あなたの帰る場所
翌朝、王都の中央広場には、白紙祭を告げる鐘が鳴り響いていた。
王冠図を掲げるための台座の前に、測図院長セドナ・ケルクと王都の役人たちが並んでいる。広場の外周には、アルヴァンの谷から来た人々と、彼らの話を聞いてきた市民が集まっていた。
イオナは大きな地図を抱え、ディートリヒの隣に立った。地図の中央には、銀色の線で結ばれたアルヴァンの谷がある。北の館から谷の家々へ伸びる道は、昨夜よりもはっきりしていた。
「下級写字生が、王冠図の改訂を止めるつもりかね」
セドナが冷たく言った。
「止めるのではありません。忘れられた土地を、正しい場所へ戻します」
「正しさとは、記録に残ったものだけだ。個人の思い出など、地図の根拠にはならない」
その言葉に、広場のあちこちで息を呑む音がした。
イオナは地図を台座へ置いた。
「では、測図院の規則に従って確かめます。真実でない記憶をもとにした線は、朝にはほどける。ならば、ここにいる人たちの記憶が本物かどうか、今すぐ見てください」
最初に前へ出たのはミレナだった。
「私はミレナ・ロート。アルヴァンの谷で三十七年、パンを焼きました。冬至の日には北の館へ黒パンを十二個。公爵様の母君は、端を薄く切って子どもたちに配りました」
イオナが聞き取った言葉を月墨で記す。地図の上に、谷から北の館へ続く線が生まれた。
次に、羊飼いの老人が名乗った。薬師の娘が名乗り、かつて谷の学校で字を教えた女が名乗った。ニコも胸を張って前へ出る。
「僕はニコ。谷の道を走る配達人です。春の雪解けには、境界門の右側を通る。左は崖が崩れるから。雨の日は、北の館の裏口で休んでいい。これは公爵様が決めたことです」
彼が最後の言葉を告げると、地図の上で裏口から広場へ細い道が伸びた。
線はほどけなかった。
ざわめきが広がる。市民たちの中から、谷の名を聞いたことがあるという声が上がった。古い荷札を持つ商人が現れ、アルヴァン産の薬草を王都へ運んだ記録を差し出した。マルダは測図院の古文書から、改訂前の王冠図を開いた。
そこには、今は白紙になっている場所に、はっきりとアルヴァン公爵領の名が記されていた。
最後に、ディートリヒが一枚の命令書を掲げた。
「これは、アルヴァンの谷を王冠図から除外せよという命令です。理由は国境の不確定ではない。谷の地下にある星脈石を、王都が独占するためでした」
セドナの眉が動く。
「星脈石は王国を守る資源だ。あの谷を残せば、採掘権を巡って争いが起きる。私は国のために空白を選んだ」
「国のためなら、そこに住む人を消していいのですか」
イオナの問いに、セドナは答えなかった。
ディートリヒが続ける。
「私は以前、王都へ出て採掘を認めるふりをしました。領民を守るためでしたが、結果として、私は谷を売った公爵だと名乗るしかなかった。今日まで帰れなかったのは、地図から消えたのが領地だけではなく、私自身の選択だったからです」
彼は命令書を裏返した。そこには、当時の測図院長と王都の役人の署名が並んでいる。
「だが、ここにいる人々の記憶は消えなかった。イオナの筆が、それを一枚の地図にした」
広場に沈黙が落ちる。
王冠図の管理官が震える手で、白紙替えのための銀印を持ち上げた。印を押せば、未確定の土地はすべて白紙へ戻る。けれど、アルヴァンの谷にある線は、誰か一人の主張ではなかった。三十七の声と、古文書と、歩いた人々の足跡が重なっている。
管理官はセドナを見た。
「院長。この線を、未確定として扱えますか」
セドナは長く目を閉じた。
「……扱えない。記名術の条件を満たしている」
銀印が地図の縁に押された。
その瞬間、王冠図から光が走った。広場にいる全員の足元を淡い銀の線が通り、北の山々へ伸びていく。空白だった場所に、アルヴァンの谷という文字が浮かび上がった。谷の家々、境界門、森の道、北の館。失われた名前が、ひとつずつ世界の中へ戻ってくる。
歓声と泣き声が重なった。
イオナは筆を置いた。役目を終えた月墨が、朝露のように光っている。
その日の夕方、二人は再びアルヴァン邸の広間にいた。人々が帰ったあと、ディートリヒは昨日と同じ白紙の欄を前にしている。
「聞いてもいいか」
「はい」
「イオナ。私の帰る場所に、君もいてくれるだろうか」
彼はすぐに言葉を足した。
「公爵としてではなく、谷を守るための契約でもなく。君が君自身の意思で、ここを選んでくれるなら」
イオナは窓辺の冬薔薇を見た。赤い花は、朝より大きく開いている。
「あなたの帰る場所を、私が決めることはできません」
「ああ」
「でも、私の帰る場所を私が決めることはできます。私は、あなたの隣へ帰りたい。北の館へでも、別の場所へでも、二人で選べるところへ」
ディートリヒは目を伏せ、笑った。公爵になってから初めて見せる、肩の力が抜けた笑顔だった。
イオナは白紙の欄へ筆を置く。
所有者の名ではなく、ここを選んだ人の名を書く欄。
まず、イオナ・フェルク。
続けて、ディートリヒ・アルヴァン。
二つの名の間に、細い銀の線を一本引いた。線は玄関を抜け、谷の道へつながり、さらに王都へ続いた。どこか一つに閉じ込める線ではない。帰ることも、出ていくことも、自分で選べる道だった。
「これで、完成ですか」
ディートリヒが尋ねる。
「いいえ。地図は、また描き変わります。誰かが新しい道を見つけるたびに」
「では、最初の道は私が描こう」
「どこへ?」
「君と、明日の市場へ。冬薔薇の苗を買いに行く」
イオナは笑い、彼の手を取った。
帰る場所は、誰かに与えられるものではなかった。名前を呼び、記憶を分け合い、明日もそこへ行くと自分で決めた場所に、少しずつ描かれていく。
アルヴァン邸の壁には、二人の名が並んだ地図が掲げられている。
その地図の上で、銀の道はもう、どこにも消えなかった。




