった。
僕はさらに力強くアオイを抱きしめる。気がつくと僕の両目からはとめどなく涙が溢れておりアオイの名を呼び続けていた。アオイは「ちょ,ちょっとどうしたのよ」と驚きながらその涙を拭ってくれる。
僕は夢を見ているのだろうか。腐敗した臓腑の苦汁に塗れた現実が,砂糖菓子のように甘い夢に侵されていく。現実と夢の境界線がグズグズに爛れていく。
アオイは近所の会社で働いているため,僕より30分くらい家を遅く出る。その日,一向に泣き止まなかった僕はアオイに支えられながら一緒に家を出たので,30分遅刻して会社に行くことになった。
しかし会社にいても僕の心はそこになかった。電話がかかってきても出る気が起きず,気もそぞろで何度も何度もアオイにLINEを送っていた。同僚が心配して声をかけてくれたが,やはり僕は上の空だった。
定時になると僕は脇目も振らずに退勤し,電車に飛び乗った。アオイからの返信はまだない。既読もついていないようだった。ソワソワする。落ち着かない。まさか,やっぱり夢だったのだろうか。
いつもの「ただいま」も忘れて勢いよくドアを開けて室内に入ると,そこにあったのはアオイの笑顔ではなく,いつもの暗い部屋だけだった。
僕は電気をつける気力も起こらず,倒れるようにソファにうずくまった。神様,どうせ醒めてしまうのなら夢なんて見せないでください。貴方は残酷です。残酷すぎます……。また涙が零れ落ち,ソファに染みを作っていく。
そのとき。玄関から「ただいまー」と鈴を転がすような声が飛び込んできた。僕は恐る恐るソファから顔を上げる。玄関の明かりが逆光になり顔がよく見えないが,この声は間違いなくアオイだ。
アオイが部屋の電気をつける。ソファにうずくまっている僕に気づき,短い悲鳴を上げた。
「もーびっくりした,電気くらいつけなさいよね!」
「ごめんごめん,つい疲れちゃって」
「ったく,タクミは昔っからだらしないのよねー」
「ごめんごめん」
「じゃあ御飯作っちゃおうか!タクミは大根切っといてー。ブリ大根作ろう」
「了解」
アオイは手際よく料理を作っていく。ああ,いつもの日常が戻ってきた。しっかりもののアオイに尻に敷かれつつ,楽しかった日々。アオイの手元ではブリ大根に出汁が染みていく。白かった大根が染まっていくのを,僕は眺めていた。




