第293話 『夕暮れの海』
「イーディス。あの子……本当に仕事が早いわね」
そう言うとアメーリアは室内を見回した。
そこは新都西地区から中央部に近い場所に位置する、とある地下室だった。
昨夜、イーディスが矢文で伝えてきたのは、ブリジットの情夫であるボルドの居場所だけではない。
あらかじめイーディスが潜伏中に用意しておいたこの隠れ場所の位置が記されていたのだ。
そこは最近作られたのではなく、古代の遺跡として残されていた場所だった。
物資がたくさん詰められた納屋の裏にある地下への石段を降りた先に、おそらくかつては貯蔵庫として使われていたであろう、この地下室がある。
それだけならば隠れ場所としては決して安全とは言えないのだが、そこは入口が地震か何かで崩れて瓦礫の山となっているのだ。
要するに外から中に入ることは出来ないように見える。
しかしイーディスは瓦礫の隙間に入れそうな場所を見つけた。
そして巧妙に隙間を作り、中に足を踏み入れて内部を調べたのだろう。
そして入り口の内側から瓦礫の欠片である石片で蓋をして、外からは一見すると入れなく見えるように細工を施したのだ。
昨晩まだ暗いうちにこの場所を訪れたアメーリアとドローレスは、その細工された石片をどかし、瓦礫の隙間から難なく地下室へと入っていった。
足を踏み入れて見ると崩れているのは入り口だけであり、中は意外と広くしっかりとした造りになっていた。
少々埃臭い以外は、身を潜めるのに問題のない場所だ。
なぜなら中にはイーディスが用意していたと思しき蝋燭や食料、水に毛布などが置かれていたからだ。
おそらく彼女もここで短時間、身を潜めていたのだろう。
今、ドローレスはアメーリアの隣でウトウトとしている。
先ほど食べさせた鎮静剤入りの干し肉が効いているようだ。
「少し寝てなさい。ドローレス。こんな場所はあなたには退屈でしょ」
次に行動を起こすのは夜になってからだ。
やはり昼の間は黒髪の女が移動していたら目立ってしまう。
そしてこの場所にはイーディスがさらに効果的な物を用意してくれていた。
ダニアの女たちが身につけている革鎧と鉄兜、そして陶器の器に入った赤い塗料がそこには置かれている。
「この匂い。紅花の塗料ね。あまり気が進まないけれど……」
そんなものをここに置いたイーディスの意図は分かっている。
アメーリアは溜息をつくと、塗料の容器を手に取るのだった。
☆☆☆☆☆☆
「ディアナさん。大陸が見えてきた。ここからは潮の流れが速いから、すぐに到着するよ」
「分かった。皆に船を降りる準備をするように伝えてほしい」
報告に来た若い女にそう言うと、ディアナは溜息をつきながら自分の荷袋を手元に引き寄せた。
40歳を過ぎて戦士としての峠をとうに越えているとはいえ、ディアナもダニアの女だ。
戦場に出る前には必ず気持ちが昂ぶるものだった。
だが、こんなにも気分が乗らないことは今まで一度もなかった。
理由は明確だ。
彼女はほんの数日前まで手枷足枷をかけられた囚人だった。
今は手足こそ自由だが、本質は変わらない。
(いや、むしろ前よりもっとひどい。望まぬ戦いに駆り出されようとしているんだからね)
少し前に彼女は仲間たちと共に、砂漠島から目と鼻の先にある監獄島という小島に収監された。
彼女がアメーリアに逆らうクライドという男の妻だからである。
クライドは殺され、ディアナを始めとするクライド派の者たちは皆、降伏せざるを得ない状況に追い込まれたのだった。
そしてそのまま囚人として死ぬまで働くのだと思っていたのだが、黒き魔女がある取引を持ちかけてきたのだ。
それはクライド派の面々と共に自分の戦に加勢するのならば、全員に恩赦を与え、監獄から解き放つというものだった。
さらに戦に勝った暁には、大陸の公国内に土地を与えられ、公国民として暮らすことを許されるといった条項もある。
ディアナを含め、亡きクライドに近しかった者たちはこれに反発した。
敵の施しに縋るほど気概を失ったわけではない。
だが、ディアナ以外に反発していた数人が見せしめとして処刑されてしまったのだ。
その惨劇を経てディアナは苦渋の決断を下した。
もし自分1人ならばどんな取引だとて応じるつもりはなかった。
夫を殺した女に阿るつもりなど毛頭ないからだ。
逆らって自分1人が死ぬのであればそれこそ本望だ。
亡き夫の元へ胸を張って旅立てる。
だがディアナには自分と夫を信じてついて来てくれた同胞たちがいる。
彼女らの未来まで奪うことは出来なかった。
そのためこの屈辱的な取引に応じざるを得なかったのだ。
亡き夫クライドは彼女にとって良き夫であり、戦友でもあった。
彼を失った今もディアナがこうして気を張っていられるのは、彼が残してくれた仲間たちを自分が守らなければならないという強い使命感のおかげだ。
夫の遺志を継ぐ、などと言える状況ではなくなってしまったが、仲間たちの命を守る責任が自分にはあるのだと彼女は強く胸に刻んでいた。
(夫の仇である女に従い、あの女のために剣を振るわなければならない。惨めなものだね。クライド……私を笑うかい?)
彼女の夫のクライドはアメーリアへの反逆者として、その部下であるグラディス将軍に首を落とされた。
彼女は首の無い夫の遺体を弔ったばかりなのだ。
クライドの遺体は反逆者のそれとして、首のないまま残酷にも磔にされていた。
本来ならば弔うことなど叶わなかったはずだ。
だが、アメーリアの意を受けた監獄島の監守長が持ちかけてきた取引の一つに、黒き魔女の意に従うのならば夫の遺体を正式に天の兵士として埋葬してもいいというものがあった。
ディアナの反発心を抑えるための巧妙なやり口だ。
分かってはいたが、彼女はそれに応じて夫の遺体を手厚く葬ったのだった。
(アメーリアのために戦うと思わなくていい。自分のために戦うんだ)
ディアナは自分にそう言い聞かせた。
黒き魔女の提案に反発する仲間たちにそう言い聞かせてきたように。
ディアナは気持ちを落ち着かせてから立ち上がると、船倉を出て甲板に立った。
夕暮れに染まる海面の向こうに大陸の影が見える。
彼女を始めとする仲間たちが大陸に渡るのは初めてのことだった。
そして大陸といえば思い出すことがある
「アーシュラ……」
ディアナはふとその名を小さく呟いた。
血は繋がっていないが、彼女の姪だ。
夫の兄の娘。
もちろん彼女もアーシュラとは面識がある。
アーシュラは大陸で銀髪の女王クローディアの部下として働いているはずだ。
ということはディアナが今から戦う相手にはアーシュラも含まれることになる。
そのことが心苦しかった。
ディアナは己の運命を呪いながら、憂いに満ちた目で大陸の影を見つめることしか出来なかった。
☆☆☆☆☆☆
大陸南岸の港町。
日が西に傾き、赤い陽光に街全体が包まれている。
すでに船荷の積み下ろし作業も終わり、船員らが夜の街に繰り出しては酒を飲み始めている。
その街に4人の女と1人の男が到着した。
全員が外套を羽織り、帽子を目深にかぶって頭髪と顔を隠している。
そのうちの1人の女がチラリと帽子のつばを指でつまんで上げ、前方を眇め見た。
赤い前髪がハラリと夕風に舞う。
「ふぅ。ようやく着いたな。船はまだ到着していない。間に合ってよかったぜ。なあ? アーシュラ」
そう言う彼女の隣で静かに頷く少女は、波止場の彼方に見えるいくつもの船影に目を凝らし、その表情を引き締めるのだった。




