【第一章:博物館の企画】第二話:爆弾の影
館内の空気が、わずかにざわめいた。入り口から聞こえてくる車両の停止音、警備員たちの短い無線のやりとり、そして受付付近に集まりはじめた地元関係者らしき数人の動き。どうやら、カーター次官補が到着したらしい。
映像資料に見入っていたクララが、すっと身を起こして振り返った。
「そろそろ戻ろうか。貸与者として一応、顔を出すよう言われてたでしょ?」
リオは肩をすくめた。
「どうせ話しかけられたら何か言えばいい、って程度のもんだろ。ていうか、俺、あの鍔のことなんて何も知らないし」
彼の声には、うっすらとした気まずさが滲んでいた。リオ自身、曾祖父の遺品であるその鍔について詳しく語れることは何ひとつなかった。父親から大学進学を機に受け継いだものの、それ以前に家族で話題にした記憶もない。ただ、家の引き出しにしまわれていた“古いもの”というだけの認識だった。
「でも、来賓として名簿に名前載ってるんでしょ?だったら、ほら、形だけでも出席しとこうよ。カーターに話しかけられるとも限らないし」
「……ま、そうだな」
リオは小さくため息をついて、クララとともに展示室に引き返しはじめた。道すがら、何人かの来館者とすれ違ったが、誰も彼らに注目する様子はなかった。
彼の視線は自然と、先ほど足を止めた鍔の展示ケースに向けられた。そこには変わらぬ静けさで、あの黒く重い金属片が鎮座していた。
『……何が語れるっていうんだよ』
内心でつぶやきながら、リオは再び足を進めた。
この頃には、来館者の数も目に見えて増えていた。年配の夫妻、地元市議と見られるスーツ姿の数人、そして、退役軍人とおぼしき老人たちが、胸元にバッジを付けてギャリソンキャップを被っていた。帽子には所属部隊や作戦名が刺繍されており、それぞれの誇りが静かに滲んでいた。彼らもまた、展示室へと流れていった。
その中に、アレックス・R・カーターの姿もあった。博物館の館長とともに、ゆっくりと展示物を見て回る。式典開始までの時間を利用した視察だった。
展示ケースの前で足を止め、館長の説明に頷きながらも、どこか思案顔を浮かべるカーター。その背後では、記録用のカメラを抱えた取材班が慎重に動いていた。
カーター次官補はそのまま展示室内に設けられた簡易演台の前へと案内され、やがてスピーチの準備が整えられた。
演台近くでは、カーターが博物館の館長と談笑していた。穏やかな笑みを浮かべ、冗談にも軽く応じてはいたが、その笑顔の裏には疲労の影がかすかに差していた。ワシントンでの多忙な日々に加え、この数日は各地を飛び回るスケジュールが続いており、心身ともに休まる間がなかった。
だが、それを表に出すわけにはいかない。公務における振る舞いは常に見られているという自覚が、カーターを支えていた。
「いやあ、お祖父さまには昔、大変お世話になりましてね」 「カーターさんのお祖父さん、私の父と戦地で一緒だったんですよ」
館長の他にも、カーターの祖父を知るという地元の年配者たちが、次々と彼に声をかけてきていた。面影を探すように顔を覗き込み、昔話を持ち出しては懐かしげに語る。
カーターはそのたびに礼儀正しく相槌を打ち、名前を尋ね、時には短い握手を交わした。かつてはキャリア外交官として幾度となく外遊にあたった彼だが、現在はアジア太平洋地域を担当する国務次官補として、より大きな外交方針の策定に携わる立場にある。しかしその内心では、ほんの少しだけ、うんざりとした思いが渦巻いていた。
(……祖父が英雄だったのはありがたいけど、俺はただの役人なんだよ)
それでも顔には一切出さず、ひとりひとりに丁寧に応じていた。その姿は、公人としての責任を過不足なく演じる一人の外交官のものだった。
やがて展示室内の照明がわずかに落とされ、館内アナウンスが響いた。「まもなく、アレックス・R・カーター国務次官補によるスピーチが始まります。皆さま、展示スペース中央の席へご着席をお願いいたします」
ざわめきが次第に静まり、展示室内の空気が一気に引き締まる。
リオとクララは列の中央あたりに腰を下ろしていた。周囲には地元の来賓や退役軍人たちが整然と並び、全員が演台に向けて視線を向けている。
カーターが演台に立ち、マイクに向かって一礼した。会場から拍手が起こる。
「この町に戻ってこられたことを、心から光栄に思います。私の祖父がこの地を出て従軍したという歴史を、ここにいる皆さんが今日まで語り継いできてくださったことに、深い感謝の意を表します――」
よどみない口調に、リオはどこかで見たニュース映像のような距離感を感じていた。だがふと視界の端で、ひとりの黒服の男が別の男に耳打ちする様子が目に入った。
「……?」
それは展示室内の簡易演台に立つカーターの警護を担うエージェントだった。話しかけられた警察官が、小さく頷いて動き出す。その動線の先、出口方向へ向かって歩き去る男が一人。
(あの男……)
すれ違った記憶がある。展示室で見かけたアジア系の来館者。リオは思わず視線をそちらへ送り、何かが胸中で引っかかった。警備関係者の動きと、あの男。
赤信号が灯るような感覚。
だが、それを言葉にするには根拠がなさすぎた。クララも異変に気づいた様子はない。
リオは口を閉じたまま、ただ、視線だけをその背に向けていた。
すると隣のクララが、リオの横顔をちらりと見ながら小声で囁いた。
「……どこ見てるの?」
リオは返答に詰まり、ほんの一瞬だけ目を逸らした。だが視線はまたすぐに出口の方へと戻っていた。
――その先では、制服姿の地元警察官が足早に出口へ向かっていた。目の前を歩いていたアジア系の男がドアノブに手をかけようとした瞬間、警察官は数歩早めて追いついた。
「失礼、ちょっとよろしいですか」
声は柔らかく、抑制が効いていた。男は振り返り、少し驚いたように眉を上げた。
「何か?」
「申し訳ありませんが、少しだけお時間いただけませんか。展示会場の関係で、確認させていただきたいことがあります」
男は一拍置いてから、観光客であると説明した。資料映像を見に来ただけだと言い、手に持っていたパンフレットを軽く掲げてみせる。
「どちらからいらしたんですか?」
「日本からです」
答えは流暢だった。だが警察官は即座に疑問を抱いた。この町には日系人は一定数暮らしているが、日本からの観光客がわざわざ訪れることはほとんどない。仮に博物館の企画に興味を持って来たのだとしても、展示内容をゆっくり見るでもなく、スピーチが始まってすぐに立ち去ろうとする行動は、どうにも観光客らしくない。
さらに、パンフレットを手にしてはいたが、それ以外に旅行者らしい荷物もカメラもなく、何かを見て回った形跡も感じられなかった。警察官は、男の言葉よりもその行動に、強い違和感を覚えていた。
「念のため、携帯品を確認させていただけますか。あくまで任意ですが」
警察官は丁寧な口調を保ったまま、身体捜索の同意を求めた。
だが、男の表情がわずかに曇った。
「それはできません。何か違法なことをしたとでも? それとも、アジア人だから怪しいと?」
挑発するような口調だった。警察官は表情を崩さず、上司に確認を取るため無線機を取り出した。その様子を見た男は、わずかに舌打ちして顔を背けた。
「……そこまでされるなら、仕方ない。簡単なチェックだけなら応じるよ」
男は黒いショルダーバッグを下ろし、身体をやや開いた。
「服の上から軽く触れさせていただくだけです。念のため、ご協力をお願いします」
警察官は外衣の上から軽く叩くような形でパットダウンを始めた。男のパンツの右ポケットに、何か硬いものが入っているのを感じる。
「こちらは?」
「車のキーです」
男は即答した。
警察官は左ポケットにも似たような感触を得た。明らかに別の鍵状の物体だ。
「こっちは?」
「ライターです」
だが、警察官は眉をひそめた。感触がどうもライターとは思えない。
「両方、出して見せてもらえますか?」
男は一瞬だけ、何かを計算するような目をした。だがすぐにおもむろに両手をポケットに入れ、右手を取り出す仕草で、指先が鍵束に触れるふりをしながら――
親指で、キーに偽装された起爆装置のスイッチを押し込んだ。
次の瞬間、展示室の一角、大日本帝国陸軍の遺留品展示エリア――軍旗や刀剣の装飾板が飾られていたその付近が、激しい閃光に包まれた。ちょうどその隣に簡易演台が設置されていたのだ。
耳をつんざくような爆音とともに、会場は衝撃波で揺れ、天井から破片が降り注ぐ。カメラが揺れ、叫び声と怒号、誰かのうめき声が重なっていく。
テレビクルーの一台が設置していた定点カメラは、爆発の瞬間と混乱の一部始終を鮮明に捉えていた。
その日の午後には、映像はすぐさまニュース各局に共有され、全国ネットで繰り返し放送された。記念式典のスピーチ中に発生した爆発事件。犠牲者の中には、アレックス・R・カーター国務次官補も含まれていた。
爆心地に近い列に座っていたはずの学生、リオ・ナカムラとクララ・モリスの姿は現場から消えていた。遺体は確認されず、どこの病院にも搬送された記録はなかった。
両家の親族は、行方不明となった子どもたちの所在を求め、現地入りすることとなった。
そして翌日、ホワイトハウス前で緊急会見が開かれ、大統領は国家の威信を揺るがす重大事件として非難声明を発し、関係各国への協力要請を明言した。
爆破の動機は不明のまま、捜査当局と情報機関の調査が開始された。
一方、爆発を引き起こした男は、その直後に逃走を図った。混乱に乗じて博物館の出口を抜け、表通りへと走り出ようとしたその瞬間だった。ちょうど博物館から立ちのぼる黒煙に気を取られていた配送トラックの運転手が、横断しようとしていた男に気づくのが遅れ、そのまま進路を塞ぐように突っ込んできた。
鋭い衝突音とともに男の身体は跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられた。
即死だった。皮肉にも、男は自ら引き起こした混乱の中でその代償を受けたことになる。
そして、事件から数日後。展示室を整理していた学芸員が、ひとつの不可解な事実に気づく。
事件から数日後、展示室の復旧作業が本格化するなか、返還予定だった遺留品のリストと実物を照合していた学芸員が、ひとつの異常に気づいた。
――あの鍔が、無いのだ。
展示ケースは爆発の衝撃で吹き飛ばされ、周囲の遺品の多くは破損あるいは焼失していた。にもかかわらず、鍔が収められていた場所の焦げ跡には、ほとんど何も残っていなかった。
映像記録にも、それが持ち去られるような様子は映っていない。だが、返還目録に明記された“波平安行の鍔”は、完全に行方を絶っていた。
焦げ跡の中心、焼け残った台座だけが、沈黙の中にぽつりと浮かんでいた。
だが、爆発という衝撃的な事件の前では、その小さな異変に目を留める者はなかった。誰もが命の安否と混乱への対応に追われ、ひとつの遺品の消失など、記憶の端にも残らなかった