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フェンデリアの空の下で ~精霊と術理の世界で、生き延びる術を学ぶ二人の異世界譚~ 全26話完結  作者: 甘栄堂
第四章:揺らぐ心、目覚めし影

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第五話:翼の生えた日

 〈月影亭〉の共有スペースには、言葉を失った術理学院の生徒たちが肩を寄せ合うように集まっていた。誰もが蒼白な顔をし、ただ静かに時が過ぎるのを待っている。セリアに何が起きたのか、それをはっきりと説明できる者はいなかった。ただ、彼女が“何か”に取り憑かれ、もはや元のセリアではなくなってしまったことだけは、皆が肌で感じていた。


「……どうしたんですか?……何かあったの?」


 誰にともなく問いかけるリオに、最初に顔を上げたのはクララだった。瞳の縁に赤みを残し、かすれた声で答える。


「セリアが……変わってしまったの」


 その背に、そっと置かれた手がある。イルザはクララの後ろに立ったまま、何も言わずにそこにいた。その名前に、リオは一瞬だけ間を置いた。


「……セリア?」


 聞き返した声音には、戸惑いが混じっていた。記憶を探るように視線を宙に漂わせてから、素直に首を振る。


「えっと……誰、ですか?」


 場の空気が、わずかに沈んだ。クララの背に手を当てたまま、イルザが答える。


「同級生だよ。僕たちの」


 声は低く、落ち着いていた。


「術理学院で一緒だった。成績も立場も悪くなかったし……まあ、色々あったんだけど」


 イルザはそこで言葉を切った。リオは小さく息を吸い、クララを見る。


「……クララの、友達?」


 クララは一瞬、背中に触れている手を意識したように肩を強張らせ、それから、ゆっくり頷いた。


「……うん。そう」


 やがて、誰かが「戻ってきた」と小さく呟いた。入口に視線が集まり、足音が近づいてくる。術理学院から戻ってきたリシュリナの姿が見える。その後ろに、静かな気配をまとった人物が立っていた。白のロングローブを纏ったルヴェリスが、ゆっくりと〈月影亭〉の中へ足を踏み入れる。その姿は静かだが、周囲に圧倒的な緊張感を漂わせていた。


「詳しく聞かせて下さい」


 ルヴェリスの声に促され、生徒たちはそれぞれ見聞きしたことを語り始めた。セリアの様子、彼女が放った異様な魔力、そして追い出された時の恐怖……。それを静かに聞き終えたルヴェリスは、ゆっくりと目を閉じ、ひとつ頷いた。


「これは……“堕界体だかいたい”ね。放っておけば、彼女だけでなく、周囲の人間やこの都市すら危うくなる」


 空気が凍りつく。


「……“堕界体”って、なんですか?」


 恐る恐る問うリオの声に、場の視線が集まる。

 ルヴェリスはすぐには答えなかった。わずかに視線を落とし、言葉を選ぶ間を置いてから、口を開く。


「堕ちた精霊だ、と説明する人もいます」


 そこで一拍、間を置く。


「ですが……その理解だけでは、足りません」


 視線を上げ、ゆっくりと言葉を継ぐ。


「精霊でも、悪霊でも、魔物でもない。どの枠にも収まらない存在です」


 彼女は指先を軽く組み、続けた。


「強い感情や、理を逸脱する行いが重なったとき、世界のどこかに、歪みのようなものが生じることがあります。堕界体は、それが表に現れた姿だと考えられています」


 誰かが息を呑む音がした。


「善でも悪でもありません。ただ、在るだけで、世界の整合を乱す。だから多くの宗派や術者は、それを“災厄”と呼びます」


 ルヴェリスは一瞬、言葉を切る。


「人に憑くことがあるのは……その歪みが、最も近い“空白”に引き寄せられるからです。意志というより、性質に近い」


 視線が、自然とクララの方へ向かう。


「セリアの内側に生じた欠落が、それを呼び寄せた。そう考えるのが、今のところ一番、無理がありません」


 沈黙が、重く落ちる。


「でも、まだ手はあります。……急ぎ、備えを整えましょう」


 ルヴェリスは静かに言ったものの、その声にはいつになく重たい響きがあった。


「ただし、これは大変に難しい状況です。時間が経てば経つほど、彼女は戻れなくなるのです。わずかな手がかりと、わずかな希望にすがる形になるかもしれません」


 そう告げると、ルヴェリスはすぐに学院の術理師たちに連絡を取るよう生徒に命じた。その表情に、わずかながら決意の色が浮かんでいた。


 その日、術理学院と〈月影亭〉の間に、重く静かな夜が落ちた。夜も更け、〈月影亭〉の奥から足音が近づいてくる。木の床板が軋む音とともに、稽古着の上に羽織をかけた南雲伊織が姿を現した。


「おいリオ、風呂、すげぇ湯だったぞ。ああいう風に蒸気を逃がす工夫が……」


 そう言いかけた伊織は、言葉を途中で失った。 視線の先に立つルヴェリスを捉えたまま、動きが止まる。濡れた髪の一房が肩を滑り落ちても、気づく様子はなかった。呼吸が、一拍遅れる。長い耳、淡い金の髪、澄んだ青の瞳。整った輪郭と、無駄のない立ち姿。 それらを確かめる前に、ただ、視線が外れなくなっていた。伊織は一度だけ目を伏せ、短く息を整える。それから、声を落としてリオに尋ねる。


「……なあ。あちらの方は、どなただ」


 リオも、すぐには声を上げなかった。


「クララの先生ですよ」


 小さく、そう答える。伊織はわずかに頷き、もう一度だけルヴェリスを見る。視線はすぐに外れ、咳払いで間を切った。


「なんでもない」


 それ以上は続けなかった。ルヴェリスはその様子に一度だけ目を向ける。ほんの一瞬、引っかかるものがあったが、次の瞬間には意識の端へ押しやられた。今、考えるべきことではない。セリアの件が、あまりに重い。リオが、少し気楽な調子で口を挟む。


「……あの人、綺麗ですよね」


 からかい半分の声だった。伊織は肩をすくめるだけで、返事をしなかった。わずかに顔を背けたところで、ルヴェリスは身を翻し、部屋を出ていった。


 術理学院に戻ったルヴェリスは、夜の校舎を静かに歩きながら、目指す一室の扉を叩いた。室内から落ち着いた声が返る。


「……開いている」


 そこにいたのは、術式理論科主任講師・サールだった。白髪交じりの黒髪を整え、赤茶色のローブに身を包んだ中背の男だ。机に積まれた巻物と羊皮紙に視線を落としたまま、立ち上がることなくルヴェリスを迎えた。


「こんな時間にどうしたのかね。顔色を見る限り、急ぎの用件らしい」


 ルヴェリスは短く頷き、要点だけを告げる。


「堕界体が、術理学院の生徒──セリアに関与している可能性が高いと判断しました」


 サールの指が止まる。わずかな間を置いて、眉が動いた。


「……“渇き”に触れたか」


 確認に近い呟きだった。室内に沈黙が落ちる。やがてサールは、ゆっくりと言葉を続けた。


「理論上、堕界体が完全に分離した形で顕在化しているなら、遮断や拘束の術式で対処はできる。少なくとも、そういう前提で組まれた理論はある」


 そこで一度、言葉を切る。


「だが……人の内側に入り込んだ状態となると話は別だ。対象が“存在”ではなく、“構造の歪み”に近い」


 腕を組み、思案するように視線を落とす。


「その歪みが生徒自身の術理や肉体と絡み始めているなら、単純な封印は成立しない。術式をかければ、歪みごと人を閉じ込めることになる」


 低く、嘆息した。


「救出と遮断を同時に成立させる理屈が必要だ。だがそれは……通常の術式理論では想定されていない。矛盾を抱えた状態で術理を組み直すことになる」


 視線が、ルヴェリスに戻る。


「厄介だな。またしても理論が追いついていない」


 ルヴェリスは言葉を継いだ。


「それでも、誰かが向き合わなければなりません。イシュランとフレアにも、協力を要請します」


 翌朝、ルヴェリスとサール、それに二人の若い研究員は、学院を出てファイン家の邸宅近くまで足を運んでいた。屋敷の外縁に差し掛かったところで、空気の質が変わる。イシュランが、反射的に足を止めた。


「……これは……」


 言葉が、そこで途切れる。翡翠色の瞳が細められ、視線が定まらない。


「マナは、あります。ですが……霊唱術の痕跡ではない。魔法アーケインの術式とも違う」


 一度、息を吸い直す。


「……魔術ソーサリー、ですか?」


 確認というより、戸惑いに近い響きだった。フレアもまた、即座には口を開けなかった。持参した記録に目を落とし、数頁をめくってから、顔を上げる。


「理論上は……あります。人の身が媒介となり、意図せず魔術的な区画を形成する事例。ただし……」


 言葉を選びながら、続ける。


「文献上の話です。実例は、見たことがありません」


 沈黙が落ちる。ルヴェリスは、低く言った。


「張っているのは、セリア本人です。しかし自覚はないでしょう。外を拒む意思だけが、先に形になっている」


 サールは門を見上げたまま、しばらく動かなかった。


「……厄介だな」


 それだけを口にする。


「魔術となれば、術理の枠では測れん。しかも無自覚だ。対処を誤れば、本人が耐えきれない」


 視線を戻し、全員に告げる。


「これは、教科書通りには進まん。まずは“刺激しない”。文献を当たるのはその後だ」


 ルヴェリスは東の空に霞む朝日を見上げた。セリアを救う道は、まだ閉ざされてはいない──だが、それは細く脆い、踏み外せば破滅に至る“刃の道”だった。


 * * *


 その少し前、クララが屋敷を出た直後のこと。執務室の奥で帳簿を睨んでいたファイン家の当主が、机を叩いて立ち上がった。


「……あの娘、学院で何をしているのだ……! 今度という今度は許さんぞ……」


 苛立ちを抑えきれぬまま廊下を進み、使用人たちの視線を無視してセリアの部屋の扉の前に立つ。


「開けろ、セリア。話がある」


 返事はない。ノブに手をかけた瞬間、異様な熱が掌を刺した。思わず手を引く。息が詰まり、喉の奥で短い声が漏れた。反射的に一歩、身を引く。


 ――中で、何か燃えているのか。


 そう思った瞬間には、もう一度、ノブを見ていた。火事だとすれば、躊躇している場合ではない。歯を食いしばり、再び手を伸ばす。熱を無視してノブを掴み、そのまま扉を押し開けた。眩い閃光が弾け、重苦しい気配が廊下へと溢れ出す。扉の内側は、異様な静寂に包まれていた。空気が濁り、光の屈折が歪んで見える。


 そこに――セリアが立っていた。


 だが、その姿は──顔は確かにセリアだった。だが金髪だったはずの髪は漆黒に染まり、蒼く澄んでいた目は、血のような赤を孕んだ闇色に変わっていた。涙がこぼれているのに、それがかえって不気味だった。背中からは黒い翼が伸びていた。まるでこの世界に属さぬ存在の証のように。そして両手の掌には、燃えるような紅の紋章が浮かび上がっていた。父は言葉を失い、足元が崩れるように後退した。


「……貴様は、何者だ……セリアはどこにいる……」


 その声に反応するように、空間が脈打つ。そして、見えざる“何か”が、部屋の奥から伸びるように出現した。黒い瘴気の触手のようなそれは、父の身体を貫くのではなく、内部から締めつけるかのように絡みつく。


 「ぐ……うっ……な、なにを……ッ」


 全身の筋肉がひきつれ、骨が軋みを上げる。目を見開いた父の口から血が滲む。だが、それでも彼は叫びを上げることすら許されなかった。彼の身体は浮き上がり、壁に叩きつけられる。続いて床へと叩きつけられ、さらに天井へ。無数の“見えない手”が彼を嘲るかのように弄び、最後には部屋の隅へ投げ捨てられた。壁に擦り付けられた顔面からは血が流れ、片腕は不自然な角度に折れ曲がっていた。呻き声すら出せず、嗚咽のような息だけを震わせている。その囁きは誰にも届かず、次の瞬間、空間が軋むような音と共に、周囲に激しい衝撃が奔った。


 轟音とともに床が揺れ、壁という壁にひびが走る。天井からは粉塵だけでなく、砕けた漆喰が崩れ落ち、床には異様な符が浮かび上がった。屋敷の魔法障壁が内部から破られたのだ。使用人たちの悲鳴が屋敷の各所から響き、いくつかの燭台は倒れ、絨毯が焦げるような臭気が立ち込める。セリアの部屋を中心に、周囲数間が黒いもやに包まれ、視認すら困難な領域と化していた。


 そのとき、廊下の奥から駆け寄ってきたファイン家の夫人──セリアの母が、何事かと顔を出す。


「セリア、あなたなの? 何が……」


 だがその声を最後に、突如として部屋の扉からほとばしった見えざる力が、母の身体を弾き飛ばす。壁に激突した彼女は呻き声を上げ、意識を失った。屋敷の主人に続いて倒れた奥方の姿に、使用人たちは顔を青ざめさせ、誰一人として近づこうとはしなかった。もはや、セリアの部屋は“誰のものでもない場所”と化していた。


 そして──その空間の中心で、セリアは静かに涙を流していた。だがその瞳には、哀しみと共に、ぞっとするような妖艶な笑みが浮かぶ。彼女はひとつ息をつき、その吐息からは黒紫の瘴気が静かに広がった。まるで内から染み出す呪詛のように、空気を重く淀ませる。ゆっくりと歩み出る。黒く染まった髪が揺れ、背中の翼がかすかに広がるたびに、周囲の空気が粟立つように震えた。


 姿を見た使用人たちは、あまりにおぞましくも美しい黒翼の姿に目を背けられなかったが、やがて言葉もなく逃げ出した。悲鳴すら上げられないほどに、その異形の美しさと恐怖に支配されていた。足音が廊下を満たすころには、屋敷はほぼ無人となっていた。


 ファイン家に残っていたのは、倒れ伏した父と母、そして静かに微笑むセリア──ただ、それだけだった。

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