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【第一章:博物館の企画】第三話:目覚めの地

 空気が違った。乾いた、冷たい空気


 リオ・ナカムラは、土と草の匂いに満ちた湿った地面に、うつ伏せのまま目を覚ました。


 そして、その手には何か冷たい金属の感触があった。

 指をゆっくりと開いてみて、リオは言葉を失った。

 それは、あの鍔だった。博物館に展示されていた、曾祖父の遺品。


 自分の手にあるはずのないそれを、どうして持っているのか分からなかった。持ち出した記憶も、ケースから取り上げた記憶もない。確かに、展示の中に置かれていたはずのものだった。


「……なんで、これが……」


 リオは混乱したまま鍔を握りしめ、辺りを見渡した。どこかで、何かがねじれたような感覚だけが残っていた。頭の奥で誰かの叫び声が木霊しているような感覚があったが、それもすぐに遠ざかっていった。視界の上半分を覆っていたのは、木々の影と、まるで異国のような薄青の空。


 彼は、何が起きたのか分からなかった。いや、何かが起きたのは確かだった。だが、どうして自分がここにいるのか、記憶の断片が霧の中に沈んでいた。


 背中に少し湿った感触。仰向けになると、風が肌を撫でた。どこか遠くで水の流れる音と、鳥のような声が聞こえる。


 傍らで、誰かが呻くような声を上げた。


「……リオ?」


 クララ・モリスだった。彼女は少し離れた場所で倒れていたが、金色の長い髪が地面に広がり、風でわずかに乱れていた。青い目を細めて光を避けるようにしながら、ゆっくりと身を起こし、乱れた髪を手でかき上げる。鼻筋の通った整った顔立ちは、周囲の異質な風景の中でもひときわ目を引いた。


「ここ……どこ?」


 リオは返答できなかった。だが、脳裏の奥に引っかかるものがあった。


 ――閃光のようなものを見た気がする。

 ――風船がはじけるような、乾いた破裂音。


 それだけだった。


 それ以外の記憶は、まるで引きちぎられたように欠けていた。何かが起こったのは確かだが、爆発だったとは思い至らない。体のどこも痛くない。衣服に焦げ跡も汚れもない。


「誰かの悪ふざけ?」


 クララもまた、信じられないという顔で周囲を見回していた。


「夢……? にしては妙にリアルすぎる」


 二人は、言葉にできない違和感と混乱を胸に、互いを見やった。


「これ、絶対夢だよね」


 クララが、笑いながら言った。だがその笑みには、戸惑いや現実逃避の色が強くにじんでいた。

 リオも苦笑いを浮かべた。


「じゃあ、試してみるか」


 彼は自分の腕をつねってみせた。


「……痛い」


 クララもそれに倣った。


「……うん、私も。痛覚、ある」


 リオはクララの肩にそっと手を置いた。確かな温度と触覚があった。


「……夢じゃ、ないよな」


 二人の表情から笑みが消える。

 現実味のない風景、異質な空気、それでも痛みや感覚は確かに存在し、互いの存在は曖昧な幻ではなかった。


「じゃあ……ここって、どこ?」


 誰に聞かせるでもなく、クララがつぶやいた。その声には、恐れと好奇心が入り混じっていた。木の形も、草の匂いも、すべてが異質で、現実味に欠けていた。


 二人はただ、立ち上がり、互いを見やった。背後には、崩れかけた石造りの小塔のような構造物があり、その足元には、幾重にも刻まれた文様が半ば苔に覆われながら浮き出していた。


 ――見たこともない文字。


 クララが石面に指を伸ばしかけたところで、草むらの奥から枝が折れる音が響いた。

 二人は、身構えた。


 だが、現れたのは思いのほか小さな存在だった。


 草むらの影からぬるりと現れたそれは、手のひらほどの大きさの生物だった。四本脚で歩くが、体表はなめらかな青緑色の鱗に覆われ、背中には淡く光る膜のような翼が二対折り重なっていた。羽虫のように見えるそれは、リオの足元でぴたりと止まり、頭を小さく傾ける。


「……なにこれ。見たことない」


 クララが小声で呟いた。

 生物は攻撃する様子もなく、ただじっと彼らを観察しているかのようだった。触れられそうな距離にいたが、どこか現実感のない姿だった。昆虫とも小動物とも言いがたく、形容のしがたい生命体。


 それは、まさにこの世界が、彼らの知る地球ではないという証だった。

 その現実が、じわじわとクララの表情を変えていった。


「……ウソでしょ……。これって、ほんとに……」


 彼女は後ずさるようにして数歩下がり、頭を振った。手でこめかみを押さえ、言葉にならない声を漏らす。


 リオは呆然とその様子を見つめたあと、ふと何かを思い出したようにポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出した。


 画面を点灯させる。だが、画面の右上には「No Service」の表示。圏外だった。

 Wi-Fiも、GPSもつながらない。現在地を示す地図も、灰色の背景にポツンとカーソルが浮くだけだった。


 クララが、息をつくように言った。


「やっぱり……ここ、普通じゃない。どこにも連絡できないなんて」


 あたりを見回しても、建物の影も人工物の気配もない。広がる草原、風に揺れる林、そして遠くに見える青黒い山並み。


 空は澄んでおり、太陽の高さからして昼を過ぎたあたりのようだった。

 リオがスマートフォンをしまい、静かに言った。


「……とにかく、動かないと始まらない」


 クララはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「うん。じっとしてても、どうにもならないもんね」


 二人は、互いの存在を再確認するように顔を見合わせると、ゆっくりと足を踏み出した。

 移動を始めて間もなく、彼らは再び奇妙な光景に出くわした。


 木々の間を抜けると、遠くに首の長い獣の群れが見えた。背中には硬質の突起が並び、体躯は馬の倍はある。水辺に集まり、首を上下に振りながら水を飲んでいる。動きは穏やかで、こちらに危険を示す素振りはなかった。


「……あれ、見たことあるような……いや、ないか」

「映画の中のファンタジー生物って感じ」


 クララが小声で答える。

 二人はその場を静かに離れ、迂回するようにして進んだ。


 その後も、翼の生えた獣や、木の上から吊り下がるように眠る六脚の毛皮生物などを目撃したが、いずれもこちらに注意を払う様子はなく、彼らはできる限り目立たぬよう慎重に歩を進めた。


「それにしても、どっちに行けばいいのか……」


 クララが立ち止まり、周囲を見回す。


「とりあえず、西かな」


 リオは太陽の位置を見てつぶやいた。


「西? なんで」

「西部劇でさ、追われたアウトローって西に逃げるイメージあるじゃん?」


 クララは眉をひそめた。


「……私たち、アウトロー?」

「いや、まあ、なんとなく」


 クララは納得しかねた表情を浮かべたが、やがて肩をすくめた。


「……じゃあ、西へ行きましょうか、ミスター・アウトロー」


 歩きながら、二人はあれこれ推理を重ねた。


「タイムトラベル?」

「いや、でも未来でも過去でもなさそう……文明がないし」

「じゃあ、パラレルワールド?」

「死後の世界って可能性は?」

「でも、死んでるなら痛みなんか感じないでしょ」

「じゃあ、宇宙人にさらわれた?」

「やめて、余計に怖くなる」


 問いは尽きなかったが、答えはまだ遠くにあった。

 やがて、空は夕暮れに染まり始めた。長く伸びた影が野に落ち、あたりの温度もゆるやかに下がっていく。


 そんな中、林の向こうに低い構造物が見えてきた。リオとクララは警戒しつつも、足を止めず近づいていく。


 それは、小さな集落のようだった。

 枝や土を編んだ粗末な壁。小石を積み上げただけの基礎。丸く刳り貫かれた小さな出入口。その構造は、まるでアフリカ奥地の伝統的住居を連想させた。


 背の低い建物が数軒、互いに距離を置きながら点在しており、その外側には、地面に何本もの槍のようなものが突き立てられていた。よく見ると、その先端には動物の頭蓋骨が掛けられている。


「……村?」


 クララが声を潜めた。


「でも……誰もいないみたいだな」


 リオは周囲を見回した。


 風に乾いた草が揺れる音だけが聞こえる。住居はどれも背丈が低く、人間には不自然に小さい。だが、一定の構造と配置からは、ある程度の知性を持った何者かの生活の跡が感じられた。


「まさか、動物じゃないよね……」

「さあな。でも、ここに戻ってくるとしたら……」


 二人は、茜色の空の下、不気味な静けさに包まれたその部落を見つめていた。

 ふと、クララが腹を押さえるように手を置いた。


「そういえば……朝食べたっきり、何も口にしてないよね」


 リオも口元をぬぐいながら頷いた。


「水も飲んでない。そろそろ、なんとかしないとヤバいな」


 二人は相談の末、リオが集落の入り口に立ち見張りをし、クララが中を調べることになった。

 クララは小柄な住居に身をかがめて入っていった。内部には乾いた土の床があり、動物の毛皮が敷かれている。壁際には、粗雑だが機能性を感じさせる木製や石製の道具が散乱していた。


 素焼きの壺の中を覗くと、いくつかには木の実や干し肉、水が張られていた。


「……これ、食べていいものかな」


 クララは手に取った干し肉と水を見比べたが、腐敗臭や異臭はない。とはいえ、未知の動物の肉や水を口にするのはやはり不安だった。


 その中で、木の実だけは比較的安全そうに見えた。丸く堅い殻の表面には模様があり、どことなくライチのような外見をしていた。


 壺の脇にあった石器を使い、ひとつを割る。中からは半透明の白い果肉が現れた。

 恐る恐る口に運ぶと、かすかに甘い香りと、優しい果汁の味が舌に広がった。


「……いけるかも」


 クララは外にいるリオを呼んだ。


「中に木の実があった。少しだけなら食べても平気そう」


 リオも慎重に中を確認し、クララの勧めで木の実を手に取った。


「完全に……泥棒だな」


 リオが苦笑いしながら呟く。


「仕方ないよ。生き延びるためだし」


 二人は静かに腰を下ろし、木の実をいくつか割っては、その中の果肉を分け合った。

 果肉はみずみずしく、想像以上に水分を含んでいた。果汁が口の中に広がるたび、乾いた喉が少しずつ潤っていくのがわかった。


 甘みは控えめながらも、体に染み渡るような優しい味だった。数個を食べ終える頃には、空腹だけでなく、喉の渇きもいくらか和らいでいた。


 ようやく落ち着きを取り戻した二人は、あらためて周囲を見回しながら言葉を交わした。


「でもさ、この住居の造りとか、道具の感じ……完全に動物の巣ってわけじゃないよな」

「うん。毛皮が敷いてあったり、水も保存してあったし。使ってる道具にも何かしらの機能があるように見える。ある程度、知恵のある種族なんじゃない?」

「ピグミー族みたいな小柄な人間ってことか? いや、ドワーフか……」

「言葉、通じるかな?」

「通じたら、いろいろ話聞けそうだけど……楽観的すぎるかな」

「でも、これだけの生活の痕跡を残せるってことは、少なくとも意思疎通の手段はあるはずだよ。きっと」


 二人は希望と不安が入り混じった眼差しで、静まり返る小さな集落を見渡した。

 長く歩き続けてきたせいか、二人の身体には徐々に疲労が蓄積していた。  日もすっかり傾き、空にはちらほらと星が現れ始めていた。


「これ以上動くのは危ないかもね」


 クララが周囲を見回しながら言った。


「そうだな……戻ってくる奴らに遭遇する可能性はあるけど、仮に出くわしても、意思疎通ができればなんとかなるかもしれないし」

「少なくとも、凶暴な野生動物って感じではないよね。道具も使ってるし」


 二人は協議の末、今夜はこの部落の一角を借りて休息を取ることに決めた。

 住居のひとつに身を落ち着け、毛皮の上に腰を下ろすと、ようやく身体が重力に沈むような感覚を取り戻していった。


「……うちの親、心配してるかな」


 クララがぽつりと呟いた。


「俺のとこも、たぶん大騒ぎだろうな。博物館の企画も……どうなったか」


 静かな闇が二人を包み始めていた。遠くで虫の声のような音がかすかに響いている。

 言葉少なになっていく中、やがて二人はそのまま、静かに眠りに落ちていった。


 だが、次に目覚めたとき、それは静寂とは程遠いものだった。


 早朝とおぼしき時間。空はまだ薄明かりを残す程度で、周囲はほとんど闇に包まれていた。


 部屋の外から、複数の声が重なって響いてきた。誰かが怒鳴り合っているような騒がしさ。けれど、言葉はまったく理解できなかった。どこか甲高く、耳にまとわりつくような音の連なり。ときおり、ヘビが威嚇するような「シャーッ」という声も混じっている。


 リオとクララは、寝起きのまま顔を見合わせた。


「……誰か、いる?」

「戻ってきた……のかも」


 その瞬間、小さな足音とともに、入口の布が荒々しくめくれた。

 複数の影が、なだれ込むように室内に侵入してくる。手には槍のような武器を構え、異様な気配を放っていた。


 リオが反射的に後ずさる。

 それらは粗末な布の服を身につけてはいたが、人間ではなかった。


 異形の姿は、小柄な体格にざらついた鱗の肌、直立して歩く人型の輪郭をしていた。顔つきは爬虫類のように尖っており、瞳は縦に裂けていた。どこかゴブリンに似ているようにも見えたが、後にこの種族が“コボルド”と呼ばれる存在であることを、リオたちが知るのは、まだずっと先のことである。その目は明らかに敵意を含んでいる。


「……人じゃない。喋ってる……? でも、全然わからない……」


 クララが声を震わせた。

 槍の穂先がリオの胸元に突きつけられる。


「ひっ……!」


 ヘビのような「シャアアッ!」という音が一斉に響く。彼らは何かを喋っているようだったが、それが命令なのか威嚇なのかも判断がつかなかった。


 だが、その動きとジェスチャーから、「外に出ろ」と言っているのは明らかだった。

 リオもクララも、恐怖で頭が真っ白になりながらも、言われるがままに腰を上げ、外へと足を向ける。


 外に出たとき、彼らの周囲には七体のその“生き物”たちが円陣を組むようにして待ち構えていた。

 全員が槍を構え、無言のまま睨みつけている。


 異世界の朝。薄明の空の下、二人は完全に包囲されていた。


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