早めの新婚旅行
婚約解消を解消する。そう決めて叔母の家を出て家に帰ったエリザベスは、父リディーン公爵にこう告げた。
「お父様。勝手に家を出てごめんなさい。でもわたし、アレクサンダー愛してるの。だから、彼と結婚させてください」
だが、実際にはリディーン公爵はそもそもエリザベスが婚約を解消すると言い出したことを公にしていなかった。
貴族の子女の結婚とは親が決めるのが普通であり、本人たちの意向はほとんどと言っていほど関係ない。その慣例を公爵家が覆すわけにはいかないため、エリザベスが結婚しないと言い張ったところで公爵はこの婚約を何の理由も無しに解消するわけにはいかなかったのであった。
「つまり、エリザベス。お前が婚約解消を解消するのには何の問題もないというわけだよ」
恨みがましい目で父にじろりと見られたエリザベスは、特に障害がないのだということに喜びながらも、しゅんと項垂れた。
「……本当にごめんなさい。お父様。勝手をして」
父に多大なる迷惑を掛けたことはよく分かっていたので、素直に謝る。
冷静になった今なら分かる。もっと周囲に相談してから行動すべきだったのだ。
リディーン公爵はため息をついた。しばらく外出させないという罰を与えるつもりだったのだが、娘の様子を見て怒る気が失せてしまったのだ。
(元はと言えばエリザベスの婚約者のあの若造とて悪いのだ。結果丸く収まったのだし、そう責めることもない)
昔から、いつだって公爵はエリザベスに甘かった。だが親として、流石に何もお咎め無しというわけにはいかない。
「……そうだな、エリザベス。わたしの言うことをひとつだけ聞いたら、許してやろう」
わざと顔を顰めてそう言った父に、エリザベスは覚悟する。だが、彼が次に口にしたのはエリザベスにとって予想外の言葉だった。
✻✻✻
「リディーン公爵領に結婚のお披露目をして来い?」
驚いたようにエリザベスの言葉を繰り返したのは、馬の手入れをしていたアレクサンダーだった。彼は馬を従者に任せきりにしないのだ。
「あのね、別に忙しいならアレクは来なくてもいいのよ。わたしひとりで行ってくるから」
厩舎の柱によりかかって足をぶらぶらさせながらそう言うと、アレクサンダーは笑った。
「それじゃ意味が無いでしょう? リズ。結婚のお披露目なんですから」
「……そうだけど、アレクに迷惑かけたくないもの」
俯いたエリザベスのおでこにトンと人差し指が乗せられて、少しだけ押される。
視線が上を向いて、アレクサンダーと目が合った。
「迷惑なんかじゃないですよ、リズ。せっかくですから、早めの新婚旅行と思って楽しんでしまいましょう」
多分、リディーン公爵もそう思ってお披露目だなんて言ったのだろう。
「……そっか。よく考えたらそれって新婚旅行みたいよね……」
言いながらエリザベスは自分の頬に血が登るのを感じた。
新婚旅行。そう思うと急にお披露目が特別なもののように思えてくる。
突然、アレクサンダーがぱっとエリザベスから離れた。
「……すみません。今私があまり綺麗じゃないのを忘れてました」
(……綺麗じゃないなんて、そんなの、気にしなくていいのに)
そう思いながらも、新婚旅行という言葉がなんだか恥ずかしくなって、エリザベスは早口にいった。
「しゅ、出発は二日後ですって。準備はわたしがしとくから。じゃ、当日ねっ」
「リズ」
言うなり厩舎を飛び出したエリザベスに、アレクサンダーは大きな声で「転ばないように気をつけてください!」と言う。
(……もう子供じゃないのに)
エリザベスは少しだけ不満に思った。
彼が顔を赤らめたエリザベスを思い出してしゃがみこんだことを、エリザベスは知らない。
✻✻✻
リディーン領は広大だ。とても一日や二日で回りきれる距離ではないので、必然的にあちこちに宿泊することになる。
それぞれの街や都市の中で一番大きな屋敷に泊めてもらうのはとても楽しかった。人々は皆エリザベスたちを歓迎してくれたし、色々な料理を食べることができたからだ。
でも。
(……アレクはわたしを子供扱いし過ぎだわ)
ガタゴトと揺れながらゆっくり進む馬車に乗りながら、エリザベスは考えた。
彼はエリザベスをとても大切に扱ってはくれるけれど、母親のようにいちいちとエリザベスの心配をするのだ。嫌ではないけれど、ちょっと納得がいかない。
(わたしは十六歳よ? 結婚するのよ? アレクの子供じゃないんだから)
隣に座っているアレクサンダーを横目で見ると、彼は目を閉じていた。眠っているのだろうか。
「……アレク?」
起こさないように小さく名前を呼んでも、返事はない。
(……アレクの寝顔を見たのなんて、久しぶりだわ)
まだ小さい頃、二人で遊んだ時に見たことがあるけれど、それきりだ。
(ホント、腹が立つくらい綺麗な顔……)
普段こんなにじっくり見ることはないので、少しだけドキドキする。
(信じられないな……)
この人が、本当にエリザベスに好きだと、愛していると言ったのだろうか?
本当にこの唇で、エリザベスにキスをしたのだろうか?
(アレク。アレクサンダー)
心の中で名前を呼ぶ。そのたびに指先が震えそうになる。
エリザベスはそっと、アレクサンダーの髪に手を伸ばした。柔らかそうな、茶色い髪。エリザベスはずっと、この髪に触れてみたいと思っていた。
けれど、指先が毛先に触れた、その瞬間。
パシッと腕を掴まれて、エリザベスの視界が反転した。
「きゃっ……」
見えているのは馬車の天井と、少し怒ったようなアレクサンダーの顔。
「アレク……寝てるのかと思ってた……」
驚きながらそう呟いたエリザベスに、アレクサンダーはため息をついた。
「……リズ。いたずらをしようなんて考えないでください」
呆れたようなアレクサンダーの声に、エリザベスは泣きたくなった。
(そこまで子供扱いされるなんて)
「違うわ! ……ただ、髪に触ろうと思っただけよ」
言いながら起き上がろうとするのを、アレクサンダーが止めた。
「何よ。怒ってるの?」
仕方なくアレクサンダーの膝に寝転んだまま、不満そうにそう言うと、ゆっくりとアレクサンダーが口を開いた。
「……リズ。エリザベス。あなたは分かってない」
その言葉にエリザベスはカチンときた。もう我慢の限界だ。
ガバッと起き上がり、涙目で叫んだ。
「分かってないのはアレクのほうだわ! わたしは婚約者よ。娘じゃないわ、いちいち子供扱いしないで!」
「いいえ。……分かっていないのは、リズのほうですよ」
言うなり、ガン、とたたき付ける音ようながして、エリザベスは馬車の扉に押しつけられる。
「わたしがなぜ今寝不足なのか、教えてあげましょうか? いつもあなたが隣の部屋にいるからですよ。緊張して眠れないんです」
「え……?」
予想外の言葉にエリザベスは戸惑った。確かに、人々は婚約者だからと気を遣って隣の部屋にしてくれていた。
「わたしが今、何を考えているか分かりますか? あなた抱きしめて口付けてめちゃめちゃにしてしまいたいと思っているんですよ」
顔が近い。彼の綺麗な瞳は、睫毛の長さがよく分かるほど近くにある。
エリザベスは震えた。手を掴んでいたアレクサンダーはそれに気付いたのだろう。顔を背け、ゆっくりと離れようとする。
「そんなの、怖いでしょう? だから、わたしに触れようなんて思わないでください」
エリザベスは強く彼の腕を掴んだ。そして、はっきりと告げた。
「アレクサンダー。勘違いしないで。わたしはあなたに触らないでいようなんて決して思わないわ」
どんなことがあっても、たとえ、泥に塗れていたって、アレクサンダーに触りたくなくなるなんてことはないだろう。
「怖いなんて思わないし、逃げようとも思わない。だから、……いいのよ」
目を見開いているアレクサンダーの頬に、エリザベスはそっと口付けた。それは愛情を示す、優しいキスだった。
ゆっくりと離れたあと、彼の目を見て微笑む。
彼が好きだと、全身が言っている。溢れそうな程なのに、どうして『好き』以外の適切な言葉が見つからないのだろう。
「……エリザベス」
名前を呼ばれて、抱きしめられて。
それだけのことがこんなに幸せなのは、アレクサンダーだからだ。それを伝えるには、どうしたらいいのだろう?
「好きです、リズ。あなたが好きです」
アレクサンダーの言葉に頷き、彼の背中にしがみつく。
「わたしも好き。……誰よりも好き」
✻✻✻
『結婚のお披露目』改め『早めの新婚旅行』は、なんの問題も無く、二人の絆を深めて終わった。
「お帰りエリザベス。どうだったね、二人旅は?」
リディーン公爵に聞かれたエリザベスは「そうね、楽しかったわ」と答えた。
「……でも」
「でも?」
「結婚してから行きたかったわ」
頬を赤らめてそういう娘を、公爵は嬉しいような寂しいような複雑な気持ちで見つめていた。
(……やれやれ、孫の顔を見る日は近そうだな)
✻✻✻
公爵の予想通り、エリザベスは一年半後に出産する。その後も次々と子供に恵まれ、生涯をアレクサンダーとともに幸せに暮らしたのだった。
エリザベス・リディーンの婚約はこれで完結となります。読んでくださった方、ありがとうございました。