【番外編①】雨夜の脅迫―便箋が鎖になった夜―
夫が亡くなって、数日後のことだった。
雨音が、屋敷の窓を叩き続けていた。
夜の書斎は、昼間よりもずっと狭く感じられた。
実際には広い部屋だった。
高い天井。
壁一面の本棚。
重厚な机。
古い肖像画。
厚いカーテン。
燭台の火。
どれも、この屋敷の歴史と権威を語るために置かれたものだった。
けれど今の私には、そのすべてが檻に見えた。
そして、その檻の扉を閉めたのは、目の前に立つ若い執事だった。
黒い燕尾服。
白い手袋。
乱れのない姿勢。
感情を押し殺した、静かな目。
昼間なら、彼はただの使用人だった。
私が命じれば跪き、私が呼べば現れ、私が退けと言えば音もなく消える。
そういう男だった。
そのはずだった。
「……返しなさい」
私の声は、自分でもわかるほど低く震えていた。
執事の手には、一通の便箋があった。
白い紙。
私の筆跡。
私が、誰にも見せるつもりなどなく書いた言葉。
――あの人がいなくなれば、私は自由になれるのに。
亡き夫が倒れる前夜。
雨の音を聞きながら、私はひとりでその言葉を書いた。
破るつもりだった。
燃やすつもりだった。
なかったことにするつもりだった。
けれど、できなかった。
破れば、自分の中にあった願いまで認めるようで。
燃やせば、夫の死を本当に望んだ女になるようで。
私はその紙を、机の引き出しの奥へ押し込んだ。
誰にも見つからないはずだった。
それが今、彼の手の中にある。
私の喉元に突きつけられた刃のように。
執事は便箋を静かに折りたたんだ。
「できません」
「命令よ」
「今夜は、奥様の命令を聞くためだけに来たのではありません」
雨音が、一瞬強くなった。
私は息を呑んだ。
「お前……自分が何を言っているのかわかっているの?」
「はい」
「なら、跪きなさい」
私は立ち上がった。
震えを隠すために。
声だけは、女主人のものに戻した。
冷たく。
高く。
相手を見下ろすための声。
「今すぐ。主人に逆らったことを詫びなさい」
いつもなら、それで終わる。
彼は膝をつく。
頭を下げる。
私はその姿を見て、この屋敷の中でまだ自分が支配する側なのだと確認する。
けれど、その夜。
彼は動かなかった。
まっすぐに立ったまま、私を見ていた。
「跪きなさいと言っているの」
「嫌です」
短い言葉だった。
それだけで、書斎の空気が変わった。
私は一瞬、声を失った。
嫌です。
使用人が。
執事が。
この私に向かって。
「……もう一度言ってみなさい」
「嫌です」
彼は静かに繰り返した。
顔色ひとつ変えずに。
私は机の縁を掴んだ。
「ふざけないで」
「ふざけてなどおりません」
「お前は使用人よ」
「はい」
「私は、この屋敷の女主人よ」
「はい」
「なら、立場をわきまえなさい」
「わきまえております」
「なら跪きなさい」
「今夜、跪くのは奥様です」
空気が凍った。
燭台の火が、小さく揺れた。
私は彼を睨んだ。
「……誰に向かって言っているの」
「あなたに」
彼は一歩、前へ出た。
私は反射的に後ろへ下がった。
その反応が、自分で許せなかった。
怖いから下がったのではない。
そう思いたかった。
けれど、背中が椅子の背に触れた瞬間、私は自分が逃げたのだと理解してしまった。
それが、何より屈辱だった。
「近づかないで」
「奥様」
彼の声は、いつもと同じ丁寧な響きを残していた。
けれど、その奥にあるものが違っていた。
従順ではない。
忠誠でもない。
もっと暗く、重く、熱を持った何か。
「私は、もうただの執事ではいられません」
「何を言っているの」
「五年前からです」
「……」
「奥様がこの屋敷に嫁いでこられた日から、私はずっと壊れていました」
私は眉をひそめた。
「気持ちの悪いことを言わないで」
「承知しております」
「なら黙りなさい」
「黙りません」
即答だった。
私は唇を噛んだ。
彼は机へ近づき、便箋をそっと置いた。
私が手を伸ばすより早く、白い手袋がその上を押さえる。
「触れてはいけません」
「それは私のものよ」
「今は、私が持っています」
「盗人」
「はい」
「卑怯者」
「はい」
「脅迫者」
「その通りです」
否定しない。
言い訳もしない。
私の罵倒をすべて受け入れたうえで、それでも一歩も退かない。
そのことが、一番恐ろしかった。
「何が望みなの」
私は睨みつけた。
「金? 地位? この屋敷での権限?」
彼は、ためらわず答えた。
「奥様です」
息が止まった。
雨音だけが、二人の間に落ちた。
「……下劣ね」
「はい」
「身の程を知りなさい」
「知っております」
「私はお前の主人よ」
「昼間は」
胸の奥が冷えた。
「今、何と言ったの」
彼は机の上の便箋に指を置いたまま、私を見た。
「昼間は、奥様が主人です」
「夜は違うとでも言うつもり?」
「はい」
「馬鹿なことを」
「今夜から、変わります」
「変わらないわ」
「変わります」
彼は声を荒げなかった。
だから余計に逃げ場がなかった。
私は便箋を見た。
たった一枚の紙。
それだけで、私の足元が崩れようとしている。
「それをどうするつもり」
「奥様次第です」
「答えなさい」
彼は便箋の端を指先で押さえた。
「旦那様が倒れられた前夜の筆跡です」
ただ、それだけだった。
けれど私には十分だった。
夫の親族たちの顔が浮かんだ。
泣きながら遺産の話をしていた者たち。
私の前では哀悼を装い、廊下の陰では財産の配分を囁いていた者たち。
夫の愛人だったと名乗った女の顔も浮かんだ。
――夫を愛していなかったくせに。
――妻という座にいただけの女。
――あなたが望んだんじゃないの?
そんな声が、まだ耳の奥に残っていた。
この便箋が出れば。
私は罪に問われないかもしれない。
けれど、疑われる。
噂になる。
夫の死を望んでいた未亡人として。
この屋敷で冷たく立っている女主人として。
私の名前は、汚れる。
それがわかった。
彼は詳しく説明しなかった。
説明する必要などなかった。
その静けさが、卑怯だった。
「お前は……それで私を支配するつもりなの」
「はい」
彼は答えた。
「夜だけは」
私は彼を睨んだ。
「ふざけないで」
「ふざけていません」
「昼は私に仕え、夜は私を脅すの?」
「はい」
「狂っているわ」
「そうでしょうね」
「自分でわかっているなら、やめなさい」
「やめられません」
彼は一歩、近づいた。
私はまた身を固くした。
彼はその反応を見逃さなかった。
「怖いですか」
「誰が」
「奥様が」
「思い上がらないで」
「なら、なぜ退くのです」
「近いからよ」
「近づいています」
「下がりなさい」
「嫌です」
また、その言葉。
嫌です。
そのたびに、私の命令が剥がされていく。
奥様という肩書きが、一枚ずつ脱がされていく。
彼は机を回り込み、私の正面に立った。
私は椅子と机に挟まれ、動けなかった。
彼の手が伸びる。
白い手袋の指先が、私の顎に触れた。
昼間なら、私が彼にする仕草だった。
従属を確かめるために。
顔を上げさせるために。
視線を奪うために。
今、それをされているのは私だった。
「触らないで」
「俺を見ろ」
「命令しないで」
「見ろ」
彼の声が低く落ちた。
私は睨み上げた。
彼の顔は近かった。
雨を映したような暗い瞳。
その奥にあるのは、勝ち誇りではなかった。
もっと苦しげで、もっと飢えたものだった。
「五年です」
彼が言った。
「五年、私はあなたを見ていました」
「私は見ていないわ」
「知っています」
「お前など、ただの下働きだった」
「はい」
「ただの執事よ」
「はい」
「なら――」
「だから、今夜だけは違う」
彼の親指が、私の顎をわずかに上げた。
「奥様ではなく、お前と呼ばせてください」
全身が強張った。
「許すと思うの?」
「許可を求めているわけではありません」
「お前……」
「夜だけは、そう呼びます」
「やめなさい」
「お前」
低く、彼が呼んだ。
その一言で、部屋の上下が反転した。
奥様ではない。
主人でもない。
未亡人でもない。
ただ、逃げ場を失った一人の女として、彼の前に立たされている。
怒りで頬が熱くなった。
けれど、それだけではなかった。
その呼び方に、胸の奥が乱れた。
それを自覚した瞬間、自分自身に吐き気がした。
私は反射的に手を上げた。
彼の頬を打とうとした。
だが、彼はその手首を掴んだ。
強くはない。
痛くもない。
けれど、逃がさない力だった。
「離しなさい」
「嫌だ」
「命令よ」
「今夜は、命令するのは俺だ」
ぞくりとした。
怒りのはずだった。
屈辱のはずだった。
恐怖のはずだった。
なのに、その奥で、名前のつけられない震えが走った。
私はそれが許せなかった。
彼ではない。
彼の声に反応してしまう、自分が。
「お前は私を脅しているのよ」
「そうだ」
「それで私が従うと思う?」
「従う」
「なぜ言い切れるの」
彼は机の上の便箋を見た。
私も、見てしまった。
「お前は、今の立場を失えない」
低い声だった。
「屋敷も、名も、未亡人としての顔も、冷たい女主人の仮面も。お前は、それを捨てられない」
「知ったようなことを言わないで」
「知っている」
「知らないわ」
「知っている」
彼の声が、少しだけ苦しげになった。
「夜中、この書斎で泣いていたことも」
私は息を呑んだ。
「亡き旦那様の肖像画を裏返したことも」
「やめて」
「朝には何事もなかった顔で、使用人たちの前に立つことも」
「黙りなさい」
「誰にも助けを求められないことも」
「黙れ!」
私は手を振りほどこうとした。
けれど彼は逃がさなかった。
彼の手は、私を傷つけるほど強くはない。
けれど、自由を与えるほど優しくもなかった。
その中途半端な力が、いっそ残酷だった。
「俺を見ろ」
「嫌よ」
「見ろ」
私は睨んだ。
視線が絡む。
その瞬間、彼の目がわずかに揺れた。
まるで、私に見られることをずっと望んでいたように。
「言え」
彼が低く言った。
「何を」
「俺を追い出さないと」
「馬鹿なことを」
「言わないなら、この便箋は外へ出る」
私は息を詰めた。
「卑怯者」
「そうだ」
「そんなやり方でそばに置かれて、満足なの?」
彼は答えなかった。
長い沈黙。
雨音。
燭台の火が揺れる音。
やがて彼は、苦しげに口を開いた。
「満足などしません」
「なら」
「それでも、いないよりはいい」
その言葉は、脅迫者のものにしては弱すぎた。
私は一瞬、何も言えなくなった。
彼は私を見ていた。
「お前に嫌われてもいい」
「……」
「憎まれてもいい」
「……」
「軽蔑されてもいい」
彼の声が、ほんの少しかすれた。
「だが、屋敷から消されるのだけは嫌だ」
「愚かね」
「ああ」
「惨めだわ」
「そうだ」
「そんなに私が欲しいの」
彼は、今度はすぐに答えた。
「欲しい」
囁きに近い声だった。
「ずっと」
胸が跳ねた。
私は彼の胸を押した。
「近いわ」
「逃げるな」
「命令しないで」
「なら、目を逸らすな」
「お前は使用人よ」
「昼は」
「夜もよ」
「夜は違う」
「違わない」
「違う」
彼は便箋を持つ手を下げない。
私はそれを見ていた。
あの紙一枚が、私の声を奪っていく。
「言え」
彼が命じる。
「俺をそばに置くと」
「……」
「言え」
「……置くわ」
やっと絞り出した声は、自分のものではないようだった。
屈辱に喉が焼ける。
彼の瞳が揺れた。
「もう一度」
「調子に乗らないで」
「もう一度だ」
私は彼を睨んだ。
だが彼は、便箋をほんの少し持ち上げる。
私は歯を食いしばった。
「お前を……屋敷に置くわ」
「誰として」
「執事としてよ」
「違う」
「何が違うの」
「ただの執事ではない」
「何を言わせたいの」
彼は私を見下ろしたまま、静かに告げた。
「お前の秘密を握る男として」
頬が熱くなった。
怒りで。
屈辱で。
それ以外の何かで。
「最低」
「言え」
「最低よ」
「それでも言え」
私は彼を睨みながら、ゆっくりと口にした。
「お前を、私の秘密を握る男として、そばに置く」
その瞬間、彼の表情が変わった。
勝ち誇るでもない。
笑うでもない。
ただ、長い間飢えていたものが、ようやく少しだけ満たされたような顔だった。
「いい子だ」
「っ……!」
私は彼の胸を押した。
「その言い方をやめなさい!」
「嫌だ」
「私はお前の主人よ!」
「昼はな」
「夜もよ!」
「夜は違う」
彼は私の顎を持ち上げた。
「夜のお前は、俺の秘密を恐れている」
「……」
「そして、俺を見ている」
「見ていない」
「嘘だ」
顔が近づく。
私は逃げようとした。
けれど背後には椅子。
横には机。
退く場所はなかった。
「触れたら許さない」
「もう許されていない」
「なら、これ以上罪を重ねる気?」
彼は一瞬、動きを止めた。
その沈黙が、逆に苦しかった。
彼は私を見ている。
卑怯な男の目だった。
同時に、自分が卑怯であることを知っている男の目でもあった。
やがて彼は、低く言った。
「止めろと言え」
私は固まった。
「何……」
「本当に嫌なら、止めろと言え」
その言葉が、優しさではないことを私は理解した。
便箋を握ったまま。
逃げ道を塞いだまま。
私の立場を奪ったまま。
それでいて、最後の一線だけを私に選ばせるような顔をする。
なんて卑怯なのだろう。
なんて残酷なのだろう。
そして彼自身も、それをわかっている顔をしていた。
「そんなことを言える立場にしておいて?」
私の声は震えていた。
彼の目が痛む。
「わかっている」
「わかっていて言うの?」
「ああ」
「最低ね」
「そうだ」
「それで、私が止めろと言わなければ、自分は許されたと思うの?」
「思わない」
「嘘」
「思わない」
彼の声がかすれた。
「けれど、言われたら止まる」
「……」
「それだけは、守る」
私は彼を睨み続けた。
言えばよかった。
止めなさい。
離れなさい。
下がりなさい。
いつものように命じればよかった。
けれど、声が出なかった。
怒りなのか。
恐怖なのか。
屈辱なのか。
それとも、もっと認めたくない感情なのか。
わからない。
彼の目が揺れる。
「……言わないのか」
「勘違いしないで」
私の声は震えていた。
「許したわけじゃない」
「わかっている」
「お前を受け入れたわけでもない」
「それでもいい」
「私はお前を憎むわ」
「構わない」
「軽蔑する」
「受ける」
「いつか必ず、跪かせてやる」
その言葉に、彼はわずかに笑った。
「その時まで、そばにいる」
次の瞬間、彼は私に口づけた。
乱暴ではなかった。
けれど、遠慮もなかった。
長く押し殺してきた想いを、もう隠す気がない口づけだった。
私は目を見開いたまま、彼の胸を押していた。
離れろと命じるべきだった。
突き飛ばすべきだった。
頬を打つべきだった。
なのに、できなかった。
雨音が遠くなる。
燭台の火が揺れる。
屋敷のすべてが、この一瞬だけ息を潜めているようだった。
やがて、彼が唇を離した。
近すぎる距離で、彼は私を見下ろしている。
私はかすれた声で言った。
「……今のは、忘れなさい」
彼は静かに首を振った。
「忘れない」
「命令よ」
「従わない」
「お前……」
「今夜の命令は、俺がする」
彼は私の顎から手を離さず、低く告げた。
「明日の朝、俺はいつも通り奥様と呼ぶ。頭を下げ、命令に従い、完璧な執事として振る舞う」
「当然よ」
「だが夜になったら」
彼の指が、私の顎をそっと撫でた。
「お前は俺から逃げられない」
私は彼を睨み上げた。
「脅しでしか繋ぎ止められない男が、偉そうに」
「そうだな」
「哀れだわ」
「ああ」
「便箋がなければ、何もできないくせに」
その言葉に、彼の目がわずかに伏せられた。
刺さったのだとわかった。
それでも彼は退かなかった。
「なら、奪ってみろ」
彼は便箋を内ポケットにしまった。
「俺から」
その挑発に、私は唇を噛んだ。
彼は一歩下がった。
そして、まるで何事もなかったかのように姿勢を正す。
背筋を伸ばし、白い手袋を揃え、深く一礼した。
「失礼いたします、奥様」
呼び方は戻っていた。
声も戻っていた。
完璧な執事の声だった。
けれど、もう何も戻っていなかった。
「待ちなさい」
私が呼び止めると、彼は扉の前で振り返った。
「何でございましょう」
「明日の朝、いつも通り私の前で跪きなさい」
「かしこまりました」
「私が命じれば、床に額をつけるのよ」
「はい、奥様」
「今日のことは誰にも言わない」
「もちろんでございます」
「その紙も、誰にも見せない」
「奥様が私を捨てない限り」
私は彼を睨んだ。
彼は静かに微笑んだ。
「おやすみなさいませ、奥様」
扉が閉まった。
私は書斎に一人残された。
雨はまだ降っている。
窓を叩く音だけが、広い部屋に満ちていた。
私は椅子に深く沈み込む。
指先が震えていた。
唇に、彼の熱が残っていた。
私はそれに触れかけて、すぐに手を下ろした。
「……許さない」
誰もいない部屋で、私は呟いた。
「絶対に、許さないわ」
けれどその声は、怒りだけではなかった。
屈辱。
恐怖。
動揺。
そして、認めたくないほど強い何か。
あの執事は、私の弱みを握った。
私を脅した。
私を従わせた。
そして、私の中に、自分の存在を刻みつけた。
昼の屋敷では、私は女主人でいられる。
彼は忠実な執事でいられる。
明日の朝も、きっと彼は私の前で跪くだろう。
私は冷たく命じるだろう。
何も変わっていないように。
けれど夜が来れば。
あの便箋一枚で、私たちの立場は静かに反転する。
私は雨の窓を見つめた。
燭台の火が揺れている。
唇の熱は、まだ消えなかった。
そして私は、ようやく理解した。
あの便箋は、彼が私を縛るための鎖になる。
同時に。
私が彼を憎み続けるための理由にもなるのだと。
この夜から、私たちは歪んだ。
奥様と執事として。
主人としもべとして。
脅す者と、脅される者として。
そして、互いを見ないふりができなくなった二人として。
雨はまだ、やまなかった。




