(15)幸せな涙
一ヶ月後、エルナの姿はブルック伯爵邸にあった。
屋敷を改装するとのことで予想以上に待たされたけれど、今日、ようやく戻ることができたのだ。
快適な屋敷にすべく全ての手配を指揮したのは、後見人の責務と権限を大きく逸脱したヒューバートだ。
「美しいエルナにふさわしい屋敷にしつらえ、一流の使用人にかしずかせて、快適に過ごせるようにするのだ!」
彼はその言葉を完璧に遂行した。
ジャネットの成金趣味の家具と調度品をすべて廃し、白を基調とした品のよい一級品の家具を配置。
カーテンや壁紙に至るまで、「エルナの美しさをより引き立てる背景になるように」という、ヒューバートのこだわりがさく裂した内装になっている。
使用人は、執事から下働きの者まで、全員が高位貴族に仕えていた精鋭ばかりだ。
特にエルナの世話をする侍女達は、王宮にいる母の元から半ば強引に引き抜いてきていた。
マナーや身の回りの世話が完璧にできるのはもちろんのこと、ヘアメイクやファッションの流行にも詳しい。頭が良くて、機転が利くものばかりだ。
さらに、動物好きの優しいメイドを探して、ポムの世話係に任命した。
今、そのメイドには、ポムにおやつをやって相手をするように命じてある。エルナと自分の、二人だけの時間をじゃまされないように……。
「まあ!まるで別のお屋敷のようです!」
様変わりした屋敷の様子に、エルナは目を丸くした。
今日の彼女は、薄いブルーのドレスを纏っている。普段着なので、飾りの少ないシンプルなデザインだが、光沢を放つシルクがエルナの美貌を引き立てていた。
(屋敷が生き返ったみたい!)
ヒューバートにエスコートされて屋敷の中を見て回りながら、彼女は感動していた。
ジャネットがこの屋敷に君臨するようになってからというもの、調度品が派手派手しくなる一方、掃除などの手入れは行き届かなくなっていたのに。
今の屋敷は豪華なだけでなく、清潔でとても居心地がいいと感じる。どこか母が生きていた頃の雰囲気にも似ていて、心が安らいだ。
「気に入ってくれたか?」
「はい、どこもかしこも素敵です!」
顔をほころばせる彼女に、ヒューバートは優しい微笑みを返した。余裕のある王子らしい態度だが、心の中では歓喜の雄叫びをあげ、天に向かって勝利の拳を突き上げていた。
この一ヶ月、睡眠時間を削ってまで苦心した甲斐があったというものだ。
アーサー達を護送するための手配もあったし、もともとの騎士団の仕事もあったため、目の回る忙しさだったのである。
なにより、今後のことについて、父である国王と話をつけるのが大変だった。
エルナとブルック伯爵家、聖獣であるポムの扱いは重要事項で、王にしてみれば自分の目の届くところに置いておきたいと考えるのが当然だ。
ヒューバートが最も恐れたのは、国益を重視した王が「エルナ嬢を王太子の側妃か、第二王子の正妃に」と言い出すことだった。
彼は強い決意と意志をもって、粘り強く国王を説得した。そして最後には、自分の希望を通す答えをもらったのだ。
そして彼は今日、ある覚悟を胸に、エルナをここに連れてきたのである。
(ドレスも気に入ってくれるといいのだが……)
ヒューバートは期待と不安に胸をときめかせながら思った。
まだエルナには見せていないが、彼女の部屋のクローゼットには、豪奢なドレスがこれでもかというくらい並んでいる。
王室御用達の洋品店の店主を呆れさせ、一流のお針子たちを閉口させた、彼のこだわりの逸品ぞろいだ。
当然、宝飾店でも同じ光景が繰り返されることになった。その職人達の努力の結晶は、ずらりと並べられた宝石箱の中で、主の身を飾る時を待っていた。
だが、その前に、彼女に言わなければならないことがある。
「エルナ、ここがあなたの部屋だ」
指し示したのは、この屋敷の女主人のための部屋、元々はエルナの母がいた場所だった。
ヒューバートはドアを開け、彼女に先に入るように促す。
「まあ!お母様がいた頃と同じだわ!」
部屋に足を踏み入れた彼女は、呆然として室内を見渡した。
床の絨毯も、壁紙の模様も、カーテンの色も、母が生きていた頃のままだ。ジャネットが後妻になった後は、彼女の悪趣味のせいで恐ろしく品のない部屋になっていたのに、すっかり戻っている。
(ここでお母様とお茶を飲んだり、本を読んでもらったりしたわ)
懐かしい思い出が一挙に押し寄せてきて、彼女は微笑んだ。
「昔の使用人達を探し出してね。彼らの記憶を頼りにできるだけ再現してみたんだけど、どうかな?」
「そんなことまで、してくださったのですか!?」
驚いたエルナは、隣に並ぶヒューバートを見上げる。
「これも後見人の仕事だからな」
氷のような色をした、だけどとても温かな瞳を細めて、彼は笑った。
(そ、そうなの……?)
いや、世間知らずな自分から見ても、これは絶対に違う。明らかに後見人の責任の域を超えている。
(後見人というよりは……なんと言うか……新婚の……だ、だんな)
思いついた「旦那様」という言葉に、エルナの心臓が跳ね上がった。
王子である彼と自分が結ばれるわけがないのに。それを切望する気持ちが胸からあふれ出て、すがるような目を彼に向けてしまう。
「エルナ、そんな顔をしてはいけない」
ヒューバートは、その柔らかな頬に指先でそっと触れた。こちらを見つめている新緑の瞳が、心の動揺を映すように揺らぐ。
「あなたには、いつも笑っていてほしいんだ。そのためになら、私はなんだってする」
そう、彼女のためなら寝ないで働くのも苦ではないし、その願いを叶えるためなら何だってする。彼女を守るためなら、悪魔にだってなれる。
「ヒューバート様……」
ならば、ずっと一緒にいて欲しい。
言ってはいけない言葉を彼女が飲み込んだ、その時。
「あ!」
ふいに体を引かれたと思ったら、そのまま彼の腕の中に、落ちるように収まっていた。
その心地良い温もりに包まれて、エルナは彼の胸に頭をあずけた。力強く高鳴る胸の鼓動に合わせるように、自分の心臓も同じリズムを刻み始める。
「王族の地位は捨てることにした。私はもともと、王の座には興味がないしね」
すでに王の許可はもらっている。彼は少しも後悔していないし、この先も悔やむことはないだろう。
「私はあなたの夫として、ブルック伯爵家とポムの住むあの森を、生涯をかけて守っていきたいと思っている」
自分がずっと胸の奥で夢見ていた、けれど決して叶わないと諦めていた未来を、彼が真っ直ぐに語っている。
エルナはそれを、夢心地のまま信じられない思いで聞いていた。
「……本当に、それでいいのですか?」
「私の幸せは、あなたと一緒にいること。それがすべてだ」
ヒューバートはエルナをそっと自分の胸から引き離すと、優美な所作でその場にひざまずいた。
窓から差し込む秋の柔らかな木漏れ日が一筋、彼の艶やかな銀髪を照らし出す。
彼はただ一人の男として、最愛の主へ忠誠を捧げるように、片手を胸に当てて言った。
「エルナ・ブルック伯爵令嬢、あなたを必ず幸せにすると誓います!私と結婚していただけますか?」
「……はい!」
彼女は迷うことなく、はっきりと答えた。
その瞳から、一筋の涙が溢れて流れ落ちる。
絶望と孤独のなかで、幾度も冷たい涙を流してきたけれど。今、その頬を濡らしているのは、世界で一番温かい、幸福の涙だった。
ヒューバートは立ち上がってエルナを優しく抱き寄せると、その愛おしい嬉し涙をそっと指先で拭った。
「ありがとう……愛しているよ」
「わ、私も……あい、愛しています!」
愛を囁きあう二人は、柔らかな秋の日差しに包まれて、いつまでも寄り添っていた。




