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フェンデリアの空の下で  作者: 甘栄堂
第一部 サヴェルナの異邦人

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第一章 第1話 借りた言葉

 円は、少しずつ狭まっていた。


 七本の穂先が、薄明かりの中でわずかに揺れている。リオはクララの前に肩を入れたまま、足の位置すら変えられなかった。背中で、クララの指がシャツの布をつまんでいた。


 先頭の一人が唸り、槍を引いた。突く前の動きだと、身体のどこかが理解した。


 刹那、空気を裂く音がした。


 先頭の影が喉を押さえ、身体を折った。膝が土に落ち、そのまま前へ倒れる。首の脇から、細い矢が突き出ていた。


 円が崩れた。残った者たちが甲高く吠え、四方を見回す。別の方角から二本目が飛び、一人が倒れる。間を置かずに三本目。三つの身体が地に伏すと、残りは槍を放り出し、四つ足に近い格好で林へ散った。最後に、耳を伏せていたいちばん小さな影が、振り返りもせずに茂みへ消えた。


 音が消えた。


 リオとクララは、槍を向けられていた場所から一歩も動けずにいた。倒れた一人が土を掻き、這おうとして、止まった。土に、爪の跡が四本残った。昨日、道の上で見たのと同じ形だった。


 ここは、あの者たちの家だった。自分たちが勝手に上がり込み、水を飲み、眠った家だった。


 背後の葉が揺れた。風の向きとは違う揺れ方だった。


 木陰から、三つの人影が出てきた。灰緑の外套をまとい、背に弓を負っている。距離が縮まるにつれ、尖った耳と、陽に焼けたことのないような白い肌が見えてくる。人の形に近い。だが、同じではない。


「……エルフ」


 クララの声は、ほとんど息だった。リオは何も言わなかった。否定する言葉が見つからなかった。


 先頭の男がクララの前に立ち、短く何か言った。柔らかな響きなのに、どこで区切れるのかも分からない。


「……助けてくれて、ありがとう」リオは英語で言った。


 男の表情は動かなかった。リオは、日本語で繰り返した。


「あ、ありがとう、ございます」


 発音が怪しいのは自分でも分かった。やはり、何も通じなかった。


 クララが困ったように首を横に振ってみせる。男の視線が彼女の耳もとに落ち、それから服へ移った。Tシャツの胸に並ぶ英字と、ジーンズの縫い目。そこで、しばらく止まる。男は振り返り、後ろの二人と短く言葉を交わした。二人が同時に懐へ手を入れ、金属の触れ合う小さな音がした。


 濃い金の髪を長く編んで背に垂らした物静かな女が、クララの首に。髪を短く切った女が、リオの首に。手早く、革紐をかけた。紐の先には爪ほどの青い石が下がり、表面には細い曲線が刻まれている。塔の足もとで見た線に、どこか似ていた。石は肌に触れると、ほんのりと温かかった。


 先頭の男が、もう一度口を開いた。


「越境者、か」


 響きは、さっきと変わらない。耳に届く音は、少しも意味を結ばない。それなのに、音が胸の奥に落ちたところで、意味だけがふわりと浮かび上がった。誰かの手が、言葉の中身だけを直接置いていったように。


「……本当に、助けてくれて、ありがとうございます」

「命を救われました」とクララも頭を下げた。


 三人は短く視線を交わした。


「サエランだ」と先頭の男が言った。

「カルナ」と編み髪の女。

「私はリィリス」


 短髪の女が、少しだけ口もとを緩めた。


「リオ・ナカムラ」


 リオは胸に手を当てた。


「クララ・モリスです」


 サエランは、倒れた者たちの方へ一度だけ目をやり、それからリオに視線を戻した。


「刺されたか」

「……いや。槍は、当たってない」


 サエランの目が、クララの肘の擦り傷と、リオのこめかみに残った血の跡を順になぞった。


「その傷は」

「森で目が覚めたときには、もう傷があって」

「歩けるか」

「歩ける」とクララが答えた。掠れていたが、はっきりした声だった。


 サエランはそれで納得したように頷いた。それから、今度はリオの顔をじっと見た。髪に目を留め、瞳をのぞき込むようにして、無言のまま弓を引き絞る仕草をしてみせる。


「お前は、髪と目の色が濃い」と彼は言った。

「ダークエルフと見誤って、危うく射るところだった」

「や、やめてくれ……」


 リィリスが声を立てて笑った。


「冗談よ。サエランは、見境なく射ったりしないから」


 カルナが、リオの顔を静かに見比べた。


「髪と目は、たしかに近いわね。肌の色は、まるで違うけれど」


 クララが、リオの脇腹を肘でつついた。


「気をつけてね、ダークエルフのリオくん」

「……エルフの冗談は、心臓に悪いな」


 サエランは鼻を鳴らし、森の奥へ目を向けた。


「次は射るかもしれん」


 少し間を置いて、付け足す。


「冗談だ」


 クララの口もとが、わずかに引きつっていた。


 サエランは、手のひらを下に向け、水平にすっと振った。


 リオとクララは顔を見合わせた。


 サエランは額に手を当てた。


「……ついてこい、と言ったのだ。これも通じんのか」


 それから周囲に目を走らせ、声を落とす。


「静かにしろ。散った連中が戻るかもしれん。ここはまだ安全ではない」


* * *


 サエランの選ぶ道は、リオの目にはどこにも見えなかった。それなのに、三人の足は迷うことなく倒木を越え、沢を渡り、茂みの切れ目を縫っていく。リオとクララは、その背中を見失わないようにするだけで精一杯だった。


 窪地が木々の向こうに沈み、背後から何の音も聞こえなくなったころ、三人の歩みが、ほんの少しだけゆるんだ。リィリスが両腕を頭の上へ伸ばし、カルナが弓を背に負い直す。


 リオは、ずっと喉につかえていたことを口にした。


「さっきの……ダークエルフって、何なんですか。俺、そんなに似てるのか」


 サエランは足をゆるめ、道の脇に立つ古木に手を置いた。しばらく黙っていたが、やがて、誰に聞かせるともなく語りはじめた。


 昔、エルフは一つの民だったと伝えられている。森に生きる民として。ダークエルフと呼ばれる者たちも、もとはその中にいた。あるとき、森を出ることを選んだ者たちがいた。平地に下りて土を耕し、鉄を扱い、交易の道を広げた。森と折り合って生きるより、自分たちの手で道を拓くことを選んだのだ。


 平地には木陰がない。強い陽射しと、火と金属の煙の中で代を重ねるうち、外へ出た者たちの肌も髪も、体つきも、少しずつ変わっていった。


「森に残ったのが、我々だ。外へ出た者の末裔が、今ダークエルフと呼ばれている」


 自分たちよりはるかに長く生きた者たちから、歌や語りとして受け継がれてきた話だ、とサエランは言った。それ以上は語らなかった。


 ふたたび歩き出してまもなく、クララが口を開いた。


「あの……ほかにも、訊きたいことがたくさんあるんですけど」

「俺も。この石のこととか――」


 サエランは足を止めずに、短く言った。


「歌が聞こえても、耳を貸すな」

「……歌?」


 答えはなかった。少し遅れて、カルナが静かに言葉を添えた。


「この森には、歌や囁きで人を誘うものがいると言われているの。気を引かれて近づいた者は、戻ってこない」


 クララは目を丸くし、それから肩をすくめた。


「好奇心は猫を殺す、ってことね」

「どこの世界にも、似たような戒めはあるんだな」とリオ。


 リィリスがくすりと笑った。


「呼び名は違っても、言いたいことは同じってことね」


 それきり、サエランは口を閉ざした。後ろを歩くリィリスとカルナが、声を潜めて言葉を交わすのが聞こえた。


「急に黙ったわね」

「さっきまでは、あんなに話していたのに」

「ああいう近づき方しか、できない人だから」


 どこかくすぐったそうに、リィリスが笑った。


 しばらくすると、リィリスは前を行く背中を気にしながら、リオとクララに小声であれこれと教えはじめた。苔は踏まずに、根の上を行くこと。倒木の下には手を入れないこと。


 クララは頷きながら、何度も手帳を出そうとしては諦めた。


 道の脇の幹に、琥珀色の樹液が玉のように滲んでいた。陽を受けて、内側からかすかに光っている。リオが思わず指を伸ばしかけたとき、リィリスの手が、ぴしゃりとその甲を叩いた。


「それ、触ると三日は指が離れなくなるよ」

「離れなく……?」

「くっついて、取れないの。去年、うちの弟がやった」リィリスは真顔で言い、それから噴き出した。

「泣きながら、三日間ずっと枝と手をつないでた」


 前を行くサエランが、振り返りもせずに言った。


「黙って歩け」


 リィリスは舌を出した。それでも次の分かれ道では、また小声で何かを教えてくれた。


 森は、奥へ進むほど深くなった。巨木の根もとでは青白く光る茸が点々と灯り、透きとおった羽の小さな生き物が花のまわりを漂っていた。


* * *


 村は、木の上にあった。


 見上げるほどの巨木が何本も立ち並び、いくつもの木にまたがるように木造の家が建っていた。枝と枝のあいだには吊り橋が渡され、梁には細かな彫刻が施されている。遊びの延長ではない、長い時間をかけて暮らしてきた場所だった。


 根もとの草地では、白銀の毛並みをした四つ足の獣が、鹿のように首を垂れて草を食んでいた。頭の上の房毛が、淡く光っている。


 リオとクララは、口を開けたまま立ち尽くした。


 村の中央の広場で、一行は足を止めた。ひときわ高いところにある家の、枝葉のあいだから、誰かが降りてきた。梯子も縄も使わず、枝から枝へ、落ちるように軽く。草地に降り立ったとき、足音はほとんどしなかった。


 若い女だった。少なくとも、そう見えた。だが、彼女がこちらに目を向けた途端、広場の空気がわずかに引き締まった。


「わたくしはレネア。この森の守人のひとりです」


 静かな声だった。


「あなたがたが、この森の均衡を損なう方々かどうか。少しだけ、確かめさせてくださいね」


 レネアは目を閉じ、胸もとのペンダントに指先を触れた。風がざわめき、淡い光の粒が彼女のまわりに集まってくる。足もとの草のあいだから、小さな芽がいくつも顔を出し、見る間に白い花を開いた。


「……魔法、ですか」とクララが声を落として尋ねた。


 レネアは目を開け、ゆっくりと首を振った。


「いいえ。霊唱術《リラエス》といいます。精霊に命じるのではなく、願い、耳を澄ませて、応えを待つもの。……祈りに近いものです」


 光の粒が、そよ風のように散っていった。レネアは二人に向き直り、今度ははっきりと微笑んだ。


「よく、ここまで歩いてきましたね」


 責める響きは、どこにもなかった。


 それだけで、リオの膝から力が抜けそうになった。


 食事は、樹上の家の一つで振る舞われた。木の実を潰して練った柔らかな団子、名前も知らない甘い果実、香草を浮かべた温かい汁。リオは椀を両手で包んだ。熱が指に染みていく。そうして初めて、自分の手がまだ震えていたことに気づいた。


 隣で、クララが汁をひと口すすり、それきり動かなくなった。うつむいた顔から、雫が一つ、椀の中へ落ちた。リィリスが何か言いかけ、カルナに袖を引かれて口を閉じた。


 誰も、急かさなかった。


 食後の茶が出されるころ、レネアが二人の歳を尋ねた。十九だと答えると、レネアは少し首を傾げた。


「人間なら、もう一人前と見なされる頃ですね」

「俺たちの国だと、二十一でやっと大人扱いって感じです」とリオが言った。


 レネアの話では、エルフは百年を過ぎてようやく成人と見なされ、その後も六百年から七百年を生きるのだという。


「……私たち、長生きしても百年ちょっとですよ」とクララが言った。

「それぞれに与えられた時間があります」とレネアは答えた。

「長さだけで、比べられるものではありません」


 茶が冷めかけたころ、リオはようやく本題を口にした。


「俺たちは……どうして、ここに来たんでしょうか」


 レネアは、窓の外の森へ視線を向けた。


「分かりません。ただ、ときおり、異なる世界からこちら側へ来る者がいるのです。わたくしたちは、その人たちを越境者と呼んでいます」


 越境者。サエランが最初に口にした言葉だった。リオは思わずサエランを見たが、彼は腕を組んだまま、壁ぎわで目を閉じていた。


「じゃあ、私たちみたいな人が、ほかにも……?」とクララが訊いた。

「ええ。多くはありませんが、たしかに」レネアは頷いた。

「きっと、あなたがたの世界にも、こちらから越えていった者がいたのでしょう」


 クララが、目を見開いた。


「……待って。じゃあ、私たちの世界の神話や伝説に出てくるエルフって――」

「こっちから向こうへ渡った誰かを、昔の人が見て」リオが言葉を継いだ。

「それが、語り継がれたってことか……?」


 レネアは、そのどちらにも頷かなかった。首を振ることもしなかった。ただ、静かに微笑んで、湯呑を卓に置いた。


 その微笑みが、一瞬だけ遠くを見ていたような気がした。


「俺たち、家に帰りたいんです」リオは言った。

「帰る方法を、知りませんか」


 レネアは、すぐには答えなかった。窓の外で、吊り橋がかすかに軋んだ。


「帰る方法を、わたくしは知りません」と彼女は言った。

「嘘を言って安心させることは、したくないのです」


 クララの肩が、小さく落ちた。


「けれど、あなたがたがどうやってここへ来たのか、手がかりを一緒に探すことはできます。今夜はまず眠って、明日、何があったのかを聞かせてください」


 リオは、何か言い返そうとして、やめた。知らない、と彼女ははっきり言った。それなのに、胸に残ったのは「明日」という言葉のほうだった。すがりついているのだと、自分でも分かっていた。それでも、手放せなかった。


 用意された寝床には、乾いた草の香りがする敷布と、柔らかな毛布があった。横になると、樹上の家が風にかすかに揺れた。


 灯りが落とされたあと、隣の寝床から、クララの小さな声がした。


「あの小屋……あの子たちの家、だったんだよね」


 リオは天井の梁を見上げた。土を掻いていた指と、振り返らずに茂みへ消えた小さな背中が、闇の中に浮かんだ。


「……ああ」


 それ以上は、どちらも何も言わなかった。


 やがて、隣の寝床から寝息が聞こえはじめた。


 リオは喉もとの青い石に触れ、それからポケットの鍔に触れた。どちらも、温かかった。


 目を閉じると、森のざわめきが、ゆっくりと遠ざかっていった。

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