【第一章:博物館の企画】第五話:鍔の記憶
焚き火の灯りがわずかに揺れ、夜の静寂に虫の声が溶けていた。
リオとクララは、ツリーハウスの下に設けられた静かな東屋で、湯気の立つ木杯を手にしていた。
「……ねえ、リオ」クララがぽつりと口を開いた。「私たち、帰れると思う?」
リオは一瞬黙り、炎の揺らぎを見つめながら答えた。 「わからない。でも、帰れる方法があるなら、それを探すべきだと思う。……でももし、なかったら」
「この世界で、生きていくしかないのか」クララの声は、少しだけ震えていた。
その時だった。 傍らに座っていたレネアが、ふとリオの腰元に視線を落とし、目を細めた。
「……その下履きの、右のポケット。何かが、呼んでいるような気がします」
リオは驚いたように眉を上げ、言われた通りにジーンズのポケットを探った。
指先に触れたのは、小さな金属片。
――鍔だった。
黒ずんだ鉄に、梅の花をかたどった繊細な浮彫。金彩が施され、わずかに光を返している。
彼の祖父の形見として、リオは肌身離さず持っていたそれを、レネアの前に差し出す。
レネアは鍔を両手で受け取り、沈黙のまま見つめた。やがて、その指がごく微かに震える。
「……まさか、こんな形で……」
その声はかすれていて、誰に向けたものかも判然としない。
そして、わずかに間を置いたのち、静かに問いかけた。
「……これを、あなたが手にした経緯を教えていただけますか?」
リオは少し戸惑いながらも答えた。
「ああ……えっと、これは“鍔”って言って、刀を持つときに手を守る部品です。日本っていう国の昔の武具の一部で、祖父が持ってたもので……形見みたいなものです」
レネアは小さく頷いた。 「ああ、なるほど……道理で……」
小さく吐息を漏らすと、ほんの一瞬だけ、鍔に触れていた視線が揺らぐ。
彼女は何かを思い出しかけたようだったが、それを押しとどめるかのように目を伏せた。
そうして、そっと目を閉じ、胸元のペンダントに触れた。
「……これは、記憶と意思の残滓を帯びています。霊唱術で、確かめてみましょう」
風がそっと吹き抜け、草木がかすかに揺れた。 レネアの周囲に光の粒が舞い上がる。彼女は低く、静かな声で精霊へと語りかけた。
その光が鍔を包み込むと、レネアの眉がわずかにひそめられる。
「取り戻せぬ時間への深い悲しみと、静かな諦念。そして、断ち切ることのできなかった想い」
彼女の瞳がゆっくりと開かれる。
「この鍔は、ある者が深く想いを込めたものです。精霊のささやきは断片的ですが、かつてそれを携えた者が、別れと理解の中で、何かを託し、何かを受け継いだ……そのような情景が浮かびます。そこにあったのは憎しみではなく、受け入れるしかなかった運命への、名もなき嘆きです」
クララが思わず息を呑む。
「……強く感じられたのは、過ぎ去った時間を惜しむ想い。詳細は不明ですが、その一人は、戻れぬ日々を求め、何かを手放すことができなかったのでしょう。強く、深く……鍔に想いが刻まれていたのです」
レネアの声が、さらに静かになる。
「この鍔には、“取り戻せぬ時間”を追い求めるような、深い悲しみと執念が込められています。誰かにとって、失われた何かが、強く強く――忘れがたく刻まれているのです」
リオは、鍔を見つめた。小さな鉄の欠片が、遠い時代の想いを宿しているとは、今まで想像したこともなかった。
だが今、レネアの言葉が、その事実を確かに告げている。
「……ひょっとして、俺の祖先の記憶だったりする……?」
リオの声は静かだった。
レネアは鍔をそっと返し、言った。
「……この鍔に刻まれた強い意志と執念が、あなたたち二人をこの世界へ導いた――私は、そう感じました。持ち主の魂が、あまりに強く“帰りたい”“行かねばならぬ”と願ったがゆえに、その想いが時空を越えて干渉したのかもしれません」
クララが目を見開いた。「じゃあ……私まで一緒に来たのも……?」
レネアは静かに頷いた。
「この鍔に刻まれた執念は、持ち主の想いを強く引き寄せるほど深いものだったのでしょう。そして……その想いが、傍らにいたあなたにも干渉したのかもしれません。何か、大切な関係性、あるいは情動が……時空の壁を越えて影響を及ぼすほどに」
リオとクララは、言葉を失って顔を見合わせた。
そして、焚き火の炎がまた、ひときわ強く揺らいだ。
東屋の外から、気配がそっと近づいてくるのが感じられた。
レネアがそっと立ち上がり、リオとクララのもとを離れて木陰へと歩いていく。やがて、彼女のもとへ、サエラン、カルナ、リィリスの三人が静かに姿を現した。
「おふたりの様子はどうですか?」
レネアが静かに振り返った。
「混乱しているようですね。けれど、いずれ乗り越えるでしょう。あの鍔に刻まれた意思が、彼らを行くべき道へと導いているように思います」
その言葉を聞いたサエランが、わずかに首をかしげた。 「……鍔、とは何ですか?」
レネアは短く答えた。 「戦のための道具です。異国の、とても古い記憶を宿すもの……あなたが知る必要はありません」
サエランは、それ以上は問わず、話題を変えるように問いかけた。
「いずれ、あの二人は森を離れるとお考えですか?」
レネアは目を細めた。
「そうなるでしょう。異界から来た人間はこの世界のマナ(精霊を含む大気中の生命力・魔力の源)を吸収しやすいようね。リオとクララの内に流れ込んでいく力の気配の激しさを感じていました。 溜まっていく力に、器が追いつかない――その違和感は、やがて彼ら自身の中にも芽生えるでしょう。それが何かを求める衝動となり、行動となる。特別な意志ではなく、そうした自然な流れの中で、彼らは旅立ちを選ぶでしょう。」
リィリスが小さく笑った。 「クララは、まるでエルフの娘のように見えるけれど、心はずいぶん違うのですね」
カルナも頷く。 「似ていても、やはり別種なのだと……思い知らされます」
レネアは静かに焚き火を見つめながら呟いた。
「早晩、彼らは行くでしょう。そうすることでしか、自分の在処を見つけられぬものなのです」
* * *
翌朝、森には柔らかな光が差し込んでいた。
リオとクララはレネアたちに導かれ、エルフの暮らしぶりを見て回っていた。
高所に作られた住居は、木々と共生するように設計されており、枝の曲がりや幹の成長を見越して編まれたような巧みな構造を持っていた。
農園では、エルフたちが歌うような声で木々に語りかけながら作業をしており、その傍らでは色とりどりの果実や穀物が穏やかに揺れていた。
狩りもまた、ただ獲物を追うのではなく、精霊に許しを請い、自然との調和を意識したやり方で進められていた。
目に映るすべてが穏やかで、整っていて、美しかった。
クララがふと呟く。「……まるで絵本の中の理想郷みたいね」
リオは苦笑しながら、「俺はファストフードが恋しい」と返す。
二人は笑ったが、その後に訪れた沈黙は、言葉にできない違和感を物語っていた。
確かに、ここは安全で、食べ物にも困らず、清潔で美しい。けれど、心の奥に漂う不安は拭えなかった。
クララがぽつりと言った。「このままここで暮らすのって、想像できないよね」
リオは頷いた。「一生をここで終えるって……無理だな。戻れるなら帰りたいし、それが無理なら、何か探すことはできるはず」
変わらない日々の中にいれば、心はいつしか鈍くなる。
そしてその鈍さが、何かを失ってしまうことへの怖さに繋がっていた。
美しい森の中で、ふたりは静かに焦りを感じていた。
――このままでは、何も始まらない。
リオは空を見上げた。その奥に、何かを予感するような気配があった。クララも、同じものを探すように、その視線を追った。
木漏れ日の向こうに、まだ知らぬ世界の気配が、確かにあった。
* * *
それから二週間が経った。
リオとクララは、エルフたちの穏やかな森で過ごしながらも、自分たちの中に湧き上がる焦燥と、言いようのない衝動を日に日に強く感じていた。
ある日の夕刻、ふたりは静かにレネアのもとを訪れた。
「レネア。俺たち……外の世界を見てみたいんだ」
リオの言葉に、レネアはすぐに頷いた。まるで、予想していたかのように。
「そうでしょう。あなたたちの気配から、そうなると思っていました」
クララが口を開いた。
「ここは本当に素敵な場所。でも……エルフの人たちと暮らしてみて、思い知らされたの。言葉の奥にある想いや、術理って呼ばれるこの世界の仕組み――それが、私には何もわかっていなかったって。だからこそ、知りたいって気持ちがどんどん強くなるの。ここの暮らしだけじゃ届かない、そんな何かが私を呼んでる気がして……どうしても、じっとしていられないの」
レネアは静かに頷き、火の灯ったランタンを傍らに置いた。
「森を離れていく者がいることは、私たちにとっても悲しいことではあります。けれど、それが必要な時もあるのです。あなたたちのような者にとっては、なおさら」
彼女は懐から一枚の布に包まれた地図を取り出し、広げて見せた。
「東へ三日の道を進むと、サヴェルナの都市があります。そこには、霊唱術師の他に、魔導師や学者たちも暮らしています。魔導師は精霊とは異なる魔力を用いて術を行う者たちで、我々とは異なる術理に通じています」
クララの目が輝いた。
「言葉を学ぶなら、その都市が最適です。ミリアの印だけでは、意思の奥深くまでは届かない。共通語を学べば、理解の幅が広がるでしょう」
レネアは立ち上がり、リオとクララに視線を向けた。
「護身のための短剣、精霊の気配を読む道具、簡易の保存食、風雨をしのぐ装備、路銀――すべて、あなたたちの旅に必要なものを用意しましょう」
クララが不思議そうに訊ねた。「その……精霊の気配を読む道具って、どういうものなんですか?」
レネアは微笑んで、小さな水晶のついた細長い枝のような器具を取り出した。
「これは“ミルティスの導き”と呼ばれるもの。精霊の存在が濃い方角に反応して光るの。進むべき道を示すこともあれば、危険を避ける目安になることもあるわ」
その晩、レネアと若いエルフのひとりがふたりのもとへと現れた。
彼は言葉少なに、地図とミルティスの導き、そしてずっしりとした革袋を手渡した。袋の中をさっとあらためてみると、木の実や穀物を砕いて蜜で固めた携行食──エルフの言葉で“ティナリ”と呼ばれる保存食──や、携帯用の水筒、そして小さな月光色の水晶などが収められていた。
リオが水晶を手に取ると、クララが首をかしげる。 「これも“ミルティスの導き”と同じもの?」
傍らのレネアが頷き、説明を加える。 「いいえ。見た目は似ていますが、これは少し違う役割を持つのよ」 レネアはゆっくりと水晶を手に取りながら続けた。
「これは護りの道具として使われるの。あなたたちのように、異なる世界から来た者たちは、この地のマナを非常に吸収しやすい。そのため、強い意志を持ったり危機的状況に置かれたとき、あなたたちの内に蓄えられたマナがこの水晶に反応して、精霊の力を一時的に呼び起こすことがあるのです。伝承では、危険が迫ったときに水晶が主をかばい、霊的な障壁を作った例もあるとされています」
「森を出れば、いくつもの道があります。けれど、あなたたちにはきっと、その行く先を選び取る力があると思います。精霊の加護がありますように――」
若いエルフの言葉は簡素だったが、その声音には、これから旅立つ者への小さな励ましと、森を離れる決意への理解が滲んでいた。
さらに、レネアは懐から封をした文書を一通取り出し、クララに手渡した。
「これはサヴェルナにある術理学校への紹介状です。霊唱術や魔導理論を学びたいというあなたの思いに応えるには、そこがふさわしい」
クララは両手で文書を受け取り、静かに頭を下げた。「大切にします。ありがとうございます」
旅立ちの準備は、こうして静かに始まった。
翌日の晩、レネアの計らいで、ツリーハウスの広場にて小さな送別の集いが開かれた。
月の光が森の梢を照らし、広場の中心では焚き火が静かに燃えていた。
森で採れた果実やキノコ料理、干し肉などが並べられ、甘く香ばしい琥珀色の発酵果酒――「樹蜜酒」が振る舞われた。これは、祝いの席でエルフたちがよく飲む、芳醇な酒だった。
リオとクララは未成年として飲酒を断り、濃い果汁を杯に受けて参加していた。
酔った若いエルフの一人がふらりと近づき、クララの肩に顔を埋めるようにして泣きついた。
「え〜、飲まないの? 精霊だって酔うのに……お前たちも森の枝に住めばいいのに……なぜ行ってしまうんだ……」
クララは困ったように笑い、リオはやや引き気味に隣でその様子を見守っていた。
リィリスが肩を叩いて助け舟を出した。「酔うといつもこうなの。許してあげて」
やがて若いエルフは火の前に戻り、杯を傾けながらぽつりと呟いた。
「“シャドウリングの歌に耳を貸すな”。……分かってるんだ、好奇心は、ときに危うさを呼ぶってこと。それでも見たことのないものを見てみたい、触れたことのない世界を知りたい――そう思っちまう。止められないよ、そんな気持ちは……」
その横顔には、若者なりの葛藤と祝福の想いが滲んでいた。
リオが火を見つめながら、静かに言った。「ありがたいよ、本当に。ここは穏やかで、優しくて……でも、俺たちは、何かを探さなきゃいけないんだ。何なのかは、まだわからないけど」
クララがそっと口を開く。「……リオ、怖くない?」
リオが少し間を置いて答える。「ああ。でも、楽しみでもある」
ふたりは炎を見つめたまま、しばし黙っていた。
クララも頷いた。「そう。私たちが見てきたもの、そしてここで出会ったすべてを抱えたまま……次に進まなきゃって、そんな気がするの」
焚き火の炎が揺れるたび、ふたりの決意は、静かに森の闇へと溶けていった。
* * *
翌朝、リオとクララは森の外れ――林と草原の境界に立っていた。
木々の影が少しずつ後ろへと退いていくなか、レネアをはじめ、リィリスや他のエルフたちが静かに見送っていた。
レネアは微笑みを湛えたまま、リオとクララに向かって歩み寄る。
「また会える。その時、お前たちがどんな姿になっているか、楽しみにしているわ」
リオは軽く頷いた。クララは静かに「ありがとう」と口にした。
森の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
草原の向こうに広がる未知の世界が、ふたりを待っていた。
そうして、リオとクララの異世界の本当の旅が始まった。