50日目 魔の方法・前編
俺だけの生活は安定していた。
過酷な兵士時代のおかげで、モンスター肉の不味さにも耐性があったし、サバイバルの知識もあった。そして何より、この大陸は砂漠と違い自然が豊富なので、生き抜くこと自体はそう難しくなかった。
だけど魔王と、フェトラスと出会ってから俺の生活は少し変わった。
狩りしかしなくなった。
(正確には、狩りしか出来なくなった)
それはまさに殺戮者だった。
モンスターを殺すだけの生き物だった。
そして魔獣と邂逅し。
フェトラスが我慢を覚えて。
ようやく俺たちの生活は安定した。
いつの間にか靴を履いていたフェトラス。精霊服の形態の一つだ。
長めのジャケットのような精霊服を羽織り、それを翻しながら駆けるフェトラス。
俺の孤独から生じる独り言は、彼女のおかげで二人の会話になり。
食い扶持が増えたせいで労力は倍増……五倍増だったが、生活に張り合いと楽しさと喜びが生まれた。
それでも時折、不安な気持ちになった。
フェトラスは魔王だ。
そして魔王は、殺戮の精霊だ。
世界で最強の存在。全てを統べて殺す者。
俺はいつかコイツに殺されるかもしれない。
あるいは、いつかたくさんの人間を殺すかもしれない。
そんな不安だ。
だけど俺はフェトラスが殺戮の精霊だとは認識出来なかった。
魔獣イリルディッヒ曰く、俺は彼女の孤独を奪ったらしい。最強である理由の一つ、孤独を。
なら単純に考えて、フェトラスは最強ではなくなってしまったのだろうか。
「お父さん! お腹空いてないけど、ごはんまだー!?」
ああ。うん。
どうやらそうらしい。
一人じゃ飯も調達出来ないこいつが最強だなんて、笑える。
俺は不安を殺し続け、そしてフェトラス自身も俺の不安を殺してくれていた。
フェトラスは大きく育った。
彼女の精霊服も共に成長し、時折、その服に浮かぶ黒いラインは位置を変えたりしていた。
黒い髪は背中を覆う程に伸びた。不思議なことに、サラサラの艶やかさを保っている。彼女の髪は手入れをしていないのに、指で梳くことが容易だった。
俺の髪は普通にボサボサだ。たまにハサミで切ったりしているが、仕上がりは雑だ。
黒い瞳は、子供のものらしく澄んでいる。綺麗なものを「綺麗だね」と認識する彼女の瞳は、全てを輝かしく写しているのかもしれない。
モリモリモリモリ食うくせに、少し痩せ気味なのは少し気になるところだ。もうちょい肉付きが良くてもよさそうなもんだが。スレンダーである。
手と足が長く、剣術や体術を教え込めばその天性の肉体を存分に振るうだろう。指先も綺麗だ。
そして、フェトラスは、とても可愛かった。
「えへへー。美味しいねお父さん」
「んみゅ……眠い……よ……」
「わぁ! なにあれなにあれ!? 虹!? へー、虹っていうんだ! すごいね!」
「浜辺と森の中って、匂いが全然違うよね。え? どっちが好きかって? んー、どっちも!」
「あの星って、なんで光ってるの? キレーだねー。一個欲しいなぁ」
「お父さん大変たいへん! お空から、水が降ってきてる! 飲んでいい!?」
「ねぇねぇ、なにかお話しして! お父さんのお話、楽しくて好き!」
「すごいこと発見したよ! 海のお水飲んだら、しょっぱくて、あとすごく喉が渇く!」
とても可愛いのである。
笑ったり、飛び跳ねたり、手をたたいたり、クルクルと回ったり、首を傾げたり、極まれに怒ったり、すぐに仲直りしたり、寝ている時に俺の服を掴んだり、抱き上げると嬉しそうな笑い声をあげたり。
こいつのどこが魔王っていうんだ?
そして、今回語るのは、そんなフェトラスに、俺が初めて恐怖した時のこと。
殺そうかと、“刹那”、考えてしまった時の話し。
「お父さんおとうさん」
「なんだフェトラス」
「火って、なんなの?」
「火ってのは……物が熱を含みすぎると、それに耐えきれなくなって炎に変わってしまう……現象? っていうのかなコレ。ごめん、あんまり上手く説明出来ない。要するにコントロールすれば便利だけど、制御出来なければ危険なもの、かな」
「ふーん……現象……制御……燃える……」
俺が原始的な方法で火を熾している時に発せられた質問だった。
そして、俺が種火を熾そうと必死に集中していると。
「えっと……うーん……難しい……」
「あ? なんだって?」
フェトラスは枯れ木を握って、その先端を見つめていた。
「火……燃える……熱……うーん……」
「なんだ。どうした」
「ねぇお父さん。火を付けるのって、難しい?」
「慣れりゃ簡単だ。小さい火が付けば、あとは火が勝手に大きくなる」
「そっか」
「おう」
「…………じゃあ、こう、かな?」
「は?」
「……【陽種】」
フェトラスが何かを口にすると、洞窟の中が温かくなった。
夜が小さな太陽で熱を帯びる。
「ッッッッ!!」
「ありゃ。失敗した。火、付かないや」
混乱する俺を余所に、フェトラスは呟き続ける。
「そしたらー、えーと、うーん」
「ま」
「そだ。これならどうだ。【火示】」
フェトラスが手にしていた枯れ木は一瞬で燃え上がり、即座にそれを灰にした。
「あっつーい!! わぁ! たいへんだ!」
俺の世界は恐怖と不安と絶望と困惑と覚悟と諦観と後悔の、ドス黒い虹色に彩られた。
もし俺が剣を手の届く所に置いていたら。
もしかしたら、俺は――――。