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【第一章:博物館の企画】第一話:戦場の遺響

 ハーモン歴史民俗博物館は、アメリカ中西部の地方都市ノースハーモンにある公立施設である。この町は人口も少なく、全国的な知名度はほとんどないが、第二次世界大戦期には多くの若者が徴兵され、南方の戦地に送られたという歴史を持つ。


 創設は第二次世界大戦後間もない1952年。地元大学の歴史学部教授たちによって設立されたこの博物館は、当初は開拓時代の民俗資料を中心に構成されていた。


 しかし冷戦期を経るなかで、展示内容は次第に「戦争の記憶」へと重心を移していった。なかでも太平洋戦線に関する資料の収集と展示は、他の地域博物館と比べても突出している。これは、地元から多くの海兵が徴兵され、南方戦線に投入されたという地域の事情によるものだった。


 彼らが持ち帰った遺品、記録、あるいは戦後に返還された日本由来の品々が、幾十年のあいだに少しずつ集められ、この博物館の中心的な展示となっていった。


 今回の特別展『再訪される戦場:太平洋戦線の遺品たち』は、その集大成ともいえる企画である。規模は大きくないが、兵士の遺族が多く協力しており、展示品の多くは記憶の共有と継承を願う寄贈や貸与によって成り立っている。来館者の多くもまた、かつて戦地に赴いた人々の家族や関係者たちだった。


 展示には、旧日本軍の装備品、戦地から送られた手紙や写真、兵士が持ち帰った遺品など、約二百点が並んでいる。


 今回は予想外の注目も集まっていた。アメリカ国務省のアジア太平洋安全保障・戦略担当次官補であるアレックス・R・カーターが、初日の式典に出席することが発表されたのである。彼の祖父がこのノースハーモンの出身であり、太平洋戦線に出征した元兵士だったことが、その背景にあった。


 ふだんは地方紙の取材が入る程度の催しだが、この知らせを受けて、全国ネットのテレビ局が一社だけではあるが取材に訪れた。ただしそれも中継ではなく、記録映像として控えめに撮影されるにとどまっていた。


 展示会場の一角には、旧日本軍の軍刀や弾薬箱、徽章類が整然と並ぶガラスケースがある。その列の末端、ひときわ地味で注意を引かない小さな品が、ひっそりと片隅に置かれていた。


 一枚の鍔。


 どこかの日本兵が使っていたとされる、刃も柄もないただの鍔だった。来歴は不明で、展示ラベルにも簡単な説明があるのみで、「詳細不明」とだけ記されていた。


 表面には僅かに金彩が残っており、左側には一輪の梅の花が控えめに描かれている。中央には刀を通すための穴が開き、右側には鍔特有の楕円形の開口部が設けられていた。


 クララがこれまで見てきた美術館所蔵の鍔とは異なり、この鍔には意匠を凝らした華美さはなかった。厚みがあり、無骨な作りで、全体はマットブラックに近い重厚な黒に仕上げられていた。その黒は光を吸い込むような深さを持ち、見る者に一種の緊張感を与える。縁はやや丸みを帯びており、手に取ればずしりとした質量があるだろうことが想像できた。観賞用というよりは、実戦を想定した実用品という印象を与えた。


 クララはふと、他の展示ケースに並んだ量産型の軍刀の鍔を思い浮かべた。どれも似たり寄ったりの意匠で、素人目には判別がつかないものばかりだったが、この鍔には何か異質なものを感じた。


 確証があるわけではない。ただ、美術刀剣の専門書に掲載されていた江戸期の鍔――武士が帯びていたそれらと、どこか雰囲気が重なる気がしたのだ。


「おそらく、これはもともとサムライの時代の鍔で、後に軍刀に流用されたのではないか」


 そんな仮説が頭をよぎるが、彼女は口に出さなかった。ただ、展示ラベルに記された「詳細不明」の文字だけが、かえってその想像をかき立てていた。


 この鍔だけが、今回リオ・ナカムラの家族から貸し出された一点物だった。リオは普段、州立大学で学ぶ学生だが、夏休みのため実家に戻ってきており、鍔の貸与者として来賓の一人に名を連ねていた。

 展示ラベルにも簡単な説明があるのみで、「詳細不明」とだけ記されていた。


 もっとも、二人の作業は“協力”とはいえ、実際にはクララがその大部分を担っていた。リオは日本語を話すことはできたが、発音はあやしく語彙も乏しく、会話以上の内容を読みこなすには不十分だった。一方クララは、日常会話レベルの日本語にはあまり自信がなかったが、文献の読解となると話は別だった。


 学部時代から古文書に親しみ、日本近世の資料研究を続けていた彼女にとって、書き言葉の日本語はもはや“第二の母語”に近い領域だった。リオがつまずくたびに、クララはするりと語義を補い、文脈を訳してみせた。


 やがて、朝九時の開館時間を迎えた。外はすでに夏の陽光が眩しく、博物館の前庭に立つ星条旗がゆっくりと風に揺れていた。今日は土曜日だったが、まだ時間が早いためか、来館者の姿はまばらだった。


 高齢の夫婦がゆっくりと歩いて入館してくる。二人とも無言のまま受付を通り抜け、展示室へと足を運ぶ。やがて、中年の男女が数組、子どもを伴って現れた。休日の午前ということもあり、展示を見て回る彼らの表情は穏やかで、時に家族同士で静かに言葉を交わす姿も見られた。


 三、四十年前であれば、戦争を生き延びた帰還兵が自らこの展示を見に訪れることもあった。だが今では、そうした姿を見かけることはもうない。彼らは皆、既にあの世へと旅立っていた。


 代わりにやって来るのは、かつての兵士たちの子や孫たちだった。彼らは、展示された軍靴や銃、黄ばんだ写真を前に、黙って足を止める。時折、ガラス越しに目を細めるようにして、何かを探すような視線を向ける者もいた。


 祖父が語らなかったこと。曾祖父が遺さなかった記録。

 彼らはその沈黙の痕跡に、ひとつでも触れようとしているようだった。


 リオ自身はといえば、曾祖父に特別な思い入れがあるわけではなかった。彼にとってその人物は、写真と家族の語りの中にだけ存在する“過去の人”であり、ましてや日本兵であったという経歴にすら、実感を持てずにいた。自分はアメリカで生まれ育った、完全なアメリカ人だという自負があった。


 確かに、アジア系であることで差別的な言葉を投げられたことはある。だが、それが日本の歴史や文化への共感に繋がったことはほとんどない。むしろ、日本人として扱われることに戸惑いすら覚えた時期もあった。


 そんなリオの中で、唯一“日本人”という存在に親しみを感じさせたのは、父がかつて語ってくれた一人の人物の存在だった。


 父――エリック・ナカムラのビジネスパートナーであり、ハワイの日系二世、元陸軍第442連隊の退役軍人、ジョージ・シンジョウ。この部隊は、第二次世界大戦中に編成された日系アメリカ人兵士による部隊であり、その多くが家族を強制収容所に残したまま従軍した。ヨーロッパ戦線において比類なき勇敢さと忠誠心を示し、アメリカ軍史上最も多くの勲章を受けた部隊として知られている。


 そんな男が、父とゴルフに行ったときのことだった。谷越えのショートカットに挑もうとした彼を、父が制止した際、男は笑ってこう言ったという。


「Cowards make many deaths. Only brave makes one live!(臆せず挑む者こそが、生を貫く)」


 結局ボールは谷底へ消えていったが、「シンダ!」と叫んだ彼の豪快な笑顔に、父は腹を抱えて笑ったらしい。


 リオにとって、“日本人らしさ”とは、あの男のように、どこか武士道めいた気風と茶目っ気を併せ持つものだったのかもしれない。


 もっとも、リオ自身は良くも悪くも現代っ子だった。ジョージ・シンジョウのような精神には憧れを抱きつつも、自己犠牲を是とするような価値観には距離を感じていた。同級生のなかには軍に志願し、町の尊敬を集めている者もいたが、リオにはそんな生き方は想像もつかなかった。


 彼は普通の市民として、穏やかに、できれば豊かに暮らしたいと考えていた。将来は投資会社か不動産会社にでも入り、うまく立ち回ってリッチになれたらそれでいい。戦うことなど、まっぴらごめんだった。


 その頃、展示室の入り口付近では、学芸員たちが立ち話をしていた。「カーター次官補は十時ごろ到着予定らしいよ」と、名札をつけた中年の男性がぼそりと漏らす。「警備の人間も配置についたって、今朝連絡があった。ああいう立場の人が来ると、やっぱり空気が変わるな」


 リオは遠巻きにその会話を聞きながら、無意識に背筋を伸ばした。


「ねえ、そろそろ他の展示も見て回ろうよ」


 クララが横から声をかけた。手にはパンフレットを持ち、すでに気持ちは次の展示に向いているようだった。


「映像資料のコーナーもあるし、あっちに行けば実際の従軍日記とかも見られるって」


 リオは頷き、鍔のケースに一度だけ視線を戻すと、クララの後を追って歩き出した。


 博物館から数ブロック離れた、廃業した店舗の一角。埃をかぶったブラインド越しに、男たちが無言でモニターを見つめていた。古びたテーブルの上には開かれた地図と、印のつけられた館内の見取り図。彼らの前に置かれたノートパソコンには、警備スケジュールの断片と、地元警察の通信傍受ログが並んでいた。


「予定どおり十時。少しの誤差はあるが、確実に来る」


 ひとりが呟いた声に、誰も返事はしない。ただ、静かな確信がその場の空気を満たしていた。

 計画は単純だった。標的はカーター――アジア太平洋政策において急進的な方針を打ち出し、東アジアの緊張をさらに高めた張本人。


 かつて対峙し、今も対立の火種が燻る相手。立場や関係がどう変わろうとも、“彼ら”にとってはこの地での振る舞いがすべてを決める。


「小さな町は、警戒が緩い。だが、のどかな顔をしていても油断すれば計画は潰れる。表の顔に騙されるな」


 窓の向こうにある静かな通り。だが彼らにとって、それは“沈黙の隙間”でしかなかった。


 その頃、館内にはすでにひとり、彼らの仲間が紛れ込んでいた。アジア系の男。年齢は三十代前半と見え、襟付きのシャツに麻のパンツというラフな格好に、濃いサングラスをかけていた。肩には黒いショルダーバッグを提げており、全体として観光客然とした装いを装っていた。


 そのバッグの中には、慎重に包まれたC4の塊が一つ。C4とは、軍用に用いられる高性能なプラスチック爆薬で、成形が容易な上に安定性が高く、特定の起爆装置がなければ爆発しないことから、工作活動などにも頻繁に用いられる。


 入館時の荷物検査は簡易なもので、展示案内用パンフレットとカメラの間に挟まれたそれに、誰も注意を払わなかった。小さな町の公立博物館――警備は甘い。


 この男の任務は明快だった。アメリカ国務省のカーター次官補が視察として展示室を訪れる。その導線に合わせ、爆薬を目立たぬよう設置すること。そして、混乱が起きる前に人混みに紛れて退出する。


 すべてが静かに、そして速やかに終わるはずだった。


 展示ケースのひとつの前で立ち止まり、パンフレットを開いているふりをしながら、彼はごくわずかに視線を巡らせた。背筋は伸ばされたまま、首の動きも最小限に抑えられている。

 サングラスの奥の目は、入退場口、消火器の位置、警備員の立ち位置、監視カメラの死角を順になぞるように観察していた。


 視線の先では、制服姿の年配警備員が二人、館内の角で立ち話をしている。笑ってはいたが、その位置は搬入通路の扉からは遠く、十分な警戒とは言い難い。


 男はパンフレットを閉じ、再び歩き出した。目的も、感情も、なにも表情に出さぬまま、展示物の間を縫うように静かに進んでいく。

 足取りはあくまで自然に。だが、その胸中にあるものは、ただひとつ――“時を待つ”ということだけだった。


 そして、時は訪れる。


 九時五〇分を少し過ぎたころ、博物館の正面に黒塗りの車両が滑り込むように停車した。エンジン音に呼応するように、出入口付近の警備員が一斉にそちらへと視線を向け、数名が動き出す。事前に周知されていた通り、アレックス・R・カーター次官補の到着だった。


 その瞬間こそが、男の計画にとっての“隙”だった。


 展示室の奥の壁際に設けられた特設ステージには、式典開始を待つ招待者たちの姿がまばらに集まり始めていた。次官補は館長の案内で展示物を一つひとつ見て回る予定で、その導線も事前に共有されていた。


 男は、一般客として紛れ込みながら、展示ケースの列を横目にゆっくりと通路を移動し、ステージ背後の装飾板の陰に身を寄せた。展示室の一角、ちょうど大日本帝国軍の遺留品が並ぶエリアだった。


 男は足音を殺して近づくと、ショルダーバッグから薄く成形されたC4のパックを取り出した。

 透明な固定ジェルを使い、装飾板の裏側にぴたりと貼り付ける。手慣れた動作だった。何度も訓練を繰り返したかのような無駄のない手つきで、爆薬の設置を完了させた。


 小型の起爆装置を手のひらに隠し、親指でカバーをスライドさせると、内部のインジケーターが緑に点灯する。作動確認。すぐに電源を切り、装置を再びバッグの中に戻した。


 設置にかかった時間は、わずか五秒。


 すべてが終わったことを確認すると、男は装飾板の陰からゆっくりと身を引いた。誰にも気づかれないまま、通路へ戻り、人々の流れに紛れていく。まるで、最初から観光客のひとりでしかなかったかのように。


――無事に終わった。


 男の表情には、達成感も緊張感もなかった。ただ、予定どおりに物事が進行していることに対する安堵が、かすかに胸中を満たしていた。


「終わったら、あの湖へ行こう」


 ふと、そんな思いが脳裏をよぎる。帰国後、家族を連れて数日間の休暇を取るつもりだった。娘が好きだった、あの静かな湖。ボートに乗って、写真を撮って、夜には焚き火でもして。魚はうまく釣れないが……。


「焼き魚……今度こそ、ちゃんと焼こう」


 その考えに小さく笑いそうになるのを、男は喉の奥で押しとどめた。淡々と、だが確実に任務を遂行した者だけが持つ沈着さで、彼は静かに展示室を抜けた。


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