9 冬の蝶
トーヤはジーンの元から去ってしまった。
いや、違う。元々ジーンのところにはいなかった。トーヤは少し寄り道をしにきただけ、ジーンのものでもなかったし、ジーンもトーヤのものではなかったのだ。ジーンはそれを認めるしかない。
しばらくしてトーヤが乗った船が出たと聞いたが、ジーンは見送りには行かなかった。だって、もうすでにいなくなっている人のこと、行ってももう一度悲しい思いをするだけだ。
ジーンはいつもの生活に戻った。トーヤは居続けだったはずの日の分の金をそのままにして受け取らず、律儀にもそこにさらに予定より早く引き上げることになったわびとしていくばくかの迷惑料、それからジーンにと多少まとまった金を置いて去った。
「まあ、また戻ったらよろしくってことだろうさ。ちょっと遠くへ行くって言ってたけど、なあに死神と呼ばれてる男のことだ、元気に戻ってまたひょこっと顔を出すよ」
女将はそう慰めの言葉をかけると、ジーンにトーヤからの金を渡してくれた。
女を使い捨てとばかり、ひどい扱いをする店もあるが、中堅どころのこの店では、もらった祝儀を全部渡してくれる。そういう金まで自分の懐に入れる店主も多いのに、ジーンの店の女将はそんなことはしなかった。自分も元娼婦でそのつらさもきつさも知っているからだろう。商売としては決して甘いことを許してはくれないが、それでも女たちができればなんとか自分のようにその後の道を見つけてくれるようにと思っているようだった。女たちがつまらない男に引っかかって、さらに借金を抱えるようなことがないように、時に厳しく叱ってくれる女将を店の女たちは比較的信用しており、ジーンもそんな店に入ることができたことを、自分は運がいいのだと思っていた。
トーヤが姿を消した後、ジーンはある場所に行くようになった。
ミーヤの墓。
町のはずれに墓所があり、その一角には主に娼婦たちが入っている共同墓所もあった。そのすぐ隣の区画に幸いにも墓を作ってもらえた、こちらもやはり主に娼婦たちの墓所があり、ミーヤの墓はそこにあった。
共同墓所にもちらほらと花や何か供え物を見ることができるが、なんとなく侘しさを感じさせる。自分ももしかしたらいつかここに入るのかも知れない。そんな気持ちがあるからかも知れないとジーンは思った。
どうしてミーヤの墓に行くのか自分でもよく理由は分からない。トーヤが帰って来た時に分かるかも知れないと思っているのだろうか。それともミーヤに何か言いたいことや聞きたいことがあるのだろうか。自分でも自分の心が分からないまま、ジーンは気が向くとこちらに足を向けるようになっていた。
ミーヤの墓は小さいが建てた者たちの心がこもっていると分かる、女性らしい曲線を帯びた優しい墓だった。ミーヤの名と亡くなった年齢だけが書かれており、裏の建立者の名前は4人、3人の旦那と一番下にトーヤの名前も並んでいた。
来ても何を言うでも何をするでもない、しばらく立っているだけ。そうしてまた何もなかったように背を向けて自分の居場所、トーヤが通っていたあの店に帰るだけのことだ。だが、いつからかその時間がジーンにとって大切な時間となっていた。何もせず、何もいわず、ただただ佇むだけの時間が。
そうして二年近くが経った。今日もジーンはなんとなくミーヤの墓に足を向けたが、共同墓地近くに来た時、思わず足を止め、植え込みの影に座って身を隠してしまった。
トーヤだ。
封印したはずの心臓が早鐘のように打つ。入口近くにいるジーンから少し離れているが、あの後ろ姿を見間違えるはずがない。
なぜミーヤの墓ではなく共同墓所にいるのかと考えて、ぼんやりと以前トーヤが言っていたことを思い出した。やはり娼婦だったトーヤの母は共同墓所で眠っているということだった。それでこちらを参っているのだろうか。
トーヤは一人ではなかった。生成りのマントを深々と被っているが、大きさから子どもだろうと推測される人が隣に並んでいた。
トーヤは小さな石を一つ拾うと、子どもの手を引いて墓所の出口に向かって歩き出した。その姿をジーンは息を潜め、植え込みの影から見上げるようにして見ていた。マントを深く被っているので子どもの顔は見えない。
二人はまっすぐ出口に向かって進んでくる。このまま墓所から出ていくようだ。このまま行ってしまったら、今度こそ間違いなく二度と会えなくなるだろう。
ジーンは声をかけようとしたが、声をかけてトーヤがどういう反応をするかを考えると、怖くて動けなくなった。懐かしそうな顔をしてくれるか、それとも迷惑な顔になるか。もしかしたらもう自分のことなど忘れてしまっているかも知れない。
ジーンが石のように動けなくなったまま、二人が前を通りかかる。
「おい、どうした」
懐かしい声がした。
ジーンは一瞬、トーヤが自分に気がついてくれたのかと思ったがそうではなかった。
「蝶が」
天からこぼれるようなかわいらしい声がした。
視線を少し下げてみると、植え込みの少し向こう、通路のあたりに一羽の蝶が落ちていた。死んでいるようだ。
「冬の蝶か」
トーヤの声は悼むような響きを持っていた。