10 Jean Was Lonely
マントを着た子どもがつかつかと蝶に近寄ると、膝のあたりに両手を当てて腰を屈めた。はずみでフードが脱げて顔が見え、ジーンは思わず息を飲む。その子が銀色の髪、褐色の肌、そして深い深い緑の瞳を持つ、この世のものと思えぬ美しい子だったからだ。
子どもは蝶を見つめた後、緑の視線をジーンに向けると両手を柔らかく上げて最初は蝶に、次にジーンに向けた。その途端、ジーンは全身が温かい何かに包まれたように感じた。
なんだろう、この温かさ。心の奥深くの氷が溶けだして雪解け水として溢れるような。
子どもはジーンに慈しむような視線を投げかけてから立ち上がり、フードを被り直してトーヤと一緒に墓所から出る方向に歩き始めた。二人はそのまま夢に溶け込むように小さくなり、やがて姿が見えなくなった。
ジーンは夢から覚めるとまず共同墓所、次にミーヤの墓に足を向けた。ミーヤの墓の一角が小さく欠けている。この間来た時にはそんな傷はなかったはずだ。そしてその意味を知った。
トーヤは二度とここには戻らない。そのために母の代わりの小石と、ミーヤの代わりに墓の一部を持っていったのだ。
ジーンはトーヤと別れてから初めて泣いた。もう二度と会うことはない、これでもう待たなくていいのだ、そう思って思い切り泣いた。もう待つのをやめていいのだと自分に言い聞かせながら。
とめどなく流れ落ちる涙に夕刻近い海からの風を受け、ジーンはトーヤの匂いを思い出していた。潮風のような、微かに鉄の匂いのする、初めて出会った時の懐かしいあの匂いを。
ジーンはその後も同じ店で同じ生活を続けていたが、数年後、新しくできた常連の男に落籍されて仕事をやめた。
男は体格のいいがっしりとした船乗りだった。大きな体に似合わず細やかな気持ちの持ち主で、とても優しい人だ。何年かジーンの元に通っていたが、ある日突然、自分と一緒にならないかと言われた。
「おまえは気性もよくてさっぱりしてる。色んなところで相性がいい女だと思ったし、何より一緒にいて楽だ。なあ、考えてくれねえかな」
ただの常連だと思っていたので言われた時は驚いたが、その言葉がいつかどこかで聞いたのと同じ言葉だったことから、ジーンは考えた末に話を受け入れることにした。ジーンの年季明けまでにはまだもう少しあったが、男は残っていた借金を払ってくれて、後腐れなく店を後にすることができた。
男は天涯孤独の身の上で、ジーンが望むならどこの町で暮らしてもいいと言う。船乗りなので、もちろん海のある場所という条件はあるが、船にさえ乗れるならどこでもいいということだ。それでジーンは15歳の時にやって来たこの町から遠く離れた場所に行きたいと言った。ある人のいないところである人のことを知らない人と新しい道を歩きたい、そう思ったからだ。
ジーンは町を出る時に名前も捨てた。元々娼婦をやるためにもらった名前だ、その名で新しい人生を歩き始めるわけにはいかない。だが生まれた時につけてもらった名前にも戻りたくない。家族と一緒に一度は捨てた名だ、もう一度拾うつもりはない。それで男に新しい名前をもらった。男は優しい名前をくれた、これからはこの名でこの人と共に歩いていく。
家族には仕事をやめたこと、結婚することだけを簡単に書いた手紙を送り、それで終わらせた。これで家族も安心してくれるだろう。きっと家族を助けるために身を売ったジーンのことは、傷となって残っていたはずだ。ジーンの恨みの気持ちも多少は薄くなった気もする。
そして遠い港町で新しい生活を始めた。男はそれからもしばらく船乗りをやっていたが、最初の子どもができた頃に家族ができるからと船を降り、商売を始めた。
船では調理もしていた、料理は得意だと言って妻と二人、作ったおかずを売り歩く「煮売屋」から始め、多少の金が貯まったところで小さな店を持った。商売は大繁盛とまではいかないが順調で、安くて味がいい店として船乗りたちが集まる店になった。
静かで穏やかな時が流れていった。元船乗りの夫婦には三人の子どもができて、どの子も元気ですくすくと育ってくれている。裕福とは言えないが、忙しくとも充実した日々。毎日気がつけば一日が終わっているが、その過ぎた日々さえも愛おしい日々。
女は今の暮らしに満足して、昔のことは忘れた。家族と一緒だった日々も、その後に続くあの日々も。今が幸せだ、心からそう思えた。
何より夫は自分を見てくれる。自分が視線を向けるとあちらも暖かく返してくれる。自分だけが相手を見つめているのではない。夜、ふと目が覚めて髪に触れても女の手を止めることもない。激しい恋情を抱いた相手ではなく、夫に対して焦げるような思いはないが、そこには春のひだまりのような穏やかな愛情があった。
だがそれでも時々、海風に女はふと振り返る。微かに潮と血のような鉄分の臭いを含んだその風に、誰かを感じて。
そしてジーンという娘がいたことを思い出す。今はもういない、一途に誰かを想っていた、孤独な心を抱えたあの娘のことを。
強い風が吹いた。思いは潮風に乗って海の向こうへ流れ、女はまたしっかりと足の下にある明日に向かって歩き始めた。




