公爵邸の最初の一枚
白紙替えの鐘が三度鳴ったあと、記録庫からアルヴァンの谷へ向かう銀の道が、朝霧の中に伸びた。
道の先にあるのは、北の館――かつて公爵邸と呼ばれ、地図から名前を奪われた建物だった。
「本当に、こちらへ戻るのですね」
ニコが隣を歩くディートリヒを見上げた。
「戻るというより、確かめに行く。あの館が、まだ誰かを迎えられる場所なのかを」
彼の声は落ち着いていたが、握った手袋の端には力がこもっている。
イオナはそれを見て、何も言わずに地図を抱え直した。王冠図の中央には、谷の家々と道が光っている。けれど北の館だけは、輪郭が薄かった。建物の記憶は多いのに、そこへ帰る人の言葉がまだ足りないのだ。
谷へ着くと、霧の向こうから古い石壁が現れた。門には錆びた鉄の飾りがあり、アルヴァン家の紋章は半分だけ削られている。扉の向こうには、誰も住んでいない年月の冷たさがあった。
ディートリヒが鍵を差し込む。鍵は一度、空回りした。
彼が息を止めたとき、ミレナが背後から歩み寄った。
「公爵様。鍵穴は、右へ回してから少し戻すんですよ。昔から、ここの扉は気難しいんです」
言われた通りにすると、重い錠が低く鳴った。
扉が開く。
広間の床には埃が積もっていた。壁の肖像画は布をかぶり、階段の手すりには枯れた蔓が絡んでいる。それでも、窓辺には冬薔薇の鉢が残っていた。枯れてはいない。細い枝の先に、小さな赤い芽がひとつだけついている。
「母が植えたものだ」
ディートリヒが呟いた。
「冬が長い年ほど、先に咲く。ここに帰ってくる人を、迷わせないためだと言っていた」
イオナは月墨をすった筆を取り出した。紙の上に、館の輪郭をなぞる。石壁、玄関、十二段の階段、右手の冬薔薇。線は青白く光ったが、屋根の上で止まった。
「まだ足りないようです」
そのとき、広間の外から声がした。
「食堂は廊下の先です。暖炉は二つ。客が多い日は、厨房の窓を開けて風を逃がします」
ミレナだった。
「私は何度もパンを届けましたからね。公爵様が夜中に降りてきて、焼けた端を拾っていたことも知っています」
「それは……覚えていない」
「覚えていなくても、誰かが覚えていれば大丈夫です」
別の住民が続けた。二階の南室は雪の見える客間。裏口の横には、配達人が雨宿りできる屋根。地下の小部屋には、冬に来た旅人のための毛布。館の中にあったものが、ひとつずつ言葉になっていく。
イオナが聞き取るたび、白紙だった屋内図へ線が増えた。広間から厨房へ、客間から裏口へ、そして玄関から谷の広場へ。誰かが通った道は、誰かを迎える道へ変わっていく。
ニコが階段の途中で足を止めた。
「この扉は?」
奥まった場所に、小さな木の扉があった。取っ手に触れても開かない。
ディートリヒの顔が曇った。
「私の部屋だ。父が亡くなったあと、私はここに命令書を隠した。谷を守るために、私が王都へ出ていくと決めた日のものを」
「あなたは、ずっとここへ帰れなかったのですね」
「帰れば、私が谷を捨てたと認めることになると思っていた」
彼は扉を押した。古い蝶番が軋み、部屋の中から紙の匂いが流れ出す。机の上には、地図を描きかけたままの紙が一枚あった。谷の輪郭だけがあり、その中央に、何度も消された跡が残っている。
イオナは、その紙を見つめた。
「これは、あなたが描いたのですか」
「十五のときに。谷を王冠図へ戻そうとして、何度も書いた。だが、私の記憶だけでは線がほどけた」
「だから、誰にも見せなかった」
「失敗した証拠を残したくなかった」
彼の手が、紙の上で止まる。
「イオナ。私は、君に同じ失敗をさせたくない。爵位も、館も、私の帰る場所も、君を縛る理由にはしたくない」
胸の奥が、月墨を落としたように熱くなった。
「私が縛られているように見えますか」
「見えない。だから怖い」
イオナは筆先を紙へ置いた。
「では、怖いまま一枚を描きましょう。あなた一人の記憶ではなく、ここにいる人たちの記憶で」
ディートリヒが隣に立つ。彼の指が、イオナの手の甲に触れた。合図をするように、二人で筆を動かす。
館の輪郭に、谷の道がつながる。広間には大きな机が描かれ、空いた客間には窓が開く。玄関の前には、誰でも立ち止まれる小さな広場が生まれた。
最後に、イオナは家の名を書く場所を空けた。
「アルヴァン邸でいい」
ディートリヒが言った。
「公爵のための館ではなく、谷へ帰りたい人のための館にする。ニコの言った通りに」
イオナは月墨で、その名を記した。
アルヴァン邸。
文字が光り、紙の上の館から銀の道が扉の外へ走った。広間の窓が一斉に鳴り、冬薔薇の赤い芽が、朝の光の中でわずかに開く。
住民たちから歓声が上がった。誰かが泣き、誰かが笑った。ディートリヒは地図を見つめたまま、長いこと動かなかった。
「これが、最初の一枚です」
イオナが言うと、彼はようやく顔を上げた。
「最初の一枚?」
「館の地図はできました。でも、ここを誰の帰る場所にするのかは、まだ描き終わっていません」
その言葉に応じるように、紙の隅に小さな白紙が残った。所有者の名を書く欄ではない。ここへ帰る人が、自分の名を選んで記すための場所だ。
遠くで、白紙替えの鐘が四度目を鳴らした。
ディートリヒは空白を見て、それからイオナを見た。
「明日、君に聞きたいことがある」
「今ではなく?」
「今聞けば、白紙替えの鐘に急かされた答えになる。君が自分で選べる日に、聞きたい」
彼はそう言って、まだ冷たい館の扉を大きく開いた。
銀の道の向こうから、谷の人々が次々に入ってくる。帰る人のための館に、最初の一枚が掲げられた。
イオナはその隣に立ち、白紙の小さな欄を見つめた。
明日、そこへ何を書くのか。まだ誰にも決められていない。
だからこそ、その空白は、もう怖くなかった。




