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【第四章:揺らぐ心、目覚めし影】第四話:堕ちた微笑み

 まだ空が白み始める前、宿の一室に微かな衣擦れの音が響いた。


 リオは寝台の上で目を覚まし、そっと身を起こすと、部屋の隅で黙々と身支度を整える伊織の背を見つめた。


「……もう出るんですか?」

「朝のうちに済ませたい用がある。それと稽古だ。ついて来い」


 伊織は手短にそう言い、革の外套を羽織った。

 軽く顔を洗い、武具を持ち、リオもその後を追う。


 まだ通りに人影もなく、霧の立ち込める路地を抜けて、ふたりは街の外れへと向かう。


「通いで稽古できるなら、最初からそうすれば良かったのでは?」


 ふと疑問に思い、リオが問いかける。

 伊織は足を止めずに答えた。


「自然の中に身を置いてこそ、研ぎ澄まされるものがある。剣の道は、ただ技をなぞるだけでは足りん。自然と調和し、風の音や地の匂いに心を澄ませることが、本当の戦いには必要だ。お前もいずれ気づくだろうが、実戦は大抵、屋内じゃなく屋外で起こる。……お前には、もう“それ”が見え始めている。限界も近かったしな。だから、戻した」

「……そうですか」


 リオはそれ以上何も言わず、頷いた。

 やがて街の北門へと至り、そこからさらに路地を抜けて、契約従事者連盟の建物が姿を現す。

 まだ開館したばかりのようで、扉の前には数人の若者が並び、依頼掲示板を食い入るように見つめていた。


「おい、ちょっと通してくれ」


 伊織が声をかけると、若者たちは威圧されたように道を開ける。

 受付の窓口に近づくと、伊織は懐から布包みを取り出し、机の上にそっと置いた。


「これを換金したい」


 受付の中年男が眉をひそめる。


「これは……“黒鉄の指環”。古代アリマール遺跡からの遺物か? かなりの代物ですが……」

「で、買えるのか?」

「申し訳ありませんが、契約従事者登録の無い方からの買い取りは規定でできません。また、この品の価値を考えると、現状の連盟の手持ちではとても……準備に数日かかるかと」

「……そうか。ならば登録しよう」


 受付の男が面食らったように目を見開いた。


「本気ですか? いや、もちろん構いませんが……等級は初回ですので、ブロンズ級からになりますよ」

「構わん。弟子より低い階級か……何だか心にグッとくるものがあるな」


 リオが思わず噴き出す。


「僕がランクアップしたら、また言ってくださいね、それ」


 淡々と登録手続きが進み、伊織は仮登録証を受け取った。

 結局、指環の換金は後日に回され、その日は簡単な確認と手続きのみで終わった。

 建物を出た頃には朝日が石畳を照らし始めていた。


「さて、戻るか。腹も減ったしな」

「ジルダさん、きっともう朝ご飯の仕込みしてますよ。……あの漬け焼き、また出るといいなあ」


 そんな他愛のない会話を交わしながら、ふたりは宿への道を戻っていく。


 ――その頃、クララは別の問題に、静かに向き合っていた。

 春学期が終わり、秋学期の始まりまで残すところわずか数日。


 短い夏の休暇も終わろうとするある日、クララは術理学院の仲間たちと連れだって街へ出かけていた。

 イルザとリシュリナ、そして一般教養クラスのティオの他、数名の仲間が連れ立っていた。


 目的は、先日発売されたばかりの“折り畳み式望遠鏡”の試用。ティオが興奮気味に準備していたものだった。


 小高い丘の上に広がる草地に寝転び、皆で空を眺め、風に吹かれながら笑い合う。

 クララは望遠鏡を通して遠くの山並みや、頭上を飛ぶ鳥の姿を覗き、しきりに感嘆の声を漏らした。


 その後は、市場近くの屋台で名物の蜂蜜菓子を食べたり、噴水広場で素足を浸して涼んだりと、自由な時間を満喫する一日となった。


 夕暮れが近づき、皆で帰途につく途中、ファイン家の屋敷の前を通りかかった。

 石塀に囲まれたその建物は、夏の夕陽を背に、どこか静まり返って見えた。


「……セリアさん、どうしてるかな」


 ふと、クララが足を止めて呟いた。


「最近、姿を見かけませんね」


 イルザが続けると、リシュリナが優しく微笑んだ。


「きっと、秋学期には元気な姿を見せてくれますわ」

「……そうだと、いいな」


 そう言って、クララは屋敷をもう一度見上げた。

 祈るような気持ちで、小さく胸の中で呟く――どうか、またあの笑顔が戻りますように。


 それきり誰も言葉を交わさず、一行は街の賑わいの中へと歩みを進めていった。


 * * *


 ファイン家の邸宅、その西棟二階の一室。


 カーテンが閉ざされた部屋の中で、セリア・ファインは身じろぎもせず、鏡の前に座っていた。

 衣擦れの音ひとつなく、部屋には微かな息づかいだけが響く。


 鏡の中では、自分自身にそっくりでありながら、どこか異形の気配をまとったもう一人の“セリア”が、柔らかく微笑んでいる。


「……あなたは、美しいわ。誰よりも、ね」


 鏡の中の声は、まるで蜂蜜に浸したような甘さで、じわりと心に染み込む。


「……そう、私は……」


 セリアはうっとりとした表情で呟き、微かに笑みを浮かべた。

 そのとき、扉の外から控えめに声がかかった。


「お嬢様……食事のお時間です」


 しかし、セリアはまるで聞こえていないかのように、視線を鏡から外さない。

 しばらく待っても応答がないことに困った使用人は、仕方なく主人――セリアの父親のもとへ報告に向かう。


「奥様にもお伝えしたのですが……お嬢様が、お食事を摂られず、部屋からも出て来られません」


 その言葉に、父親は書類から視線を上げることなく、ただ一言。


「放っておけ」


 それだけだった。

 使用人は言葉を失い、控室へと戻る。


 誰よりも美しく、誰よりも才ある少女だったはずなのに――なぜ、誰も心を寄せようとしないのか。

 重いため息とともに、使用人は胸のうちで静かに願った。


(……どうか、お嬢様が戻ってこられますように)


 * * *


 季節は移ろい、秋の初風が街に吹き始めた頃。


 術理学院の秋学期初日。クララは制服に袖を通し、朝の通学路を歩いていた。

 遠くから手を振るリシュリナとイルザの姿。ティオも少し遅れて追いついてくる。


「久しぶりに制服着ると、なんだかしゃきっとしますね」

「秋って、なんとなく勉強したくなる季節よね」


 そんな会話を交わしながら学院へと向かう一行。

 だが、教室にはセリアの姿はなかった。


「……今日はお休みなのかしら?」


 リシュリナが心配そうに呟くが、教師も「体調不良のようだ」とだけ述べ、詳しい事情には触れなかった。


 しかし、それから数日が経ってもセリアは登校してこない。

 さすがに不自然だと感じたクララは、有志の仲間たちを集め、ファイン家を訪ねることを提案した。


 屋敷の門前に立つと、重厚な石塀と鉄扉が彼女たちを迎える。

 やがて中から現れた使用人に、クララが声をかけた。


「セリアさんのことで……様子をうかがいに参りました」


 使用人は一瞬逡巡したが、小さな声で応じた。


「……お嬢様は、数日前からお部屋に籠もったままでして」


 その言葉が終わらぬうち、奥から低く冷たい声が飛んだ。


「身内の恥を勝手に外へ晒すな」


 姿を現したのは、セリアの父親。紋章付きの外套を着た、いかにも貴族然とした男だった。


「貴様らは何だ? 平民の分際で、我が家に無遠慮に押しかけて……」


 その言葉に、クララは一歩前に出る。


「私はクララ・モリス。家名を持つ者です」

「……聞いたこともないな。どこかの辺境の令嬢か?」

「アメリカ合衆国よ!」


 叫ぶように言い放つと、クララはそのまま邸内へと駆け込んだ。

 困惑する仲間たちと怒鳴る父親の声を背に、クララは階段を駆け上がり、かつて訪れた西棟の扉を目指す。


 重く閉ざされた扉を、クララは息を呑みつつ押し開けた。

 そこは、まるで空気が凍りついたような静寂の部屋だった。

 薄暗く、遮光された窓の隙間から、淡い光が差し込んでいる。

 その中央、鏡の前に立つ少女の姿――


「……セリア……?」


 クララが名を呼んだ。

 振り返ったその顔は、確かにセリアだった。


 だが、その肌は雪のように白く、髪は漆のように黒く、瞳は紅い光を宿していた。

 そして、背には──黒く大きな翼が二枚、生えていた。

 それは羽ばたくでもなく、ただ静かに、しかし確かに存在していた。


「来てくれたのね、クララ」


 その声は、いつかのセリアと同じ音色を持ちながら、どこか湿り気を帯びた甘さに歪んでいた。

 背後で階段を駆け上がる音が重なり、クララの後を追って数人の仲間たち──イルザ、リシュリナ、ティオ、そして他の術理学院生たちが姿を現した。


 その場に居合わせた生徒たちは、目を見開き、言葉を失った。  誰かが息を呑み、誰かが小さく呻いた。


「……嘘……あれ、本当に……セリアさんなの?」


 誰かがそう呟いたが、誰も否定することはできなかった。

 クララは一歩、足を踏み出す。

 その瞬間、鏡の奥にいた“もう一人のセリア”がにやりと微笑んだ。

 部屋の空気がひやりと揺れ、霊素がさざ波のように胸奥で警鐘を鳴らす。


「ねえ……私と、一つになりましょう?」


 その囁きは、まるで夢の中の誘いのように、甘く、深く……クララの心を包み込もうとしていた。

 クララは胸元を押さえ、一歩だけ前に踏み出した。


「セリア……戻って。お願い……こんなの、あなたじゃない」


 その言葉に、セリアはふわりと微笑んだ。  それはまるで、昔の学院で見せた笑顔のようでありながら、どこか乾いた音を含んでいた。だがその瞳──紅い光を宿す漆黒の瞳の端には、静かに一筋の涙が伝っていた。まるで本人すら気づかぬように、頬を滑り落ちていた。


「クララ……来てくれたのね。ずっと、待っていたのよ」

「ねえ、あなたには聞こえなかったの? あの小さな音。夜が深くなるたびに、胸の奥で響いていたの」

「扉の向こう、ほんの少しだけ開いていた“隙間”から……誰かが囁いてた。“あなたは、愛されないまま終わる”って」


 首を傾げたまま、セリアは夢を語るように続ける。


「でもね、その声だけが優しかったのよ。本当に……初めてだったの。私のことを欲しがってくれたのは」


 クララが震える手を伸ばしかけると、その指先の先で、空気がひやりと揺れた。


「今の私はね、“彼女”と一つなの。……でも、怖がらないで。痛くはないから」

「ねえクララ……あなたも、見てしまったのね。あの隙間の向こうを。……渇いた者たちが、どんな風に微笑んでいたか」

「無理にとは言わないわ。でも……あなたがこちらに踏み込んだその時から、境は、もう歪み始めているの」


 足元に、黒い魔術陣がゆっくりと浮かび上がる。  羽根のような模様と歪んだ円が、静かに広がっていく。


「でも、今はまだダメ。あなたの中には、ひどく澄んだ音が残ってる。それは、この場所には似合わないの」

「だから、行って。ここは、とても心地いいの。静かで、やわらかくて……何も求めなくても満たされるのよ。あなたがここに来るには、まだ“光”が強すぎるわ」


 セリアが囁くと、空間が軋むようにきしんだ。  部屋の壁がひび割れ、天井が遠ざかり、扉がぐにゃりと溶けるように消えていく。


「霧よ、門を閉ざしなさい──  逆理の底へ沈むものに、白き音は不要だから」


 詠唱とともに、視界が揺らぎ、クララたちの身体が強い引力に押し戻される。  その中心にいるセリアだけが、静かに揺れる黒翼とともに、動かず立ち尽くしていた。


「また来てね、クララ。次はきっと、もっと……近くに来られるわ」


 伸ばされた手は、空間の歪みによってすり抜け、届くことはなかった。  クララの身体は後方に引き戻され、次の瞬間──

 視界が暗転し、すべてが断ち切られた。


 * * *


 夕刻、クララの泊まる宿──〈月影亭〉の共有スペース。  木製の長机のまわりに、生徒たちが沈んだ顔で集まっていた。


 クララは椅子にうずくまり、顔を両手で覆っていた。  肩が小さく震え、頬には止まらない涙が伝っている。


「……まさか、あんな……あんな姿になるなんて」


 ティオが絞り出すように言い、イルザがそっとクララの背中に手を当てた。


「大丈夫だ、クララ……君は、よくやったと思う」


 リシュリナが、静かに言葉を継いだ。


「……でも、私たちだけでは、どうにもならないと思うの。こういうときこそ、あの方に相談しないと」

「ルヴェリス先生……」


 その名が出た瞬間、皆が小さく頷いた。  学院における霊素と異常理への最も深い造詣を持つ存在。今のセリアの状態に最も近い知識を持つ人物。


「……呼びに行きましょう。私が行ってくるわ」


 リシュリナが立ち上がり、すっとスカートの裾を整えた。


 そのとき、裏口の扉が開き、訓練着のままのリオがふらりと入ってきた。  髪には汗がにじみ、顔に木屑がついたまま、手にはまだ布で包んだ訓練用の木剣を持っている。


 リオは室内の異様な空気に気づき、足を止めた。


「……どうしたんですか?」


 誰もすぐには答えず、ただ沈痛な空気だけが流れていた。

 クララのすすり泣きの音だけが、部屋の静寂に響いていた。


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