2.少女の嫉妬
ブリブリと腹を立てながら階段を駆け下り、洗面所に駆け込んだところで入口の敷居に蹴つまずき、鸞は思い切り両手を広げて目の前の広い背中に激突した。
ワイシャツの下には古武術と剣道とで鍛え抜かれた鋼の筋肉があり、185㎝に至るに相応しい広々とした面積を誇るその背中。どさくさに紛れて腰に両手を回し、うっとりと頬を寄せると、兄・孔明ひろあきが愛用するボディーシャンプーの香りが鼻腔を刺激した。
「懐くな、鸞」
んんん、と頬を擦り付けて、176㎝の鸞が脇の下から覗き込むように鏡を見ると、孔明はその三白眼の目尻を下げて、柔和に微笑みながら髪を撫で付けていた。
「兄上は僕が嫌い? 」
「そんなことはないよ」
黙っていればヤクザ映画の俳優のような迫力の三白眼だが、こうして鸞や亮子を見つめる目はとても優しいのだ。女々しさの欠片とてない男性的な造形美は、しかしながら父・玄徳の影も、無論母・美鳥の血も感じさせない。
実は孔明は、玄徳の無二の親友の忘れ形見であり、親友夫婦が揃って事故死した後、玄徳が引き取って養子としたのであった。父も母も、鸞が大学進学用に揃えた書類を見てその事を知るまで全く気づかなかった程に、3人を分け隔てなく育て、等しく最大限の愛情を注いだのであった。
「また亮子にやられたのか」
「あいつ、ムカつくぅ」
その事実を知ってからというもの、鸞の想いは弟という分限を超えてしまった。身長も、絶対に大男になりたくないと願う鸞の予想を裏切ってニョキニョキと伸び続け、あわや180㎝というところまで伸びてしまった。孔明に大柄だと思われたくないと体重や体型に気を遣い、筋肉のつけ方にも細心の注意を払っていた。それもこれも、あの腕の中にジャストフィットに収まりたいなどという、自分でもどうしたらそんな発想が生まれるのか分からぬ程の、己の中の奥底に眠る制御不能な『何か』のなせる技であった。
「鸞は良い子だ、可愛いよ」
くしゃくしゃと頭を撫でてくれる兄の手は大きく優しい。だがその手はどこか、そこから先に踏み込ませぬ壁のようにも感じる。そしてやはり今日も、孔明が腕の中に鸞を収めてくれることはなかった。
朝の度に千々に乱れる想いを押し殺して、鸞は玄徳と孔明に給仕を続けた。亮子は案の定、スカートの下にジャージのパンツという嘆かわしい格好で現れ、大股開きで椅子に座るなりパンに噛り付いた。ショートボブの髪はあちこち自由に跳ね散らかされ、櫛を通した形跡もない。目にはまだ目ヤニもついたままだ。
黙っていれば醤油系のクールビューティで、目鼻立ちは決して悪くない。どういうわけか孔明寄りの三白眼で、どういうわけか玄徳寄りの硬派な薄い唇で、ちょっと鼻が鸞より大人しめな高さというだけのことである。
対して、フランス人形のような丸く小さな顔に、くっきり二重の大きな目と、ふっくらした唇、丸く秀でた額に櫻色の頰と、優しい曲線で象られた鸞の顔立ちとは、まるで相容れなかった。
ワイシャツの上に乗っかるにはおよそ不似合いな顔容かんばせの鸞が、これまたバサバサと音を立てそうな長いまつ毛を揺らして小言を言うものだから、亮子には面白くない事この上ない。
「アンタ、何その格好は! 折角の可愛い制服が台無しじゃないの!! 第一、顔くらい先に洗ってきて! 」
ポタージュをカップに注いで手渡しながら、つい小言をぶつけてしまう鸞に、亮子は舌を出した。
「朝からイライラしてんじゃねぇよ。生理前か? 」
玄徳と孔明が、同時にコーヒーを吹き出した。
「兄に向かってなんて事を」
「生憎だね、オイラぁ生理持ちの兄貴なんざ、兄貴とは思っちゃいねぇんだよ」
「生理なんかないわよっ!! この全身直線スカイツリー女!! 」
玄徳は頭の上で繰り広げる喧嘩にも動じず、呑気にパンを齧っている。
「よさんか、亮子」
流石に孔明が妹を制した。
「仮にも女の子だろ、膝を閉じて、背中をきちんと立てて食事をしなさい。折角のチャーミングな顔が台無しだぞ」
あくまで優しく諭したつもりだが……亮子は顔を真っ赤にしてプルプルと手先を震わせるなり、食器をひっくり返す勢いで立ち上がった。
「チャーミングだなんて言うなっ!! 母上の美貌はこのバカ鸞が全部取っちゃって、おいらの顔は父上に似ちゃったんだ。どこからどうみたって、おいらの方がブサイクだもん、ブスだもん、鸞の大馬鹿野郎!! 」
それだけ喚き散らして、亮子は鞄を手にそのまま玄関から飛び出して行ってしまった。
呆気にとられた男性陣は、お互いの顔を見比べながら言葉を探した。
「……随分と、酷い言い様をされた気がするのだが」
「いや、まぁ、父上の顔立ちに似て、女の子にしては少々凛々しく出来上がったというだけの話で……」
「そうだよ、宝塚の男役みたいで、中学の時だって女の子にすっごくモテたんだから」
「鸞、それ褒めてないぞ……」
孔明の指摘に、鸞があっと手で口を塞いだ。そんな仕草も、確かに鸞は亡き母・美鳥によく似ている。
「美しくて家事にも精通したおまえに、嫉妬しているんだな。やはり亮子は女の子なんだ」
美しくて……鸞は兄の口から出たその言葉に、不謹慎ながら頬を赤らめてしまった。
「とはいえ鸞はやはり男だ、美鳥の代わりは務まらん。こんな風に男3人額を寄せ合ったところで、あの子を慰めてやる方法も見つからん」
「だったら父上、再婚でもしてください。あの子を人間らしく仕込むなんて、僕には無理ですっ」
「おい」
「なに、文句あります? 難しいことは全部僕に丸投げにしてるくせに」
ムスッと口を尖らせて嫌味を放つ鸞を、孔明が三白眼の睨みで制した。
「僕、もう出ますから。お皿くらい洗っておいてもバチは当たりませんからねっ」
睨まれてヘソを曲げ、鸞はエブロンを叩きつけてキッチンから出て行ってしまった。
「……孔明、鸞の奴には本当に生理があるのではないか? 」
「んなわけないでしょう……あるのかな」
「おまえも存外、修行が足りんようだな」
「父上に言われたくはありませんよ」
桔梗原孔明30歳、悩み多き男である。