30話 母2
その要望に僕が息を吞んだ隣で、そのとき、横からにゅっと手がのびて進路相談室のドアを思い切り開ける人がいた。
止める隙もあたえずあっけなくそのドアを開いたのは、海さんだった。
ドアの向こう側にいた人たちが全員、こちらを驚きの表情で見つめている。
「う、海さん……」
「あっちゃ~」
徹くんが目に手をあてながら、しまったという表情をしている。
この状況はまずい。
「な、何なのよ。あなたたちは……」
「何なのって、ただのクラスメイトですけど」
永井さんのお母さんが驚いてなんとか言葉を紡ぎだしたという感じでいるのとは対照的に、海さんはさも当たり前のようにそう答える。
「どうして……」
そこで初めて永井さんが口を開いた。
徹くんが「やれやれ」とつぶやいて、隣で腰をあげた。
「コノハに勉強を教わりたかったのに、いなかったからさぁ」
「と、徹まで!」
「徹って――。あなた、渡良瀬さんのところの!?」
「そうでーす」
彼がでていくとなると、残った僕も逃げるわけにいかず立ち上がって前にでるしかなかった。
永井さんは僕にも一瞥をくれるが、直後に隣に来た徹くんに、彼女は腕をつかまれた。
彼はそのまま永井さんを無理やり席から立たせると、こっちに向かって引っ張ってきた。いや、こっちっていうより、僕の横を通り過ぎて出入口へ向かっていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
永井さんは慌てて自分の腕から徹くんの手を振り解いた。
「なんで?」
「コノハ、戻りなさい」
徹くんの言葉にかぶせるようにして、永井さんのお母さんの厳しい声が部屋に響く。
永井さんが一瞬にして怯えたような顔になり、戻ろうとしたのを海さんの声が制した。
「行きなよ」
その場が静まり返る。
「戻る必要なんてない。行きなよ」
不思議な威圧感を放ちながら、海さんはそう言い続けた。
永井さんのお母さんが立ち上がる。
「ふ、ふざけないでちょうだい! こっちは今、真剣に進路相談をしているのよ! 部外者は立ち入り禁止よ。あなたたちはとっとと帰りなさい!」
それから怒りの矛先を、さっきから黙って成り行きを見守っている秋庭先生へと向けた。
「こういう生徒がいるから嫌なんです! もう決めました。今日でこの学校とはお別れします! そのほうがコノハにとっても――」
「それって、コノハの気持ちを考えてんの?」
永井さんのお母さんの言葉を、重みのある大きな声で海さんはさえぎった。
直後に永井さんのお母さんは海さんをギロリとにらみつけた。
けれど海さんは動じずに話を続ける。
「毎日毎日、休み時間も放課後も、家に帰ってからも勉強を頑張っている子どもに向かって言う言葉がそれなの? あんたは何も見てないから知らないだろうけど、毎日。コノハは必死になって勉強してる。そんなにやる必要あんのかよってくらいにさ。何も見てないくせして、自分の都合だけで人を動かせると思うなよ」
永井さんのお母さんの表情がゆがみ、彼女の平手が上がる。
僕は思わず目をつぶった。
「や、やめてっ!」
慌てるようにして永井さんが母親の振り上げた腕にすがるようにして止めに入った。
永井さんのお母さんは怒りのあまり肩を震わせていた。そんな彼女を前にしてもなお、海さんは一切動揺を見せることなく、彼女の目を真っ直ぐにらむように見つめ、立ち続けている。
たとえあの手が振り下ろされてぶたれてしまおうとも、気にしないといった風で。
「今日は帰らせていただきます!」
永井さんのお母さんはしばらく海さんをにらみつけていたけれど、やがてそう吐き捨てるように言うと、ドスドスと大きく足を踏み鳴らしながら、進路相談室のドアから外へとでていった。




