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空白地図の写字生は、帰れない公爵を家へ送る  作者: 銀細工ナギ


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20/20

あなたの帰る場所

 翌朝、王都の中央広場には、白紙祭を告げる鐘が鳴り響いていた。


 王冠図を掲げるための台座の前に、測図院長セドナ・ケルクと王都の役人たちが並んでいる。広場の外周には、アルヴァンの谷から来た人々と、彼らの話を聞いてきた市民が集まっていた。


 イオナは大きな地図を抱え、ディートリヒの隣に立った。地図の中央には、銀色の線で結ばれたアルヴァンの谷がある。北の館から谷の家々へ伸びる道は、昨夜よりもはっきりしていた。


「下級写字生が、王冠図の改訂を止めるつもりかね」


 セドナが冷たく言った。


「止めるのではありません。忘れられた土地を、正しい場所へ戻します」


「正しさとは、記録に残ったものだけだ。個人の思い出など、地図の根拠にはならない」


 その言葉に、広場のあちこちで息を呑む音がした。


 イオナは地図を台座へ置いた。


「では、測図院の規則に従って確かめます。真実でない記憶をもとにした線は、朝にはほどける。ならば、ここにいる人たちの記憶が本物かどうか、今すぐ見てください」


 最初に前へ出たのはミレナだった。


「私はミレナ・ロート。アルヴァンの谷で三十七年、パンを焼きました。冬至の日には北の館へ黒パンを十二個。公爵様の母君は、端を薄く切って子どもたちに配りました」


 イオナが聞き取った言葉を月墨で記す。地図の上に、谷から北の館へ続く線が生まれた。


 次に、羊飼いの老人が名乗った。薬師の娘が名乗り、かつて谷の学校で字を教えた女が名乗った。ニコも胸を張って前へ出る。


「僕はニコ。谷の道を走る配達人です。春の雪解けには、境界門の右側を通る。左は崖が崩れるから。雨の日は、北の館の裏口で休んでいい。これは公爵様が決めたことです」


 彼が最後の言葉を告げると、地図の上で裏口から広場へ細い道が伸びた。


 線はほどけなかった。


 ざわめきが広がる。市民たちの中から、谷の名を聞いたことがあるという声が上がった。古い荷札を持つ商人が現れ、アルヴァン産の薬草を王都へ運んだ記録を差し出した。マルダは測図院の古文書から、改訂前の王冠図を開いた。


 そこには、今は白紙になっている場所に、はっきりとアルヴァン公爵領の名が記されていた。


 最後に、ディートリヒが一枚の命令書を掲げた。


「これは、アルヴァンの谷を王冠図から除外せよという命令です。理由は国境の不確定ではない。谷の地下にある星脈石を、王都が独占するためでした」


 セドナの眉が動く。


「星脈石は王国を守る資源だ。あの谷を残せば、採掘権を巡って争いが起きる。私は国のために空白を選んだ」


「国のためなら、そこに住む人を消していいのですか」


 イオナの問いに、セドナは答えなかった。


 ディートリヒが続ける。


「私は以前、王都へ出て採掘を認めるふりをしました。領民を守るためでしたが、結果として、私は谷を売った公爵だと名乗るしかなかった。今日まで帰れなかったのは、地図から消えたのが領地だけではなく、私自身の選択だったからです」


 彼は命令書を裏返した。そこには、当時の測図院長と王都の役人の署名が並んでいる。


「だが、ここにいる人々の記憶は消えなかった。イオナの筆が、それを一枚の地図にした」


 広場に沈黙が落ちる。


 王冠図の管理官が震える手で、白紙替えのための銀印を持ち上げた。印を押せば、未確定の土地はすべて白紙へ戻る。けれど、アルヴァンの谷にある線は、誰か一人の主張ではなかった。三十七の声と、古文書と、歩いた人々の足跡が重なっている。


 管理官はセドナを見た。


「院長。この線を、未確定として扱えますか」


 セドナは長く目を閉じた。


「……扱えない。記名術の条件を満たしている」


 銀印が地図の縁に押された。


 その瞬間、王冠図から光が走った。広場にいる全員の足元を淡い銀の線が通り、北の山々へ伸びていく。空白だった場所に、アルヴァンの谷という文字が浮かび上がった。谷の家々、境界門、森の道、北の館。失われた名前が、ひとつずつ世界の中へ戻ってくる。


 歓声と泣き声が重なった。


 イオナは筆を置いた。役目を終えた月墨が、朝露のように光っている。


 その日の夕方、二人は再びアルヴァン邸の広間にいた。人々が帰ったあと、ディートリヒは昨日と同じ白紙の欄を前にしている。


「聞いてもいいか」


「はい」


「イオナ。私の帰る場所に、君もいてくれるだろうか」


 彼はすぐに言葉を足した。


「公爵としてではなく、谷を守るための契約でもなく。君が君自身の意思で、ここを選んでくれるなら」


 イオナは窓辺の冬薔薇を見た。赤い花は、朝より大きく開いている。


「あなたの帰る場所を、私が決めることはできません」


「ああ」


「でも、私の帰る場所を私が決めることはできます。私は、あなたの隣へ帰りたい。北の館へでも、別の場所へでも、二人で選べるところへ」


 ディートリヒは目を伏せ、笑った。公爵になってから初めて見せる、肩の力が抜けた笑顔だった。


 イオナは白紙の欄へ筆を置く。


 所有者の名ではなく、ここを選んだ人の名を書く欄。


 まず、イオナ・フェルク。


 続けて、ディートリヒ・アルヴァン。


 二つの名の間に、細い銀の線を一本引いた。線は玄関を抜け、谷の道へつながり、さらに王都へ続いた。どこか一つに閉じ込める線ではない。帰ることも、出ていくことも、自分で選べる道だった。


「これで、完成ですか」


 ディートリヒが尋ねる。


「いいえ。地図は、また描き変わります。誰かが新しい道を見つけるたびに」


「では、最初の道は私が描こう」


「どこへ?」


「君と、明日の市場へ。冬薔薇の苗を買いに行く」


 イオナは笑い、彼の手を取った。


 帰る場所は、誰かに与えられるものではなかった。名前を呼び、記憶を分け合い、明日もそこへ行くと自分で決めた場所に、少しずつ描かれていく。


 アルヴァン邸の壁には、二人の名が並んだ地図が掲げられている。


 その地図の上で、銀の道はもう、どこにも消えなかった。

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