【番外編②】便箋を燃やす日
―旅館から帰った夜―
屋敷の門が見えた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
旅館を出た朝は、穏やかだった。
山の空気は冷たく、空は高く、昨夜見上げた星の名残がまだどこかに残っているようだった。私たちはほとんど言葉を交わさず車に乗り込み、山道を下り、高速道路へ入った。
けれど、沈黙は苦しくなかった。
前の沈黙とは違う。
言えないことを隠している沈黙ではなく、言うべきことを言い終えた後の沈黙だった。
彼は運転席で前を見ていた。
私は助手席で、窓の外を流れる景色を見ていた。
屋敷を出る。
彼も一緒に来る。
そう決めた。
それなのに、屋敷が近づくほど、体のどこかが昔の形に戻ろうとする。
背筋を伸ばす。
表情を消す。
声を冷たく整える。
「奥様」として振る舞う準備を、体が勝手に始めてしまう。
嫌になるほど、馴染んだ癖だった。
「顔が戻っている」
隣から低い声がした。
私は窓の外を見たまま答える。
「何のこと」
「奥様の顔だ」
「……そう」
否定できなかった。
彼は少しだけ黙ったあと、言った。
「無理に戻すな」
「あなたこそ」
「俺?」
「声が執事に戻っているわ」
彼の手が、ハンドルの上でわずかに止まった。
「そうか」
「ええ」
「癖だな」
「私もよ」
車内に、小さな沈黙が落ちた。
その沈黙の向こうに、屋敷がある。
大理石の床。
長い廊下。
使用人たちの視線。
亡き夫の名残。
昼の私。
夜の彼。
そして、あの便箋。
私は膝の上で指を重ねた。
「戻ったら、また全部始まる気がする」
思わず漏らした言葉だった。
彼は前を見たまま、短く答えた。
「始めさせない」
「簡単に言うのね」
「簡単ではない」
「なら」
「だから、終わらせる」
その声に、私は彼を見た。
彼の横顔は静かだった。
怒っているようにも、苦しんでいるようにも見えなかった。
ただ、何かを決めた顔だった。
「何を?」
彼はすぐには答えなかった。
黒い車は、ゆっくりと屋敷の門をくぐる。
鉄の門が背後で閉まる音がした。
その音だけで、私は少し息が詰まった。
戻ってきた。
この屋敷に。
私を未亡人にした屋敷。
私を奥様にした屋敷。
彼を執事にした屋敷。
私たちを、歪な関係に閉じ込めた屋敷。
車寄せには、数人の使用人たちが並んでいた。
執事長もいる。
メイドたちもいる。
皆、私たちの帰宅を待っていた。
車が停まる。
彼は運転席から降りると、いつものように助手席側へ回った。
扉を開ける。
「奥様、どうぞ」
その声は、完璧だった。
完璧すぎた。
旅館で私に「お前がいい」と言った男ではなく、この屋敷に仕える執事の声。
私は顔を上げた。
彼も気づいたのだろう。
一瞬、目が合った。
その目に、わずかな痛みが走る。
けれど使用人たちの前で、何も言えなかった。
私は車を降りた。
「お帰りなさいませ、奥様」
執事長が深く頭を下げる。
他の使用人たちも一斉に礼をした。
その光景に、体が勝手に反応する。
顎を上げる。
視線を冷たくする。
奥様として、立つ。
「ただいま」
声は思ったよりも冷静だった。
彼は私の少し後ろに立っている。
いつもの距離。
いつもの角度。
私の執事として、控える場所。
胸がきしんだ。
旅館では隣にいたのに。
星空の下では、同じ未来を見ていたのに。
ここへ戻っただけで、私たちはまた定位置に戻される。
屋敷というものは、人の体にまで命令するらしい。
「お疲れでしょう。お茶のご用意を」
執事長がそう言いかけたとき、彼が一歩前へ出た。
「不要です」
その声に、使用人たちがわずかに反応した。
私は彼を見る。
彼は執事長へ視線を向けたまま、静かに言った。
「奥様は、このあと書斎へ向かわれます。誰も近づけないように」
執事長は一瞬だけ沈黙した。
けれど長く仕えた者らしく、すぐに頭を下げる。
「かしこまりました」
私は彼を見た。
「私、書斎に行くなんて言ったかしら」
わざと奥様の声で言った。
使用人たちの前だから。
でも彼は、そこで私に向き直った。
完璧な執事の顔で、深く頭を下げる。
「失礼いたしました、奥様」
一拍。
その後で、彼は顔を上げた。
声の温度が、少しだけ変わる。
「……お前に、話がある」
空気が止まった。
メイドの一人が息を呑む気配がした。
執事長の眉も、ほんのわずかに動いた。
私は彼を見つめた。
奥様、と呼びかけたあと。
彼は自分でそれを捨てた。
この屋敷の玄関で。
使用人たちの前で。
私は一瞬、何を言うべきかわからなくなった。
叱るべきだった。
「口の利き方に気をつけなさい」と。
昼の私なら、そう言った。
でも旅館の夜、私たちはもう、役を降りると決めた。
なら、ここでまた役に戻るわけにはいかない。
私はゆっくりと息を吸った。
そして、彼にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「わかったわ」
彼の目が少しだけ揺れた。
執事長が静かに頭を下げる。
「では、書斎にはどなたも近づけぬよう申し伝えます」
「お願い」
私が言うと、執事長はもう一度深く礼をした。
彼は私の荷物を持とうとした。
私はそれを止めた。
「いいわ」
「ですが」
「自分で持つ」
その言葉に、彼は一瞬黙った。
それから、小さく頷く。
「……わかった」
使用人たちの前で、彼がそう答えた。
かしこまりました、ではなく。
わかった、と。
それだけのことなのに、長い廊下の空気が変わった気がした。
私は小さな鞄を手に取り、玄関ホールを進んだ。
彼が隣を歩く。
後ろではない。
隣。
大理石の床に、二人分の足音が並んで響いた。
書斎へ向かう廊下は、夜の気配を含んでいた。
旅館から戻ったのは夕方だったが、屋敷の中はすでに薄暗い。高い窓から差し込む光は弱く、壁に並ぶ肖像画の顔を影で半分覆っている。
私はその廊下を歩きながら、昔のことを思い出していた。
夫が亡くなった数日後の雨夜。
この先にある書斎で、私は彼と向き合った。
彼は便箋を持っていた。
私は震えていた。
命じた。
返しなさい。
跪きなさい。
けれど、彼は従わなかった。
あの夜から、すべてが歪んだ。
奥様と執事。
主人としもべ。
脅迫者と、脅される女。
昼と夜。
命令と服従。
その中心に、たった一枚の紙があった。
「怖いか」
隣で彼が言った。
私は正面を向いたまま答える。
「少し」
「やめるか」
「やめない」
即答だった。
自分でも驚くほど。
彼は私を見た。
「本当に?」
「ええ」
「無理をするな」
「無理はしているわ」
「なら」
「でも、やめない」
私は書斎の扉の前で立ち止まった。
重厚な木の扉。
触れるだけで、あの夜の冷たさが指先に戻る気がした。
私は扉の取っ手に手をかける。
手が少し震えた。
彼がそれを見た。
けれど、触れてこなかった。
昔なら、彼は私の手首を掴んだかもしれない。
逃げるな、と。
今は違った。
彼は私が開けるのを、ただ待っていた。
そのことに、胸の奥が痛くなった。
私は扉を開けた。
書斎の中は静かだった。
広い部屋。
高い天井。
壁一面の本棚。
重厚な机。
厚いカーテン。
古い燭台。
そして、暖炉。
火はまだ入っていなかった。
けれど薪は整えられている。使用人の誰かが、夜に備えて準備していたのだろう。
私は部屋の中央まで進み、ゆっくりと振り返った。
彼が扉を閉める。
その音が、やけに大きく響いた。
二人きりになった。
この書斎で。
また。
けれど、あの夜とは違う。
私は逃げ込んだのではない。
彼に追い詰められたのでもない。
自分の足で、ここへ来た。
彼はしばらく黙っていた。
そして、上着の内側に手を入れた。
私の呼吸が止まる。
白い便箋が、彼の手にあった。
折りたたまれた古い紙。
少し黄ばんだ紙。
私の筆跡を閉じ込めた紙。
あの人がいなくなれば、私は自由になれるのに。
まだ開いてもいないのに、文字が目に浮かぶ。
指先が冷たくなった。
彼はそれを見て、顔を歪めた。
「すまない」
私は笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「その言葉、何度目かしら」
「ああ」
「謝れば消えると思っている?」
「思っていない」
彼は便箋を両手で持ったまま、私から少し離れた位置に立っている。
近づきすぎない。
逃げ道を塞がない。
それがわかった。
だから余計に、苦しかった。
「ずっと持っていたのね」
「持っていた」
「旅館にも?」
「ああ」
「昨日の夜も?」
「そうだ」
「私に『一緒に行く』と言ったときも?」
彼は目を伏せた。
「持っていた」
私は小さく息を吐いた。
「最低ね」
「ああ」
「卑怯ね」
「ああ」
「私を愛していると言いながら、まだそれを持っていたの」
「……ああ」
彼は逃げなかった。
言い訳もしなかった。
それが、かえって私の怒りを行き場のないものにする。
私は彼を睨んだ。
「なぜ、あの場で捨てなかったの」
「ここで終わらせたかった」
「ここ?」
「この屋敷で、お前を縛った」
彼は書斎を見渡した。
「この部屋で、始めた」
私は黙る。
彼は続けた。
「だから、この部屋で終わらせる」
暖炉の中に、まだ火はない。
けれど、その言葉だけで、何かが燃え始めたような気がした。
私はゆっくりと椅子に座った。
あの夜、背中を追い詰められた椅子とは違う。今は自分で選んで座った。
彼は便箋を持ったまま、私の前に立っていた。
「返す」
そう言って、彼は便箋を差し出した。
私は動けなかった。
「これは、お前のものだ」
「今さら?」
「今さらだ」
「ずいぶん都合がいいのね」
「そうだな」
「私を脅すだけ脅して、怖がらせるだけ怖がらせて、今度は返す?」
「返す」
「許されると思っているの」
「思っていない」
「なら、どうして」
彼は私を見た。
「もう、これでお前を縛らない」
静かな声だった。
けれど、書斎の空気を深く割るような声だった。
私は便箋を見つめた。
それは、ただの紙に見える。
けれど、私にとっては鎖だった。
彼にとっては、檻だったのかもしれない。
私を閉じ込めるためのもの。
そして、自分もそこから出られなくなるためのもの。
私はゆっくりと手を伸ばした。
指先が便箋に触れる。
その瞬間、震えが走った。
隠せないほどに。
紙の感触。
乾いた音。
折り目。
あの夜の雨。
彼の声。
「跪くのは奥様です」
心臓が強く鳴った。
私は便箋を受け取ったまま、目を閉じた。
「嫌ね」
声が小さく漏れた。
「まだ、こんなに怖い」
彼の息がわずかに乱れた。
「すまない」
「謝らないで」
私は目を開けた。
「今は、謝らないで」
彼は唇を閉じた。
私は便箋を握ったまま、彼を見上げる。
「これがなくても、そばにいるの?」
彼は即答した。
「いる」
早すぎるほどだった。
胸の奥が、痛く揺れた。
「考えなさいよ」
「考える必要がない」
「これがなくなれば、あなたは私を縛れない」
「縛らない」
「私が屋敷を出ても?」
「ついていく」
「私があなたを置いていこうとしても?」
「話をする」
「止めるのではなく?」
「止めたい」
「正直ね」
「ああ」
「でも?」
「脅しでは止めない」
その言葉に、私は便箋を握る手に力を込めた。
紙がかすかに軋む。
「私があなたを許しきれなくても?」
彼は一瞬、黙った。
それから、私の前で片膝をついた。
使用人としての跪きではなかった。
夜の主人として見下ろす姿でもなかった。
ただ、私と同じ高さになるための仕草だった。
「許されるとは思っていない」
「……」
「忘れろとも言わない」
「ええ」
「俺がしたことは消えない」
「ええ」
「だが、これから先、お前を縛る道具にはしない」
彼はまっすぐに私を見た。
「二度と」
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
怒りなのか。
悲しみなのか。
安堵なのか。
自分でもわからない。
「あなたは、ずるいわ」
「知っている」
「そうやって正直になれば、私が何も言えなくなると思っている」
「思っていない」
「嘘」
「少しは思っている」
私は思わず、泣きそうな顔で笑ってしまった。
「本当に最低ね」
「ああ」
「でも、そういうところまで正直になるのは卑怯だわ」
「それも知っている」
彼の目が、少しだけ和らいだ。
私は便箋を見下ろした。
開かなくても、そこに書いた言葉は覚えている。
あの人がいなくなれば、私は自由になれるのに。
醜い願いだった。
切実な願いでもあった。
夫が死ねばいいと本気で願ったわけではなかった。
けれど、消えてほしいと思った瞬間は確かにあった。
屋敷も。
未亡人という未来も。
誰かの所有物のように扱われる日々も。
全部から逃げたかった。
その気持ちを、私はずっと罪のように抱えていた。
彼はそこにつけ込んだ。
最低だった。
でも、私もまた、その便箋を理由にしていた。
彼を憎む理由。
逃げられない理由。
夜に従う理由。
そばにいてしまう理由。
私は小さく息を吐いた。
「燃やすのね」
「ああ」
「今、ここで」
「ああ」
「この書斎で」
「ここで」
私は暖炉を見た。
「火をつけて」
彼は立ち上がり、暖炉の前へ行った。
薪の位置を整え、火を入れる。
小さな炎が、やがて薪の端を舐めるように広がっていく。
ぱち、と乾いた音がした。
暖炉に火が入ると、書斎の影が揺れた。
あの雨夜は、燭台の火だった。
今夜は、暖炉の火。
あのときは私を追い詰める光だった。
今は、終わらせるための光だった。
彼は暖炉の前に立ち、私を振り返った。
「お前が燃やすか」
私は便箋を見た。
火に近づければ、すぐに燃える。
あれほど恐ろしかったものが、数秒で灰になる。
そのことが、ひどく怖かった。
私は首を振った。
「一緒に」
彼の表情が変わる。
「いいのか」
「ええ」
「俺が触れても」
「便箋に?」
「お前に」
私は一瞬、言葉を失った。
彼は私を見ていた。
あの頃なら、許可など求めなかった。
私の手首を掴み、顎を持ち上げ、逃げるなと命じた。
今は違う。
彼は、私の答えを待っている。
私はゆっくりと頷いた。
「今は、いいわ」
彼は静かに近づいてきた。
私の手から便箋の端だけを持つ。
触れたのは、紙だけだった。
私の指には触れない。
それがわざとだとわかって、胸が痛んだ。
私は言った。
「そんなに慎重にならなくてもいいわ」
「なる」
「どうして」
「怖がらせたくない」
その言葉で、喉の奥がつまった。
私は少しだけ顔を伏せる。
「もう遅いわ」
「ああ」
「でも」
私は彼の手元を見た。
「今、そうしようとしていることは、わかる」
彼は何も言わなかった。
私たちは並んで暖炉の前に立った。
便箋の両端を、それぞれ持っている。
あの夜、彼が一人で握っていた紙を。
今は、二人で持っている。
炎が揺れる。
暖かい。
けれど指先は冷たい。
「読むか」
彼が低く聞いた。
私は首を振った。
「読まない」
「いいのか」
「覚えているもの」
忘れられるはずがない。
でも、もう読み返す必要はない。
私は便箋を炎へ近づけた。
彼も一緒に手を動かす。
紙の端が、火に触れた。
最初は何も起きなかった。
ほんの一瞬、便箋は白いままだった。
けれど次の瞬間、端が黒く縮み、細い炎が走った。
紙が燃える匂い。
小さな音。
白が、黒に変わる。
文字が、火に飲まれる。
私の秘密が。
彼の脅迫が。
二人の歪な夜が。
暖炉の中で、形を失っていく。
私は手を離した。
彼も同時に離した。
便箋は炎の中へ落ちた。
火が一瞬だけ大きくなった。
まるで、最後に息を吸ったようだった。
私はそれを見つめていた。
目を逸らせなかった。
あの紙は、私を縛っていた。
あの紙は、彼を縛っていた。
あの紙は、私たちが互いを好きだと言う前に、互いを傷つけるために使われた。
それが燃えている。
読めなくなっていく。
もう、誰にも見せられない。
もう、私を脅せない。
もう、彼の手元にも戻らない。
炎が弱まり、黒い欠片が崩れた。
灰になった。
その瞬間、涙が落ちた。
自分でも驚いた。
一粒だけだと思った。
けれど、次が落ちた。
その次も。
私は慌てて顔を背けた。
「……嫌だわ」
声が震えた。
「泣くつもりなんてなかったのに」
彼は何も言わなかった。
慰めもしない。
抱きしめもしない。
ただ、隣に立っている。
その沈黙が、今はありがたかった。
「怖かった」
私は暖炉を見つめたまま言った。
彼の肩が、わずかに強張る。
「あなたが、怖かった」
「……ああ」
「便箋も怖かった」
「ああ」
「でも、それがなくなるのも怖い」
彼が私を見る気配がした。
私は続けた。
「これがある限り、私は逃げられないと思えた。嫌だった。苦しかった。でも、理由にもなった」
涙で視界が滲む。
「あなたのそばにいる理由を、この紙のせいにできた」
彼は何も言わなかった。
「でも、燃えたら」
私は震える息を吐いた。
「もう、紙のせいにできない」
灰が、暖炉の中で赤く光っている。
「私は、自分の意思であなたのそばにいることになる」
言葉にした瞬間、涙がさらにこぼれた。
怖かった。
こんなにも。
脅されることではなく。
脅しがなくなったあとも、彼のそばにいたい自分を認めることが。
彼は低く言った。
「俺も怖かった」
私は涙の残る目で彼を見る。
「あなたが?」
「ああ」
「何が」
「これを燃やせば、お前が本当に自由になる」
「そうね」
「自由になったお前が、俺を選ばないかもしれない」
彼の声は静かだった。
けれど、痛みがあった。
「だから持っていた。卑怯な安心だった」
「本当に卑怯ね」
「ああ」
「最低」
「ああ」
「愚か」
「そうだな」
「でも」
私は彼を見た。
「あなたも檻の中にいたのね」
彼は少しだけ苦く笑った。
「お前を閉じ込めているつもりで、俺も出られなかった」
私は暖炉の火へ視線を戻した。
灰になった便箋は、もう形を持たない。
ただ赤い火の底で、静かに崩れていく。
「許したわけじゃないわ」
私は言った。
「わかっている」
「忘れたわけでもない」
「ああ」
「あなたがしたことは、消えない」
「消さなくていい」
「でも」
私は涙を拭わずに続けた。
「もう、この紙はない」
「ああ」
「あなたは、もうこれで私を縛れない」
「縛らない」
「二度と?」
「二度と」
「誓える?」
彼は私をまっすぐ見た。
「誓う」
その声を聞いて、私はようやく息を吐いた。
長く止めていた息だった。
彼が手を伸ばしかける。
けれど、途中で止まった。
私はその手を見た。
昔なら、止まらなかった手。
私の顎を持ち上げた手。
手首を掴んだ手。
逃がさなかった手。
今は、私の許可を待っている。
私は小さく笑った。
涙で濡れたまま。
「触れていいわ」
彼の目が揺れた。
「いいのか」
「今は」
「今だけか」
「調子に乗らないで」
彼はわずかに口元を緩めた。
そして、慎重に私の頬へ触れた。
指先が涙を拭う。
不器用なほど優しい手つきだった。
私はその手から逃げなかった。
逃げられなかったのではない。
逃げなかった。
それが、今までと違った。
彼の指が震えていることに気づいた。
「あなた、震えている」
「お前ほどではない」
「嘘」
「ああ」
私は少し笑った。
「認めるのね」
「今日は、嘘をつきたくない」
その言葉で、また泣きそうになった。
私は彼の手に、自分の手を重ねた。
「私も、ひとつ言うわ」
「ああ」
「私はまだ、自由が怖い」
「知っている」
「屋敷を出るのも怖い」
「ああ」
「あなたと行くのも、怖い」
彼の目が少しだけ痛む。
でも私は続けた。
「でも、ひとりでここに残るほうが、もっと怖い」
彼は何も言わなかった。
私は彼の手を握った。
「だから、一緒に行く」
彼の喉がわずかに動いた。
「俺も行く」
「本当に?」
「何度でも言う」
「これがなくても?」
彼は暖炉の灰を見た。
そして私へ視線を戻す。
「なくても」
「私が奥様じゃなくても?」
「奥様でなくていい」
「あなたが執事じゃなくても?」
「執事でなくていい」
「じゃあ、何になるの」
彼は少し考えた。
旅館の食事のときと同じように、照れたように視線を逸らす。
「お前の男」
私は涙の残る顔で、思わず笑ってしまった。
「またそれ?」
「悪いか」
「悪くないわ」
私は彼の胸元を軽く掴んだ。
「でも、少し急に言わないで。困るから」
「困らせたい」
「性格が悪い」
「知っている」
「本当にね」
彼はようやく、私を抱きしめた。
強くはない。
昔のように逃げ場を奪う抱きしめ方ではない。
私が離れようと思えば、離れられる力。
だから私は、自分から彼の胸に額を預けた。
暖炉の火が揺れている。
書斎の影が、壁に大きく伸びる。
この場所で、私はかつて震えていた。
この場所で、彼は私を脅した。
この場所で、便箋は鎖になった。
そして今。
同じ場所で、それは灰になった。
「灰はどうする?」
私は彼の胸元で尋ねた。
彼は少し考えた。
「暖炉の中に残す気はない」
「そうね」
「明日の朝、俺が処分する」
私は顔を上げた。
「一緒に」
彼はすぐに頷いた。
「一緒に」
その返事が自然で、少し嬉しかった。
何もかも彼が決めるわけではない。
何もかも私が命じるわけでもない。
これからは、そういう小さなことを一つずつ選んでいくのだろう。
一緒に。
私は暖炉の中を見た。
灰はもう、便箋の形をしていない。
あれほど恐れていたものが、今はただ火の底に残る黒い粉だった。
「ねえ」
「何だ」
「明日、屋敷の者たちに話すの?」
「お前が決めろ」
「あなたは?」
「俺は辞める」
迷いのない声だった。
私は少しだけ眉を寄せる。
「本当にいいの」
「いい」
「この屋敷で執事長になれるかもしれなかったのに」
「いらない」
「生活は楽じゃないわよ」
「知っている」
「私、料理も掃除も得意じゃないかもしれない」
「知っている」
「失礼ね」
「屋敷で見ていたからな」
「使用人目線で言わないで」
彼は少し笑った。
「なら、これから覚えればいい」
「私が?」
「俺もだ」
「あなたはできるでしょう」
「屋敷のやり方しか知らない」
その言葉に、私は少し黙った。
彼もまた、屋敷に縛られていた。
完璧な執事として。
若すぎるのに、誰よりも正確に振る舞う男として。
私を縛った男である前に、彼もこの屋敷の歯車だった。
私は彼の手を握り直した。
「じゃあ、一緒に下手になりましょう」
彼が私を見る。
「何だ、それは」
「完璧じゃない生活をするの」
私は少し笑った。
「焦がした朝食を食べたり、安いカップを割ったり、洗濯物を干し忘れたり」
「ひどい生活だな」
「そうね」
「だが」
彼は暖炉の火を見ながら言った。
「悪くない」
私はその横顔を見た。
旅館の星空の下で見た顔とは違う。
でも、屋敷にいた頃の執事の顔でもない。
その中間で、彼は少しずつ役を脱いでいる。
私も、きっとそうだ。
完全に脱げたわけではない。
まだ奥様の声が出る。
まだ命令する癖がある。
まだ怖い。
まだ許しきれない。
それでも、もう便箋はない。
紙一枚で決まる関係ではなくなった。
「あなた」
「何だ」
「明日の朝、使用人たちの前で私の後ろに立たないで」
彼は私を見る。
「隣?」
「ええ」
「騒ぎになる」
「なるでしょうね」
「執事長が胃を痛める」
「申し訳ないわね」
「本当に思っているか?」
「少しだけ」
彼は小さく笑った。
私は続けた。
「でも、もう戻りたくないの」
彼の表情が静かになる。
「奥様と執事に?」
「ええ」
「夜の主人としもべにも?」
「ええ」
彼は少しだけ寂しそうに目を伏せた。
私はそれに気づいて、あえて言った。
「寂しい?」
「少し」
「正直ね」
「今日は嘘をつかないと言った」
「支配できなくなるものね」
「そうだな」
「私に命令できなくなる」
「それもある」
「最低」
「だが」
彼は私を見た。
「お前が自分の意思でそばにいるなら、そのほうがいい」
胸が静かに震えた。
「本当に?」
「ああ」
「命令しなくても?」
「ああ」
「脅さなくても?」
「ああ」
「私が笑わなくても?」
「そばにいる」
「私が泣いても?」
「そばにいる」
「私が怒っても?」
「慣れている」
私は眉を寄せた。
「余計な一言が多い」
「事実だ」
「あなたも相当面倒よ」
「知っている」
「でも」
私は彼に近づいた。
「それでも、あなたがいい」
旅館で言った言葉。
もう一度、屋敷で言う。
この書斎で。
暖炉の火の前で。
灰になった便箋の前で。
彼の目が、深く揺れた。
「俺も、お前がいい」
彼は低く答えた。
短い言葉だった。
けれど、もう便箋はない。
脅しもない。
役もない。
それでも同じ答えが返ってきた。
私は目を閉じた。
彼が私に顔を近づける。
けれど、唇が触れる直前で止まった。
「いいか」
その問いに、私は少しだけ笑った。
「毎回聞くの?」
「必要なら」
「不器用ね」
「慣れていない」
「何に?」
「奪わずに、求めることに」
胸の奥が、痛くて、温かかった。
私は彼の襟元を軽く引いた。
「いいわ」
その言葉を聞いてから、彼は私に口づけた。
静かなキスだった。
命令ではない。
脅しでもない。
謝罪だけでもない。
過去を消すためのものでもない。
これからを選ぶためのキスだった。
暖炉の中で、灰が静かに崩れた。
私はそれを横目で見ながら思った。
あの便箋は、もうどこにもない。
あの夜は消えない。
傷も、罪も、恐怖も、なかったことにはならない。
でも、私たちはそれを持ったまま、ここから出ていく。
この屋敷から。
この役から。
あの一枚の紙から。
やがて彼が唇を離した。
私は額を彼の胸に預けたまま、小さく言った。
「明日、屋敷を出る準備をしましょう」
「ああ」
「荷物は少なくていいわ」
「ああ」
「豪華なものはいらない」
「ああ」
「でも」
「何だ」
「旅館で見た星のことは、忘れたくない」
彼の腕が、少しだけ私を包む。
「また見に行けばいい」
「簡単に言うのね」
「今度は、逃げるためじゃない」
私は顔を上げた。
彼は静かに続けた。
「二人で行くためだ」
その言葉に、私はゆっくり笑った。
屋敷の書斎で。
暖炉の火の前で。
まだ未亡人の名残を背負ったまま。
まだ執事の影をまとった彼の前で。
それでも、確かに私は笑った。
「そうね」
私は言った。
「今度は、二人で行きましょう」
暖炉の火が、最後に小さく音を立てた。
灰になった便箋は、もう何も語らない。
私たちを縛らない。
脅さない。
引き戻さない。
ただ、静かに燃え尽きている。
彼は私の手を取った。
私はその手を握り返した。
もう白い手袋はない。
もう便箋もない。
あるのは、まだ不器用で、まだ傷だらけで、けれど確かに同じ未来へ向かおうとしている二人の手だけだった。
この屋敷で始まった歪みを。
この屋敷で終わらせる。
そして明日。
私たちは、この屋敷を出る。
奥様でもなく。
執事でもなく。
主人でも、しもべでもなく。
ただ、互いを選んだ一人の女と、一人の男として。
暖炉の火が、静かに揺れていた。




