第271話 『避難』
敵襲を告げる警告が響き渡ると、ボルドは思わず身を固くした。
ブリジットの天幕で待機していた彼は事前に決められていた通り、小姓らと共に避難を開始する。
戦の際は小姓、老人や子供などの非戦闘員のうち動ける者は裏方として働く決まりになっていた。
戦士たちの食事の用意や、怪我人の治療を主な仕事として、やることは山ほどある。
だが幼い子供や動けない老人などは避難することになっていた。
避難先は地下遺跡だ。
もともと古い時代の遺跡であったこの岩山には、内部に作られた遺跡が残されている。
そこはかなり広く、空気の通り穴なども完備されていて、昔から地下の施設として使われていたらしい場所だった。
ここに入植してから、クローディアの主導でそこを避難場所として整備しておいたのだ。
それは仮庁舎の真下に存在する。
必然的に多くの避難民が仮庁舎に集まって来ることになった。
「ブリジット!」
避難する人々の波に飲まれるようにして歩いていたボルドは、庁舎前の軍本部にいるブリジットの姿を見て声を上げた。
だが今は軍事作戦中であり、情夫である彼がおいそれとブリジットに近付くわけにはいかない。
それを分かっているからブリジットもボルドに軽く手を上げただけに留め、彼も頭を深々と下げるに留まった。
それでもボルドは胸の内で彼女の無事を祈る。
(ブリジット。どうかご武運を)
そして同じようにブリジットの隣に並び立っているクローディアにも深々と頭を下げてから、ボルドは避難場所である仮庁舎へと足を踏み入れた。
非戦闘員の全員が事前に避難訓練を幾度も行ってきており、混乱なく整然と地下へ避難していく。
一方、ボルドは地下ではなく仮庁舎の1階の一室へと小姓2人を連れて避難した。
彼だけ別室避難なのはブリジットの情夫だからという以外にも理由があった。
ボルドが黒髪術者としての力に目覚めていることは、女王2人とそれに親しい者、そして紅刃血盟会の面々のみが知っている。
その力が戦時に役立つかもしれないため、彼が異変を感じた際にすぐに外の軍本部へ連絡を行えるよう地下には潜らなかったのだ。
彼と同室で待機する小姓2人のうち1人は伝令役だった。
ボルドが異変を感じた時は、この小姓が部屋を出てすぐに軍本部の天幕へと報告に走るのだ。
そしてボルド達が避難したそこは窓のない部屋であり、衛兵2人の立つ入り口以外には外から入ることの出来ない場所だった。
ボルドの安全のために、そのくらい厳重な避難場所にするようブリジットが命じたのだ。
決して広くはなく、小姓2人と一緒だとむしろ手狭だが、きちんと柔らかな寝床も用意されていて、この非常時にこれ以上は望むべくもない。
「我が軍が勝利するまでの我慢です」
そう言うと小姓たちは部屋の扉を閉め、持ってきた荷物を荷解きする。
食料や水、その他の必要最低限の日用品のみを持ってきていたが、その中に小刀が3本含まれていた。
小姓は鞘に収まった一本の小刀をボルドに手渡す。
「これは……?」
「必要なものです。持っていて下さい」
いざという時の護身用だろうとボルドは思った。
自分の身は自分で守らなければならない。
だが、小姓が言ったことは、そんなボルドの予想を覆した。
「いざという時に……自害するための刃物です」
冷然とそう告げる小姓にボルドは思わず顔を強張らせた。
そんな彼の反応を気の毒そうな顔で見ながら、それでも小姓は続ける。
「万が一、我が軍が敗れるようなことがあれば、我らと共にそれで自らの喉を突いて下さい。あなたはブリジットの情夫です。再び敵の捕虜となり辱しめられるようなことがあってはなりません。ブリジットの名誉のためにも、いざという時は覚悟を持ってご決断を」
そう言う小姓にボルドは息を飲む。
そしてその時のことを想像して恐ろしくなった。
天命の頂から飛んだ時は必死だった。
必死になればこの小刀で自分の喉を刺し貫けるのだろうか?
小刀を手に表情を凍りつかせるボルドを見て忍びなくなったのか、小姓は言う。
「ご自分でなさるのが恐ろしければ、私がお手伝いいたします。ボルド様は目を閉じていて下されば……」
そう言う小姓の話を聞きながらボルドはさらに想像する。
自分がそうなるということは、すでにその時ブリジットはこの世にいないということだ。
そう考えると、死ぬのも恐ろしくないように思えた。
ブリジットの勝利を信じているが、いざという時には覚悟を決めなければならない。
そう思ったボルドは小姓の話を遮り、小刀の柄を握り締めながら口を開いた。
「いえ、自分でやります。それがブリジットの情夫としての責務ですから」
「……そうですか。ご理解いただき感謝します。この小刀のことはブリジットには一切お話ししていません。決して見られぬよう隠しておいて下さい」
そう言うと小姓は小刀を荷物にしまい込む。
彼の言うことは理解できる。
こんなものを持っているとブリジットに知られたら、取り上げられてしまうだろう。
ボルドは決然と口を引き結ぶと、手渡された小刀を同じように自分の荷物に隠した。
それを使うことがないよう祈りながら。
その時だった。
「……んっ」
ボルドはふいに首の後ろをいきなり冷たい手で触られたかのような悪寒を感じて振り返った。
そこには何もない石の壁があるだけだ。
だが彼はその壁の遥か向こう側から、おぞましい気配がこちらに向かっているのを感じ取っていた。
「こ、この感じは……」
それは先日の宴会場での戦いの時に感じた悪寒だった。
体の芯が冷たくなるようなその気配に、ボルドの肩が小刻みに震える。
本能的な恐怖が背すじを這い上がるのを感じながら、ボルドは目の前の小姓たちに危機を告げた。
「黒き魔女が……やって来ました」
一度味わったら二度と忘れることが出来ないほどの嫌悪感。
それをまき散らしながら近付いてい来るのは、黒き魔女アメーリア以外にいなかった。
☆☆☆☆☆☆
「随分と片田舎に引きこもったものだな。女王様たちには退屈なんじゃないのか? あんな猿山の暮らしは」
トバイアスは前方に見える岩山を見つめ、その目を細める。
その隣では黒き魔女アメーリアがつまらなさそうに新都を眺めて言った。
「どうせブリジットもクローディアもあそこで死ぬのです。長くは暮らさないのですから心配御無用ですわ」
トバイアス率いる総勢4千人の軍勢が公国首都を出発してから2日後、ついに新都に1キロメートルの場所まで近付いていた。
目指す敵陣はもう目と鼻の先だ。
トバイアスは馬上から新都の全容を見渡しながら、愉快そうに言った。
「しかしあれはなかなか攻略に時間がかかりそうな城塞都市だな。天然の地形を活かした厄介な陣地だ」
「ええ。外から馬鹿正直に攻めたのでは、こちらの消耗も激しくなるでしょう。時間と労力の無駄ですわね」
そう言うとアメーリアは後方をチラリと見やる。
その視線の先には何頭もの馬で引いている巨大な投石機が十数台も用意されていた。
事前にイーディスから新都の情報を聞いていたトバイアスは、公国の首都からこれらの投石機を持ち込んだのだ。
10メートルほどの高さを持つそれは従来の投石機を改造した、新型の攻城兵器だった。




