第一章・前編 婚約者、一名確保しました
「ルカシュ・ヴォルコフ卿。貴方との婚約は、本日をもって破棄いたしますわ!」
ミラーナ第一王女の声が広間に響く。よく通る、よく訓練された声だった。
「理由は、貴方の王家に対する不敬、並びに職務における不正行為。証拠は追って提出いたします」
(よくそんなことが言えたものね。自分でやった不正を、彼になすりつけるなんて)
イリナ・ラズリエフはシャンパングラスをそっとテーブルに置いた。先日、元婚約者の身辺調査をした際に芋づる式に出てきた王女の不正が、今しがた読み上げられた罪状とほぼ一致している。つまりこれは、冤罪だ。
周囲を見渡す。貴族たちは固唾を呑んでいた。誰も声を上げない。ルカシュの側には、誰も寄っていかない。孤立した青年は、ただ静かに、王女の言葉を受け止めていた。ヴォルコフ公爵家の三男。黒髪に赤い瞳という、この国では忌み嫌われる色を持つ青年の横顔が、諦めているように見えた。
(ずっと、こういう顔をしていたのかしら)
胸の奥で、何かが動いた。
怒り、だと思う。
それと、もう一つ。
打算、とも言う。
イリナは一歩、前に踏み出した。
「――少々、よろしいでしょうか」
凛とした声が、広間に響いた。
「イリナ・ラズリエフと申します、王女殿下。先ほどのご発言について、確認させていただきたいことがございまして」
王女の視線が、鋭く向いた。
(睨まれてる。でも、知ってることは知ってる)
イリナは微笑んだまま、一歩また踏み出した。しかしその足は、王女へではなく、ただ一人取り残された青年へと向かっていた。
「ヴォルコフ卿」
呼びかけると、黒髪の青年がゆっくりとこちらを向いた。赤い瞳が、戸惑いをたたえてイリナを見る。
「突然で申し訳ありません。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
広間が静まり返っていた。王女の声が飛んでくる前に、イリナは続けた。
「わたくしと、婚約していただけませんか」
誰かが息を呑む音がした。
ルカシュの赤い瞳が、大きく見開かれた。
「……は?」
「ラズリエフ公爵家の一人娘として、婿養子をお迎えしたいと思っておりまして。ヴォルコフ卿であれば、願ってもないお相手かと」
(落ち着け私。声が震えてないかしら。震えてないわよね)
「ラズリエフ! 今、何を――」
王女の声が飛んできた。イリナは初めて王女の方へ顔を向け、にっこりと微笑んだ。
「申し訳ありません、殿下。婚約破棄を宣言された以上、ヴォルコフ卿はもう殿下のご婚約者ではございませんでしょう? でしたら、わたくしがお声がけしても問題はないかと存じますが」
そのまま視線をルカシュへ戻す。
「いかがでしょう、卿」
広間が、しんと静まり返った。
先ほどまでの喧騒が嘘のようだった。百を超える視線が、王女からイリナへ、そしてルカシュへと移っている。王女がその視線を手放したことに、まだ気づいていないようだった。
ルカシュは、しばらく黙っていた。
赤い瞳がイリナを見つめている。値踏みでも、警戒でもない。ただ、本当に意味がわからない、という顔だった。
「……ラズリエフ嬢は、正気ですか」
「いたって正気です」
「私は、ご覧の通りの人間ですが」
黒髪に、赤い瞳。この国では悪魔に呪われた色と言われる。本人もそれを知っていて、だからこそそう言っているのだろう。
イリナは首を傾げた。
「ご覧の通り、とは?」
「……見ればわかるでしょう」
「黒髪と赤い瞳のことでしたら、わたくしは気にしませんよ。迷信ですもの」
また広間がざわめいた。イリナには聞こえていたが、どうでも良かった。
ルカシュがまた黙った。今度は少し長かった。
やがて、静かに口を開いた。
「……条件を、聞かせてもらえますか」
(あ、脈がある)
イリナは内心で小さくガッツポーズをした。表情は、微笑んだままで。
「では、場所を変えましょうか。ここでは少々、聞き耳が多すぎますので」
すっと手を差し伸べる。
ルカシュは一瞬躊躇してから、その手を取った。
広間を横切る二人の後ろで、王女が何か叫んでいた。しかしイリナはもう、振り返らなかった。
ラズリエフ家の馬車は、静かだった。
王宮の喧騒が遠ざかるにつれ、イリナはようやく自分の心臓が少し落ち着いてきたのを感じた。
(やった。やってしまった)
向かいの席に座るルカシュが、窓の外を見ている。整った横顔。長い睫毛。燭台の光の中でも艶めく黒髪。
(……やっぱり好みだわ)
「あの」
ルカシュが口を開いた。イリナは慌てて視線を窓の外に逃がした。
「突然、あんなことを言い出してごめんなさい」
先に謝った方がいいと思った。
「……いえ」
「無理に、私の申し出を受けなくてもいいですよ? 私が元婚約者のことで頭にきていたというのもあって、つい」
「元婚約者、というのは」
「クラーニッツ侯爵子息です。先日、婚約を破棄されまして」
言いながら、我ながらよくこんなにさらっと言えるものだと思った。ダメージがなかったわけではない。ただ、怒りの方が上回っていた。
「……それは」
「あ、でも賠償金はもらいましたので。それより」
イリナは少し早口になっているのに気づきながら、続けた。
「婚約を申し出たのって、私の方に利があるからでもあります。ラズリエフ家は一人娘で跡取りがおりませんので、婿養子をお迎えしなくてはならなくて。条件の良い令息方はすでに婚約済みで、正直、婿探しに苦戦していたんです。なので、本当に、無理に受けなくていいんです」
言い終えてから、少し恥ずかしくなった。打算をこんなに正直に言う必要があったか。
しかしルカシュは、しばらくイリナを見てから、静かに言った。
「貴女、いい方ですね」
「え? どこが?」
「婚約が成立してから今の話をしてもよかったのに、その前にきっちりお話してくださった。だから、いい方です」
イリナは少し面食らった。
(この人、こういう人なのね)
虐げられて、諦めて、それでも他人の誠実さをちゃんと見ている人。
胸の奥がじわりと温かくなった。
「……では、改めて。ヴォルコフ卿、わたくしと婚約していただけますか」
ルカシュは窓の外に目をやった。流れていく夜の街並みを、しばらく眺めてから。
「……よろしくお願いします、ラズリエフ嬢」
馬車の中に、小さな沈黙が落ちた。
悪くない沈黙だった、とイリナは思った。




