第一章 第5話 森の外へ
森の暮らしは、覚えることばかりだった。
朝は、樹上の家の窓から差し込む光で目を覚ます。顔を洗う水は、根もとの泉から汲んでくる。吊り橋の渡り方にもこつがあって、最初の三日、リオは真ん中で足をすくませ、そのたびに子どもたちに笑われた。
畑では、エルフたちが歌いながら土を返していた。作物に語りかけるような、低く穏やかな節回しだった。狩りに出る者は、弓を取る前に森の奥へ向かって頭を垂れ、しばらく黙って何かに耳を澄ませていた。許しを請うているのだと、カルナが教えてくれた。
クララは、そのどれもに目を輝かせた。手帳はたちまち文字と図で埋まり、足りなくなった紙の代わりに、リィリスが薄く剥いだ樹皮を分けてくれた。リオのほうは、薪割りと水運びを任されることが多かった。三日目には、斧を振るたびに手のひらの豆が潰れた。
それでも、十日も経つころには、吊り橋の真ん中で足が止まることはなくなった。朝の挨拶の言葉を、石に頼らず口にできるようになったのはクララのほうが先で、リオはそれがなんとなく悔しかった。
「……ハンバーガーが食いたい」
ある晩、焚き火のそばでリオがこぼすと、クララは呆れたように笑った。
「ここの食事、美味しいじゃない」
「美味しいよ。美味しいけど、そういうことじゃないんだ」
言いながら、自分でも何が言いたいのか分からなかった。ここは穏やかで、清潔で、食べるものにも困らない。誰もが親切だった。それなのに、胸の奥のどこかが、ずっと落ち着かなかった。
* * *
鍔の話をした日から、レネアとは毎日のように言葉を交わした。
たいていは、畑仕事の合間や、夕餉の後の短い時間だった。レネアは二人の故郷のことを訊きたがった。どんな家に住んでいたのか。何を食べていたのか。家族は、どんな人たちなのか。
その日も、三人は泉のほとりで、根菜を洗っては籠に移していた。
「ママは、心配性なの」クララは泥のついた指を水にひたしながら言った。
「私が一晩帰らないだけで、きっと知り合い全員に電話……ええと、遠くの人と話す道具で、片っ端から連絡してる。パパは逆に、何も言わないで探し回るタイプ」
「リオさんのご家族は」
「父は……面倒くさがりです」リオは少し考えてから言った。
「俺があの場所にいたのも、本当は父の役目だったのを押しつけられたからで。母は、たぶん今ごろ台所にいます。いつも台所にいる人だから」
言ってから、喉の奥が詰まった。あの朝、母が何か言っていたのに、聞き流してしまった。それが何だったのか、今も思い出せない。
レネアは、何も言わずに頷いた。それから、籠の中の根菜をひとつ手に取り、泥を指でそっと拭った。
「待っている方がいるのですね」
責めるでも、慰めるでもない声だった。ただ、その言葉を確かめるように、レネアは少しのあいだ、手の中の根菜を見つめていた。
そのとき、吊り橋の上から、若いエルフが駆け下りてきた。息を切らし、途切れ途切れにレネアへ何か告げる。荒い息のあいだから届いたのは、
「東の集落」
「水の取り合い」
「長が」という切れ端だけだった。
レネアは根菜を籠に戻して立ち上がった。
「少し、行ってまいります。続きは、また後で」
彼女が戻ってきたのは、日が傾きかけたころだった。衣の裾に土がつき、顔には疲れがにじんでいたが、二人を見るとすぐにいつもの微笑みに戻った。
「……大変なんですね」とクララが言った。
「近くの森に住む者たちの、相談役のようなものなのです」
レネアは置いてあった籠を抱え上げた。
「水の分け方、狩り場の境、若い者同士の諍い。誰かが話を聞いて、間に立たなければならないことが、思いのほか多くて」
「レネアさんは、森の外には出ないんですか」
リオが訊くと、レネアは少しだけ目を細めた。
「長く森を空けることは、なかなかできません。わたくしを頼ってくれる者たちがいますから。長く生きていても、思うままに動けるわけではないのですよ」
そう言って笑ったレネアの顔を、リオは初めて、一人の人間の顔として見た気がした。何でも知っていて、何でも答えてくれる森の守人ではなく、自分の役目を抱えて、それでも毎日二人の話を聞きに来てくれる人として。
* * *
十日を過ぎたころ、二人は泉のほとりで、長いこと話し込んだ。
「このまま、ここにいるわけにはいかないよな」
リオが言うと、クララは膝を抱えたまま頷いた。
「帰る方法は、レネアさんにも分からない。森の中にいても、たぶん見つからないと思う」
「それに、いつまでも世話になりっぱなしってのもな」
「うん」
クララは水面に目を落とした。
「それにね、リオ。私、知りたいの。ここの人たちが歌で何をしてるのか。精霊って何なのか。この世界がどういう仕組みで動いてるのか。……帰る方法を探すにも、まずそれが分からないと、何も始まらない気がする」
リオは、自分の手のひらを見た。潰れた豆が、硬い皮になりかけていた。
「俺は、何ができるか分からない。でも、働いて、自分で食っていけるようにはなりたい」
「じゃあ、決まりだね」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく立ち上がった。
その晩、二人はレネアを訪ねた。
「街へ出てみたいんです」とリオは言った。
「帰る手がかりを探したい。そのために、この世界のことを学びたいし、自分たちで働いて暮らせるようになりたい」
レネアは、二人の顔を順に見た。驚いた様子はなかった。かといって、最初から分かっていたという顔でもなかった。
「何を学びたいのですか」
クララが、霊唱術のこと、精霊のこと、言葉のことを話した。リオは、仕事を見つけたいと言った。レネアは最後まで聞き終えると、卓の上に一枚の布を広げた。古い地図だった。
「東へ三日歩くと、サヴェルナという街があります」
細い指が、森の縁から一本の道をなぞった。
「大きな街です。わたくしたちのような霊唱術師のほかに、魔導師や学者も暮らしています。術を教える学び舎もある。人が多い分、仕事も見つけやすいでしょう。街では共通語が話されています。その石が結ぶのは、身につけた人と、わたくしたちの言葉のあいだだけ。街の言葉は、ご自分の耳で覚えるしかありません。覚えるには、森よりずっと向いています」
それから、レネアは少し声を落とした。
「ひとつだけ、覚えておいてください。この森で受け入れられたからといって、街でも同じように受け入れられるとは限りません。あなたがたがどこから来たのか。それを誰に話すかは、よく考えて選んでください」
「……話しちゃいけない、ってことですか」とクララが訊いた。
「いいえ。決めるのは、あなたがたです」レネアは首を振った。
「ただ、信じられる相手かどうか分かるまでは、急がなくていい。わたくしが言えるのは、それだけです」
二人は顔を見合わせた。しばらく考えてから、リオが言った。
「当分は、遠い国から来た、とだけ言うことにします。嘘はつかない。でも、全部は話さない」
レネアは、静かに頷いた。
* * *
出発の支度は、それから三日で整った。
レネアが用意してくれたのは、東への道を記した地図と、木の実や穀物を蜜で固めた保存食、水筒、護身用の短剣が二振り、雨風をしのぐ外套。それに、ずしりと重い革袋がひとつ。中には金貨と銀貨、銅貨が詰まっていた。
「エルフは、お金を使わないんじゃ……」とクララが言いかけると、レネアは「いつか役に立つこともあるかと思って」とだけ答えた。
それから、細長い枝のような器具を二人に見せた。先端に、小さな水晶がはめ込まれている。
「ミルティスの導きといいます。精霊の気配が濃い方角に、淡く光ります。分かれ道で迷ったとき、道を選ぶ目安になることもあります」
もうひとつ、掌に乗るほどの月色の水晶があった。こちらは、道を示すものではないという。
「これは、護りのためのものです。あなたがたのような方は、この世界の力をとても取り込みやすい。強く何かを願ったとき、危ういときに、この水晶がそれに応えて、身を護る助けになることがあると伝えられています」
最後に、レネアは封をした手紙を一通、クララに手渡した。
「サヴェルナの学び舎への紹介状です。あなたが学びたいと願っていること、わたくしがあなたを推し、その身を保証すること。それだけを書きました」
それだけ、という言葉に、クララは顔を上げた。どこから来たのかは、書かれていない。二人が自分たちで選んだとおりに。
「……大切にします」
* * *
出発の前の晩、村の広場で小さな送別の宴が開かれた。
焚き火のまわりに、森の果実や茸の料理、干した肉が並んだ。琥珀色の甘い香りの酒が回されたが、リオとクララは首を振った。
「俺たちの国じゃ、あと二年は飲んじゃいけないんです」
「……変わった決まりだね」とリィリスが言い、代わりに濃い果汁を注いでくれた。
宴もたけなわのころ、赤い顔をした若いエルフが、ふらふらとクララのそばへやってきた。そして、いきなり彼女の肩に顔を埋めた。
「なんで行っちゃうんだよう……ずっとここにいればいいのに……一杯くらい付き合ってくれたっていいじゃないかあ……」
クララは目を白黒させ、リオは思わず噴き出した。リィリスが若いエルフの襟首をつかんで引き剥がす。
「この人、飲むといつもこうだから。気にしないで」
引きずられながらも、若いエルフは「行くなよう」と繰り返していた。サエランが遠くでそれを見て、呆れたように鼻を鳴らした。カルナは黙って、クララの肩についた酒の雫を拭ってくれた。
リオは笑いながら、焚き火の向こうに座るレネアを見た。レネアも、笑っていた。ただ、その目は、どこか遠くを見ているようにも見えた。
宴が終わり、人がまばらになったころ、レネアが二人のそばへ来た。
「落ち着いたら」と彼女は言った。
「暮らしの様子を、知らせていただけると嬉しいです。無理にとは言いません。元気でいると分かれば、それで十分ですから」
「必ず」とクララが言った。
リオも頷いた。約束というより、そうしたいと思った。
* * *
翌朝、リオは外套のポケットに、いつもより念入りに鍔を押し込んだ。布越しに、梅の花の小さな凹凸が指に触れた。
森の外れまで、何人ものエルフが見送りに来てくれた。
林が途切れ、その先に草原がひらけている。朝露に濡れた草が、光を受けて白く揺れていた。
リオとクララは、一人ひとりに礼を言った。サエランは短く頷き、道の脇へ半歩退いた。
「行け。道を外れるなよ」
カルナは、その隣で小さく手を上げた。リィリスは「迷子になったら、すぐ戻ってきていいからね」と笑い、目もとを乱暴に拭った。
最後に、レネアが前へ出た。
「どうか、お元気で」
その微笑みは、いつもと同じように穏やかだった。だが、リオにはそれが何もかもうまくいくと信じている顔には見えなかった。言いかけて、言わなかったことがある。そんな顔だった。昔見たことがある、とだけ言った、あの鍔のことも。
聞きたいことは、まだたくさんあった。この人について、自分たちは何も知らない。それでも今は、背を向ける時だった。
「ありがとうございました」
リオは深く頭を下げた。クララも並んで頭を下げた。
二人は草原へ踏み出した。
帰ることを、諦めたわけではない。帰る方法を探すために、まずこの世界で生きていく。そう決めたのは、ほかの誰でもない、自分たちだった。
草原の道は、東へまっすぐ延びていた。ミルティスの導きの先で、水晶がかすかに光っている。
歩きながら、クララが手帳を開いた。森で目覚めた日に「一日目」と書いたページから、もうずいぶん紙が増えている。彼女は新しいページの端に、少し考えてから「旅立ちの日」と書いた。
「日にちは、もう数えないのか」とリオが訊いた。
「数えてるよ。でも、今日はこっちのほうがいいと思って」
しばらく歩いて振り返ると、森の縁に、まだいくつかの人影が立っていた。その中のひとつだけが、いつまでも動かなかった。




