日記 2
ある時体育の授業で打ち身を作り、病院へ行った。診察を終え、会計を済ませて薬の処方箋を受け取ってから、喉の渇きを覚えて自販機へ向かった。そこで、史織に出会った。
史織は紅茶の缶を開けるのに、悪戦苦闘していた。大芽が小銭を入れる前から懸命にプルタブを上げようとカチカチいわせ、彼が購入した水を取り出し、蓋を開けて飲んでもまだどうにかしようと頑張っていた。見かねて開けようかと声をかけ、恐縮するような上目遣いの顔をひと目見て、これほどかわいい子にはお目にかかったことがない、と内臓全てが高揚した。
格好から、入院患者だと判断できる。史織よりも身長が低い女子はいくらでも知っているのに、誰より小さく華奢に感じた。降りかかるもの全てからこの手で守り通したいと、心の底から強く思った。
史織はやや健康と不健康の間を数ヶ月のサイクルで行き交っていた。出かけても、途中で体調を崩して家に帰るということはよくあった。病気の辛さよりも、大芽との時間が台無しになってしまう方が苦しいと泣く史織が不憫で、傷つけたくないという思いはより強固になっていった。
瑞穂と会う時間は必然的に減ったが、それまでの彼女と付き合っていた時とは違い、全く気にならなかった。それでも史織の体調が優れない際は、話を聞いてもらった。瑞穂は実の姉のように親身になってくれた。頭は史織のことで一杯だった。
史織が元気なタイミングを見計らい、僅かでも多く繋がりを持ちたくて、一つになった。腕の中の史織はか細く、少し力を込めただけで壊れてしまいそうで、胸の中に不安が芽生えた。まだ学生だが問題ではない。一刻も早く結婚したいという気持ちが急激に高まっていった。しかし祖父の要望が、大芽の欲求を阻んだ。
二度の請願を跳ね返され、埒が明かないと、大芽は瑞穂に祖父の説得を頼むことにした。喫茶店で事情を打ち明けながら、漠然とした違和感を覚えた。自分が現在地を把握し損なったまま地図の道を進んでいるような、間違っていることにすら気がついていないような胸騒ぎを感じた。が、しかし、瑞穂との婚約は自分の望むところではないと殊更強調することで、時折周囲の地形を確認しようとする自分の意志を、無理矢理軌道修正した。帰り際、確認を求める大芽の言葉を肯定する瑞穂の笑顔に、自分は間違っていないと勇気づけられた。
待ち望んだ吉報を聞いて、さすがは瑞穂だと狂喜乱舞した。
その分、相次ぐ訃報に心底打ちのめされた。
史織を欠いた灰色の世界で、明日の到来を恐れる大芽の顔を上げさせたのは、やはり瑞穂だった。必要最低限の言葉以外何も言わずに隣に居続けてくれた瑞穂に励まされ、大芽はもう目覚めることがない史織と対面する決意を奮い起こした。
だからこそ、史織の親が伝える、祖父が見舞いに来たという意味を考えた時、まず瑞穂に確認するべきだと思った。そして判明した詰めが甘い瑞穂の説得に、頼んでいた物とは別のおやつを買ってこられたような、子が親に持つに近いわがままな失望を感じた。
そして。
次の瞬間大芽は思い知らされる。
今までの自分の勘違いを。
変化に追いつけない内に、自然とすり替わってしまった自分の感情を。
瑞穂が自分を好きだと悲壮な目で語った直後、不意を突かれて無防備だった本心が、大芽の意識の下にさらけ出されてしまった。
――どうして、もっと早く言ってくれなかったんだ。そうすれば――
そうすれば?
そうすれば、どうだというのか。
自分が瞬間に弾き出した思考が信じられなかった。足元がゼリーのように頼りない物質に変化したような錯覚を起こし、膝が小刻みに震えた。間を置かず、史織が浮かべる幸せそうな笑顔と、悲しそうに泣く表情が頭に交互に表れた。
そこで、大芽は思考を停止した。自分が一瞬巡らせた言葉の先を、敢えて追求しなかった。突き詰めてしまうと、史織に申し訳が立たない気がした。身体が辛い中、史織は大芽に混じり気のない愛情を手渡してきた。大芽も同じ想いを惜しみなく返してきた。そんな彼女と過ごした自分の感情に、疑問の余地を残したくはなかった。
己と向き合う役目から逃避した大芽の心は、攻撃の衝動で武装した。降って湧いた天災のような恋心だけを客観的に認識した彼は、自分の立場を今までとは逆の、瑞穂の上に置くことにした。裏返った位置関係は、大芽の感情までをも反転させる。
大芽は、瑞穂に強い憎しみを抱いた。亡くなった人間には手が届かない。だから祖父の分も瑞穂に被せた。誰よりも大切な恋人を死に追いやった人間に報復するのは、当然だという気がした。瑞穂をどん底に突き落とすほど、傷つけたいと願った。誰かの手で庇われては堪らないので、手段として結婚することにした。瑞穂に断るという選択肢を与えるつもりはなかった。
次の日真相が判明しても、史織を裏切らせる思考を自分に巡らせた罪は、償なってもらう必要があると信じて疑わなかった。
「今思えば、結婚したのだって結局は、ミズさんを他の男に取られたくないからだったんだろうけどね。復讐は、いい口実だった。今は素直にそう思えるよ。あの時は捻くれていたけど」
「今の大芽さんも充分ヒヨッコで捻くれています」
容赦ない合いの手に大芽は、ははは、と大人しい笑い声で答えた。神崎から少し視線をずらした位置に、窓に切り取られた空が覗いている。入道雲が覆っていない真っ青な部分に、飛行機雲が一筋走っていた。瑞穂もこの窓から白い線を眺めたことがあったのだろうか。
「あの誘拐事件の時もね、心配で、矢も楯もたまらず探しに行きたかったよ。でも当時の僕は、面倒事に苛ついてじっとしていられないだけだと思い込んでいたんだよね」
赤い日記に話しかけるように言うと、神崎からは「救いようがないですね」と冷たい声が返ってきた。
朝早く、電話で事情を聞くと、大芽は直ちに警察へ連絡するよう沢村に言い含めた。会社に泊まり込んでいた父親には大芽が連絡し、すぐさま自宅へ駆けつけた。警察が家の中を動き回っている間の出来事は、日常とはかけ離れすぎていて、どこが現実味が薄かった。
ただ、普段は大芽に同調して瑞穂と関わろうとしない、沢村の憔悴した姿。仕事で気力も体力もすり減らしている父親が、組んだ指を額に当てている様子。それらを見て、許せないという気持ちだけが頭を支配していた。それが犯人に対するものか、瑞穂に向けたものなのかは判然としなかった。
そうして無事に帰ってきた瑞穂に、積もりに積もった怒りを直接ぶつけた。史織の涙を目にするとどうにか止めたいとあれこれ手を尽くしたものだったが、瑞穂の泣き顔はさらなる苛立ちを呼び起こすだけだった。それでも一刻も早く瑞穂の嗚咽が聞こえない場所に逃れたくなり、暴言を吐いてその場から立ち去った。
これ以上、厄介な事件を起こされては堪らない。瑞穂には監督する者が必要だと大芽は考えた。どんな人間をつけるかを思案し、今は会社にいない、かつての祖父の優秀な秘書が脳裏に閃いた。頭の出来は申し分なく、剣道の有段者である彼ならどんな事態にも対応できるだろう。興信所に頼み、居場所を探してもらうことにした。
一方で、瑞穂の泣き顔が頭から離れなかった。歩いている時、寝る前、時には仕事中でも油断していると浮かんでくる。責められているような気がして、それはこちらが抱く感情であるべきだろうと無性に腹が立った。余計に傷つけてやりたくなり、復讐心に近い動機で愛人を作った。一人では気が済まず、もう一人増やした。他の女を抱くことに、申し訳なさを感じるのは史織に対してだけだった。
調査を頼んでから一週間も経たない内に神崎は見つかった。しかしのらりくらりと躱され、接触を持ち仕事を依頼できたのは約三週間後だった。どうやら会社に戻ってきてほしいと請われるのが鬱陶しかったらしい。事情を打ち明け、何故さっさと言わないと厚顔な台詞を吐かれた時、そういえばこういう食えない人だったと苦々しさを交えて思い出した。
蝉時雨の合間に、鳥が短く鳴いている。木漏れ日がさやさやと動く。庭の枝葉を揺らしながら涼しい風が入り込んできて、部屋の気温が一瞬下がったような心地だった。
「愛人の二人はどうするんです? どちらかと結婚するんですか」
思いつきを口にしたというように、神崎が尋ねてくる。
大芽は確信を交えてかぶりを振った。
「しないよ。これまでも、これからも、僕の奥さんはミズさんだけだから」
誠実に心の内を打ち明けたつもりだったが、大芽に注がれた眼差しは氷のように温度の低いものだった。
「外の女と子供を三人もこさえておいて、よくそういう恥知らずな世迷い言を唱えられるものだ。口を慎むという言葉を知らないとみえる」
「その言葉、そっくりそのまま徹さんにも当てはまると思うけどね。――あの人たちとはもう別れるよ。元々、僕よりもお金の方が好きな人を選んでいたし」
間違っても大芽に本気になるような女性を巻き込まないよう気をつけた。こじつけでしかない復讐心に付き合ってくれた二人は、大芽よりもよほど割り切れていてしたたかで、人間が出来ていたように思う。
「納得してくれるんですか? 会社の跡取りになると、大いに期待していそうですが」
「あれだけ規模が大きくなった企業の本社社長を血縁で選んでいて、これからの時代を生き残っていこうなんて甘いと思わない?」
ここ数年は海外にも拠点を置き、じわじわと成果を上げている。もう、従来通りの経営方針では通用しないだろう。
「優秀な人間なんて社内にもゴロゴロいる。僕でさえ、将来どうなるかは分からないよ。子供は可愛いから離れるのは寂しいけどね。綺麗だし頭が良くて世渡り上手な人たちだから、すぐに新しい相手を見つけて幸せになってくれると思うよ。マンションと家の名義はあの人たちの名前にしているし、養育費と生活費は今まで通り払うしね」
「これだから、金持ちの道楽息子は嫌いなんですよ。なんでも金で解決しようとして」
「自分だって一杯稼いでいるくせに……。まあ、だから徹さんにも報酬を払えていたってことで許してよ」
溜息混じりに実感を込めて言われ、大芽としては苦笑を返すほかなかった。そしてすぐに罪のない存在のことを考え、目線を落とす。フローリングの木目を見つめた。
「子供には、可哀想なことをしたと思ってるよ。こっちの都合で片親を奪うんだから。でも何かあった時は、できるだけ力になろうと思ってる。あの子たちが望む限り、ずっと」
成長した子供たちには恨まれるかもしれない。もしくはまだ覚束ない幼児のこと。母親の方針によっては、大芽という父親がいた事実は記憶から消されてしまうかもしれない。それは大芽が背負っていくべき報いだ。
同じ体勢でいたせいで凝ってきた身体のあちこちを解すため、あぐらを組む座り方に変え、膝の上に置いた日記に両手を添えた。見上げると、真っ直ぐな線だった飛行機雲は、端からぼんやりばらけてきていた。
どれほど時間が経っても瑞穂の泣き顔は消えることがなかった。やぶれかぶれな勢いで愛人との間に子供を作ると、余計に鮮明に思い出すようになった。現実の瑞穂の顔はどうあっても見たくないと思い、実家にはほとんど近寄らなくなった。ただ、沢村が寂しがるので彼女とは時々外で顔を会わせるようにした。
激務が続いて連日帰宅が遅く、その日は明日からもう少し楽になると思って気が緩んでいた。夜中、慣れた道をバイクで帰っている途中に、瑞穂のことが突然頭に浮かんだ。数日間、忙しさの中で思い出さずにすんでいたので、これは不意打ちだった。頭から追い払うために首を振り、よそ見をしてしまった。だから制限時速を守っていたとはいえ、気づくのが遅れた。道路に横たわる姿が目に飛び込んだ後はもう、無我夢中だった。
身体が宙を飛んでいる最中、次に待ち構えている衝撃を意識している頭とは別に、心が思い描いていたのはやっぱり瑞穂の顔だった。
――そんなに泣かないでよ。
草葉の陰から見守っているだろう祖父は、歯軋りを交えて憤慨していたに違いない。
この状況は、不甲斐ない孫に気づかせようと与えられた懲らしめなのかもしれない。
さすがにもう誤魔化しようがないと悟り、自嘲を漏らすと同時に地面へ叩きつけられた。




