第一章 第2話 失った朝
眠れなかった。
樹上の家は、風が吹くたびにかすかに揺れた。床板の下で枝がきしみ、どこか遠くで夜の鳥が短く鳴く。隣の寝床からは、クララの寝息が聞こえていた。規則正しく、ときどき小さく途切れては、また続く。
リオは毛布の中で、ポケットから出した鍔を握っていた。鉄は、手のひらの熱をゆっくりと吸っていく。
目を閉じると、浮かんでくるのは森でも、槍でも、エルフたちの顔でもなかった。赤い革張りのブース席。紙ナプキンに滲んだシロップ。クララの車のカーステレオから流れていた、名前も知らない曲。
たった一日前のことだった。そのはずだった。それなのに、もうずっと遠い。
明日、何があったのかを聞かせてください。レネアはそう言った。話せることは、どれだけあるだろう。リオは、あの日のことを初めから順に思い出してみようとした。そうしていないと、自分がどこから来たのかさえ、指のあいだからこぼれていきそうな気がした。
あの日も、夢から始まったのだ。
* * *
竹の葉が、頭上で鳴っていた。
細い道を、少年が二人、競うように駆けていく。一人は小柄で身が軽く、もう一人は背が高く、足運びこそ不器用だが一歩が大きい。手には、どちらも木刀を握っていた。
「遅かどが!」
「わいが先走っとじゃ!」
日本語のようだった。ただ、訛りが強すぎて、半分も意味が取れない。二人の名前も、聞こえてこない。竹林を抜けた先の開けた場所で、二人は向かい合い、木刀を構えた。構えは、それぞれ少しずつ違っていた。それでも、打ち合わせるたびに乾いた音が、竹の幹に跳ね返った。
景色が滲み、別の光景に変わった。
蒸し暑い夏の日だった。二人は滝の下に並んで立ち、落ちてくる水に肩を打たせながら、何がおかしいのか大声で笑っていた。濡れた稽古着が肌に貼りつき、脛には泥が跳ねている。
「わいの剣は、ちっとは重うなったか」
「知らん。わいの方が、よっぽど筋がよかど」
言葉の端に、羨ましさと、それを隠そうとする照れが混じっていた。
また景色が変わる。
雨の匂いのする午後。濡れた土の上に、太い杭のような立木が一本立っている。そのすぐ隣には、二本の棒を斜めに交差させて縛った台が二つ並べて据えられ、その上に細い木を何本も束ねたものが横に渡してあった。
もう少年ではなかった。肩も首も厚くなった二人の若者が、それぞれの木の前に立っていた。一人は立木に向かい、木刀を肩の上へ担ぐように構えると、腹の底からの叫びとともに、右へ、左へと幹を打ち据えていく。もう一人は横木の束の前で、さらに高く振りかぶり、叫びと同時に真上から叩き落とす。
打つ木も、打ち方も違った。それなのに二つの音は交互に、一つの拍子を分け合うように響いていた。竹林を駆けていたころと同じ息だった。
打ち終えた二人は、並んで木刀を下ろした。
「迷いが、のうなったな」
「わいこそ。音だけで、木が割れそうじゃった」
「右と左に叩くばっかいで、よう飽きんな」
「上から叩くばっかいの男に、言われとうなか」
柄にもなく互いを褒め、すぐにけなし合ったのが気恥ずかしいのか、二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
「うちで飯を食うていけ。おっかんが待っちょる」
「そいは、ありがたか」
夕暮れの小道を、二人は肩を並べて歩き出した。土の匂いと、近づく雨の気配。背中が、夕陽の中へ溶けていく。
小道の先で、どちらかが何か言い、もう一人が声を上げて笑った。その笑い声が、雨の匂いの中で少しずつ遠くなっていく。二人の背中も、夕陽も、竹の葉の音も、水に落とした墨のように滲んでほどけていった。
リオは目を開けた。
額に汗が浮かんでいた。自分の部屋だった。見慣れた天井、壁に画鋲で留めたままの描きかけのスケッチ、枕もとのデジタル時計。数字は午前四時を少し過ぎたところを示していた。
心臓が、まだ速く打っていた。怖い夢を見たわけではない。それなのに、見知らぬ二人の声と、木刀を振る腕の動きだけが、妙に生々しく身体に残っていた。
階下へ降り、キッチンの明かりをつけずにコップへ水を注いだ。冷蔵庫のモーター音だけが、一定の調子で唸っている。冷たい水を喉に流し込みながら、リオは竹の葉の音を思い出そうとして、すぐにやめた。思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる。立木を打つ音。土の匂い。木刀の重みまで、手のひらに残っている気がした。
夢にしては、鮮やかすぎた。
窓の外は、まだ暗かった。住宅街の屋根の向こうに、月が一つだけ浮かんでいる。
今日は博物館の特別展の初日だった。太平洋戦線の遺品を集めた展示に、ナカムラ家からも一点だけ貸し出している。曾祖父の軍刀についていた、古い鍔だ。大学に入るとき、父から「お前が持っておけ」と渡されたもので、それまで家で話題になった覚えもない。引き出しの奥にしまわれていた、古い鉄の塊。リオにとっては、それだけのものだった。
本当なら、開会式に顔を出すのは父の役目のはずだった。
「貸し出したのはお前の名義だろう。俺はほら、こういうのは苦手だから」
博物館から案内状が届いた晩、父はそう言って、あっさり役目をリオに譲った。そのときの悪びれない顔を思い出し、リオは空のコップをシンクに置いた。
結局、そのまま眠り直すことはできなかった。
シャワーを浴び、クローゼットの奥から、式典のために母が出しておいてくれたシャツを引っぱり出した。袖を通し、父から借りたネクタイを首にかけて、鏡の前で三度結び直した。三度とも、結び目が斜めに傾いた。四度目で諦めて、ネクタイは丸めてポケットに押し込んだ。来賓といっても、名簿の端に名前が載っているだけだ。誰もネクタイの結び目など見ないだろう。
* * *
スマートフォンが震えたのは、七時を回ったころだった。
「おはよう。まさか寝坊してないでしょうね」
クララの声は、朝から遠慮がなかった。
「起きてるよ。四時から」
「なにそれ、張り切りすぎ。準備できてるなら拾ってあげる。博物館の前に朝ごはん行こう」
「家で食べるつもりだったんだけど」
「いいの。車は出すから、そのかわり朝ごはんはリオのおごりね」
返事をする前に、通話は切れていた。
リオは画面を見下ろして、頭を掻いた。断る理由は、どこにもなかった。家族ぐるみの付き合いで、物心ついたころからずっとこうだった。大学で学部が分かれてからは、顔を合わせる機会もめっきり減った。
それでもクララは、日本史の資料が読みたいと言ってはナカムラ家に通ってきて、祖父や父に日本語の読み書きを教わっていく。リオが自分の部屋から降りていくと、居間のテーブルで祖父と古い手紙の崩し字をのぞき込んでいる、ということもよくあった。
昔と変わらない距離のように見えて、少しずつ変わっている。そのことに気づかないふりをするのに、リオは少し慣れてしまっていた。
十五分後、家の前にクララの車が停まった。
玄関で靴を履いていると、リビングのソファから父が腰も上げずに手を振った。
「じゃあ、ナカムラ家代表。頼んだぞ」
台所から母も何か言ったが、リオは生返事をしながら玄関のドアを開けた。
助手席に乗り込むと、後部座席に丸めたポスターの筒と、付箋だらけのファイルが積んであった。
「それ、展示のパネル?」
「予備の分。昨日の夜、一枚だけ誤字を見つけちゃって、刷り直してもらったの」
クララは今回の特別展で、日本語資料の翻訳の手伝いと、解説パネルの作成を任されていた。大学の課外研究の一環だと言っていたが、準備の終盤は、ほとんど彼女一人で回していたようなものだった。リオも貸し出し元として何度か手伝いに呼ばれたものの、話すのはどうにかなっても、古い手書きの文字となるとまるで歯が立たない。リオが一行で音を上げる文書を、クララは辞書も引かずに読み下していった。
「ネクタイは?」
「……ポケットの中」
クララは前を向いたまま、肩を震わせて笑った。
* * *
ダイナーは、町の外れの古い店だった。赤い革張りのブース席と、銀色のカウンターが朝日を跳ね返している。
メニューを開くより先に、クララはもう展示の話を始めていた。寄せ書きの旗の地名のこと、写真の裏に残っていた住所のこと。
リオはパンケーキを注文し、コーヒーに砂糖を落とした。歴史の話をするときのクララは、身ぶりが一回り大きくなる。フォークの先で宙に地図を描き、声が半音高くなる。子どものころから変わらないその癖を、向かいの席から眺めているのが、リオは嫌いではなかった。嫌いではない、という言い方で、いつも自分をごまかしていた。
ひとしきり話し終えると、クララは何の断りもなく、リオの皿からパンケーキの端をひと切れさらっていった。リオは苦笑した。その屈託のなさに、四時に目を覚ましてから胸に残っていた重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
クララはカップを置き、窓の外に目をやった。店の前の駐車場に、朝の光が斜めに差し込んでいる。
少し黙ってから、彼女は声を落とした。
「……私のひいおじいちゃんは、海兵隊にいたの。硫黄島から帰ってきた人なの」
リオは顔を上げた。クララがその話をするのは、初めてだった。
「地獄みたいだったって。仲間もたくさん死んだ。でもね、日本兵のことは、最後まで悪く言わなかったの。死にものぐるいで戦った相手として、敬意を持ってた。晩年まで、その話だけは変わらなかった」
リオは何も言えず、ただ頷いた。
自分の曾祖父のことを、リオはほとんど知らない。家に一枚だけ残っている、軍服姿の色褪せた写真。父から聞いた、南方で戦ったという話。その人が敵をどう思っていたのか、何を誇りにしていたのか、考えたことさえなかった。今日、あの鍔の横に立つことになっているのに。
「だから私、あの時代を一色で塗りたくないの。血と泥だらけだったけど、そこにだって、人の誇りや意地はあったはずだと思うから」
クララは、パンケーキにナイフを入れかけていたリオの顔を、じっと見た。
「ねえ。リオって、ときどき本当に『今』の人に見える」
「……どういう意味だよ」
「悪い意味じゃないの。昔の武士とか、戦場にいた人たちと比べると、ずっと柔らかいっていうか。刀を持たせるより、本を持たせたほうが似合う人」
リオは目を逸らして、笑った。
「褒めてるのか、それ」
「七割くらいはね」クララも笑った。
「当たり前のことなんだけど、ときどき不思議になるの。ひいおじいさんと同じ血が流れてるのに、生きてる場所がこんなに違うんだなって」
「……そうかもな」
リオは少し考えてから、訊き返した。
「じゃあ、クララは? 戦場を生きた人なのか」
クララは瞬きをし、それから目を細めた。
「ううん。私は、あの人たちが何を見て、何を抱えてたのか、知りたいだけ」
バターが、パンケーキの上でゆっくりと溶けていった。隣のブースでは、新聞を広げた男がスクランブルエッグを崩している。カウンターでは、いつもの老人がマグを両手で包み、若い店員と昨夜の野球の話をしていた。
この店では、毎朝同じことが繰り返されている。今朝も、その続きのはずだった。
「……ちょっと早いけど、そろそろ行こっか」
クララが言った。リオは紙幣を数枚テーブルに置き、チップを添えた。ブース席の革が、立ち上がるときに小さく軋んだ。
ドアを開けると、光が顔に当たった。駐車場のアスファルトが、もうほんのりと温まりはじめていた。
クララの車に乗り込むと、いつものプレイリストが流れ出した。淡々と旋律が続く、歌のない曲だった。エンジンがかかり、車はゆっくりと走り出した。
リオは窓の外を流れていく家並みを眺めながら、ポケットの中で丸まったネクタイを指先でいじっていた。明け方の夢のことは、クララには話さなかった。話すほどのことでもない、と思っていた。
博物館までは、十分もかからなかった。




