【第一章:博物館の企画】第四話:森の射手
突きつけられた槍の穂先に、リオとクララは身動きひとつ取れずにいた。呼吸の音すらためらわれるほどの緊張が場を支配していた。
その瞬間だった。
空気を切り裂く音が、ぴたりと耳を打つ。
矢だ――。
何かが、風を切って飛来したかと思うと、目の前のコボルドの一体が喉を押さえて崩れ落ちた。
「わっ……!」
残る六体が一斉に威嚇の声を上げ、周囲を見回す。
だが次の瞬間、別の方向からも矢が飛ぶ。続けざまに放たれたその矢は、正確に、そして迷いなく獲物を射抜いていった。
数秒のうちに、三体が倒れ、残るコボルドたちは散開して林の奥へと逃げ出した。
リオとクララはその場にへたり込んだ。
何が起きたのか、理解が追いつかない。だが、音もなく忍び寄る足音に気づいた時、クララが小さく息を呑んだ。
木陰から現れたのは、三人の人物――いや、ヒトに似た存在たちだった。
灰緑の外套に身を包み、背には弓。長身でしなやかな肢体、尖った耳、抜けるように白い肌。その顔立ちは整っており、幻想的な美しさを湛えていた。目元には静かな警戒心が宿っていた。
エルフ――そうとしか形容しようのない姿だった。
リオもクララも、映画やゲームで何度か目にした“エルフ”のイメージを思い浮かべた。現実に目の前に現れたそれが、本当に彼らの知るエルフなのか、それともまったく別種の知的生命体なのかは分からない。
だが、少なくともその姿形は、まさしく“エルフ”そのものであった。
先頭に立つエルフがクララに向き直り、何事かを話しかけた。その言葉は、母音の多い柔らかな響きで、まるで歌うように流れていた。
クララには意味がわからない。困惑した表情を浮かべ、首を横に振ると、エルフは彼女の長い髪に隠れた短い耳を見て、目を細めた。
そして今度は、彼女の服装――Tシャツにジーンズという見慣れぬ布地と裁断に目を止め、しばし黙考した。
後方の仲間二人と何か言葉を交わすと、それぞれのエルフが懐からペンダントのようなものを取り出し、一人がクララの首に、もう一人がリオの首に手早くそれをかけた。
ペンダントは革紐に吊された青い石で、その中央には見たこともない曲線的な文字が刻まれていた。後にそれが“ルナリエル語”という古代の言語であり、“ミリアの印”と呼ばれる魔法具の印章だと知ることになる。このペンダントは、異種族間で交渉や取引などの意思疎通を補助するために用いられる。
その効果によって、言葉は耳ではなく、意味として脳裏に浮かび上がってくる。声や言語の響きは関係なく、まるで“心に話しかけられる”ような不思議な感覚だった。
リオが「え……あの、ありがとう?」と言うと、先頭のエルフは彼の服装を改めてじっと見つめた。
この世界には存在しない衣服に、わずかに眉が動いた。
「……越境者、か」
リオとクララは顔を見合わせ、そして深く頭を下げた。
「本当に……助けてくれて、ありがとう」
「命の恩人です。感謝してもしきれません」
三人のエルフは一瞬だけ視線を交わした後、先頭のエルフが穏やかに口を開いた。
「我はサエラン」
「私はカルナ」
「そして私は……リィリス」
三人はそれぞれ、簡潔に名乗りを上げた。口調は慎重ながらも敵意はなく、落ち着いた声で語りかけてくる。
リオが胸に手を当てて応じる。「俺はリオ。リオ・ナカムラ」
クララもすぐに笑顔で続けた。「クララ・モリスです。さっきも言ったけど、本当にありがとう」
サエランはしばらくリオを見つめたあと、無言のまま弓を構える仕草をした。
「お前は……濃い瞳と髪をしているから、ダークエルフかと思って射つところだった」
冗談めかした口調だったが、リオの背筋はゾクリと震えた。
「や、やめてくれ……」
リィリスがくすくすと笑いながら、すかさず言葉を添えた。
「冗談に決まってるでしょう? サエランは滅多なことじゃ本当に射ったりしないわ」
カルナも穏やかに頷いた。その落ち着いた声音には、少しの慰めとやさしさが滲んでいる。
「でも、驚くのも無理はないな。……あなたの髪と目の色、たしかに向こうの者に近いもの」
クララがリオの肩を軽くつついて、にやりと笑った。
「ふふ、気をつけてよね、“射たれる”リオくん」
リオはむくれた顔で肩をすくめたが、目は少し笑っていた。
「エルフ流ジョークってやつか……笑えないなぁ」
サエランは軽く鼻を鳴らしてから、視線を森の奥へと向けた。
「見つけたら“射つ”かもな」
再びそう言った口調には笑みが含まれていたが、今度はどこか重たさがあった。
「冗談だよ。けど、あいつらとはもう、同じ森に住めないんだ」
その言葉には、ただの冗談では済まされない、長い歴史の断絶が滲んでいた。
かつて、ダークエルフたちもこの森に生きる者だった。しかし、彼らは繁栄の道を自然との共存ではなく、産業と発展に見出した。農耕、工業、交易……そのために森を切り拓き、鉄と火を使うことを選んだ。
その価値観は、自然と調和して生きることを是とするエルフたちとは、根本的に相容れなかった。
そしてそれは、単なる思想の違いにとどまらず、やがて種としての分化をもたらした。
長い年月を経て、肌の色も、髪の色も、骨格さえも微かに異なる──それが“森のエルフ”と“ダークエルフ”の今の姿だった。
「まったく……あいつらの肌がああなったのも、日差しと煙のせいさ」
クララが訝しげに首を傾げると、サエランは指先を空に向けた。
「平地の陽射しは強い。あれだけ森を焼けば、木陰もない。褐色の肌は、その陽射しに適応した証だ。そして銀や黒の髪は、煤と金属の塵に染まったもの……あるいは、強い光に長く晒されて、色素が変わったのかもしれない。長い年月が流れれば、姿も変わるさ」
そこには侮蔑だけではなく、どこか遠い同情の色もあった。
突如、サエランが手を水平にして振る。リオたちは意味が分からず顔を見合わせた。
サエランは小さくため息をつき、低い声で補足した。 「……ついてこい、だ。通じぬか」
そして辺りを警戒するように目を走らせる。
「……静かにしろ。ヤツらが戻ってくるかもしれない。この場所は、まだ安全ではない」
リオとクララは顔を見合わせた。
二人は、静かに頷くと、その足でエルフたちの後を追った。
歩き出して間もなく、クララが口を開いた。 「あの……さっきから、すごくいろいろ訊きたいことがあるんだけど……」
リオも頷く。「そうそう。今の話も気になるし、他にも……」
その言葉をさえぎるように、サエランが短く言った。
「“シャドウリングの歌に耳を貸すな”」
クララが瞬きをする。 「え……何それ? ことわざ?」
サエランは横目で彼女を見て、短く頷いた。
「“シャドウリングの歌に耳を貸すな”……それは、我らエルフの古い言い回し。シャドウリングとは、森に棲むとされる神秘的な存在で、歌のような声で耳元にささやきかけ、人の思考を惑わせると伝えられている。問いかけすぎるな、踏み込みすぎるな――つまり“好奇心を抑え、賢明に振る舞え”という意味だ」
クララが目を丸くしてから、やがて苦笑する。
「なるほど……“好奇心は猫を殺す”ってことね」
リオが肩をすくめた。 「どの世界にも、似たようなことわざがあるんだな」
後ろを歩いていたリィリスがくすっと笑って言った。
「猫……というのは分からないけど。でも、意味はきっと同じね」
二人とエルフたちは足を止めることなく、森の奥へと進んでいった。
その後方で、リィリスとカルナが小声で言葉を交わした。
「サエラン、急に無口になったわね……」
「ええ。さっきまでそこそこ話してたのに……もう面倒になったんじゃないかしら」
「気難しいところ、あるものね」
「でも悪気があるわけじゃないのよね。あれがサエランなりの優しさなんだと思う」
「ええ、きっとそう……でもあの二人、なかなか懐っこいわね」
どこかくすぐったそうに、リィリスが微笑んだ。
やがて、林は深い森へと変わり、空を覆う枝葉は日の光をさらに遮っていった。苔むした巨木の根本には、見たこともない菌類や、青白く光るキノコが点在している。時折、透明な羽を持つ小さな妖精のような生物が花の蜜を吸いながら空中を漂い、草陰からは毛むくじゃらの多足生物がこちらの気配を窺っていた。
奇妙な鳥の鳴き声や、風に揺れる樹々の軋みも、すべてがこの世界の「自然」の一部なのだと実感させる。
そして、森の奥へとさらに進んだ先――
目の前に現れたのは、まるで幻想の絵本から抜け出したかのような風景だった。
メタセコイアのような太くそびえる幹を持ち、天を突くほどの高さを誇る巨木が何本も並び立っている。その木々の中腹から高所にかけて、複数の木にまたがるように木造の住居が建てられていた。まるでアメリカの子どもたちが遊びに使うツリーハウスのようだが、こちらは遥かに洗練され、精緻な彫刻と草花で装飾されていた。
木々のあいだを繋ぐように吊り橋が渡され、上空にはささやかな明かりが灯る。
地上には、白銀の毛並みを持つ中型の四足獣――ルナリス・シルヴァと呼ばれる生き物たちが、穏やかに草を食んでいた。体高は1.2メートルほどで、鹿にも似た細身の姿。頭部には淡く光を放つ房毛があり、長い尾がゆったりと揺れている。
この森に生きる者たちが築いた、静謐で調和のとれた世界。
リオとクララは、思わず息を呑んだ。これが異世界の文明……そんな実感が、胸の奥で静かに広がっていった。
彼らは、森の中央にある広場へと案内される。
そこにはひときわ大きなツリーハウスがそびえており、そこから軽やかに舞い降りるように、ひとりのエルフが姿を現した。
エルフたちが“長老”と呼ぶその者は、若い女性のような外見をしていた。年齢を感じさせるものはどこにもなかったが、その瞳の奥には深い叡智と静けさが宿っていた。
「わたくしはレネア。この森の守人のひとり」
彼女は静かにそう名乗り、両手を組んだ姿でリオとクララを見つめた。
「あなたたちが森の均衡を乱す存在かどうか、精霊たちの声を借りて確かめましょう」
レネアが目を閉じ、胸元のペンダントに手を触れると、微細な光が彼女の周囲に舞い上がる。
彼女が使うのは“霊唱術”。自然と精霊に祈り、導きを得る術で、とりわけエルフたちが得意とする分野である。
風がざわめき、光が水面のように揺れる。
リオとクララの足元に、小さな草花が芽吹く。
クララが小声でつぶやいた。 「これ……魔法、ですか?」
レネアはゆっくりと首を振った。
「いいえ。霊唱術は“魔法”とは異なります。魔法が術者の意志で力を捻じ伏せるものなら、霊唱術は精霊と対話し、彼らの助力を得るための“祈り”なのです。森の呼吸に耳を澄ませ、風の声に心を開き、精霊の返答を待つ――その一連の儀は、自然との深い調和の上に成り立っています」
クララが首をかしげると、レネアは言葉を続けた。
「魔法とは、意志の力で世界に働きかけ、力を命じるもの。術者が主であり、力は従うべきものとして扱われます。しかし霊唱術は違います。我らエルフは精霊たちを命じることはしません。霊唱術は、森や風、水、光といった自然の精霊たちに祈り、願い、耳を傾け、その返答を受け取る術なのです」
クララは驚いたように目を見開いた。 「……命令じゃなくて、お願い、なんですね」
「そのとおり。精霊は意志を持つ存在。強要されることを好まず、むしろ耳を澄まし、心を開く者にのみ応えてくれます。だから霊唱術は“祈りの術”とも呼ばれます」
レネアの周囲では、まだ光の粒がそよ風のように舞っていた。リオとクララは、その神秘的な光景にただただ見入るしかなかった。
「意思ではなく、調和の中に宿る力――それが霊唱術なのです」
リオとクララは息を呑んだまま、静かに頷いた。
エルフたちによって簡素な食事が振る舞われた。木の実や果実をふんだんに使った献立で、野趣に富んでいながら、どれも洗練された味がした。
やがて食後の茶が振る舞われ、レネアがふと微笑んで口を開いた。
「あなたたちは……年の頃は十代かしら」
「はい。十九歳です」クララが頷いた。
レネアはやや首を傾げた。 「その年齢で“成人”なのですね」
リオが頷いた。 「はい。僕たちの世界では、十八~二十歳頃が成人に近い感覚です」
レネアはしばし考えるように瞳を細め、そして静かに続けた。
「私たちエルフは、百年以上を経てようやく成人と見なされます。そして、その後も長い時間を生きます。八百年から千二百年……それが私たちの寿命です」
クララは目を見開いた。 「そんなに……?」
リオも呆然としたように息を漏らす。 「僕たちなんて、長生きしても百年ちょっとですよ」
クララが苦笑交じりに言う。 「じゃあ、私たちって、エルフから見れば……」
「……短命の種族に映るかもしれませんね」
レネアはゆっくりと首を振った。 「けれど、どんな命も、それぞれに与えられた時間を生きています。長さではなく、その時がどれほど真摯で、輝きに満ちているかが大切なのです」
リオとクララはその言葉に、深く頷いた。
「……それで、レネアさん」リオが静かに口を開いた。「僕たちは、どうしてここに来たんでしょうか」
レネアは視線を森の彼方へと向けた。 「分かりません。けれど、時折、異なる世界からこちら側へと来る者がいるのです。私たちは彼らを“越境者”と呼びます」
クララが目を見開いた。 「じゃあ、私たちみたいな人、他にも……?」
「ええ。頻繁ではありませんが、確かに存在します。きっと、あなたたちの世界にも、逆にこちらから越えた者がいたのでしょう」
クララがはっと息を呑んだ。 「……じゃあ、“エルフ”が出てくる神話や伝説って、私たちの世界にいた“越境者”を見た誰かが……」
リオが言葉を継ぐ。 「実際に、そういう異世界の存在を見た誰かの記憶が、語り継がれた結果かもしれない……?」
レネアは静かに微笑んだ。