2-34.濡れた月
『ぷはぁぁ』
神域を出てしばらくしてから、我慢の限界という感じでノクサが息を吐いた。
普段そんなに呼吸の気配はないから、気持ち的表現なのだろう。
『あー、死んじゃうかと思ったわ』
ぱたぱたと羽ばたくノクサを目で追うカヨウ。
彼女に声は聞こえていないし、姿も黒いアゲハ蝶にしか見えていないはず。
「嘘だったんですね」
「……なにが?」
「その蝶が神様の導きだって前に言っていました」
「ん、あー」
不思議な黒蝶の説明をそんな風にしたかもしれない。
神域でノクサは無言を貫いていたし、レーマ様は黒蝶のことを何も知らなかった。
聡いカヨウは察して余計なことを言わないでいてくれたようだ。
「ごめん、嘘だった」
「別に構いませんよ。アユミチさんのことですから何か理由があるんでしょうし」
『ふふっ、この子ほんとこわぁい』
大した理由があったわけでもない嘘だが、カヨウが納得してくれているなら別にいいか。
ノクサの軽口はやはり聞こえていない。
「イサヤがレーマ様に話しちゃうかもしれないな、しまった」
「イサヤは知りませんよ。その嘘、聞いてたの私とコーダの他はイーペンさんくらいでしたから」
どこで話した嘘だったか忘れていたが、カヨウの方がしっかり覚えていた。
子供の方がはっきり記憶していることは多い。とりあえず助かる。
『一度、今のレーマを見ておきたかったんだけど。次は一緒に行かない』
ぱたぱたと羽ばたいてからアユミチの肩に戻って横になるノクサ。
問答無用で殺されることはないにしても、レーマ様の機嫌次第で殺される程度の関係らしい。
それでも擬態して見に行くのだからノクサの性格もたいがいどうかしている。
「三年後……本当でしょうか?」
「神様は人間に嘘を言えないんだってさ」
「アユミチさんは嘘をつくのに?」
『嘘っていうのは下の者が上の相手を騙すものなの。階級とかじゃなくて精神的なこと。王様が庶民に大ウソをつくのも、精神的な階位を下げちゃうのよ』
ノクサの説明を聞きながら、それらしいことをカヨウに伝える。
『神格が下がる。最悪、神性を失う。だから神は人間に嘘を言わない』
「そういうものなんですね」
カヨウに通訳しながらアユミチも理解した。
自らの魂を貶めるような行為。だからできない。
「三年後、ね」
――イサヤはずっとここに?
――前に言わなかったか? 十五以上の男に価値ねえって。
――でしたね。イサヤは十だから……
――お前が約束を守れば、三年もすりゃ他のショタで満杯のはずだよな?
三年後にはお役御免と言うか引退というか。
アユミチが毎月ショタを届ければ、あの建物に数十人が溢れることになる。その頃には解放してくれるようだ。
イサヤはレーマ様に仕えることに張り切っていた。
アユミチに対する扱いとはかなり違う。優しくて美しい女神なので、男の子の身で考えればまあわかる。
――ここを出たら兄ちゃんの手伝いをするから。
へへっと笑うイサヤをレーマ様に預けて神域を後にした。
「何見ているんです?」
「あれ……たぶん、禁域の大サソリ王蠍……の残骸」
「有名な大魔獣ですけど、本当にアユミチさんが倒したんですね」
「俺も信じられない。運が良かっただけ」
途中、谷底の大サソリの死骸を見つけて、下に降りる必要もなく素通りして。
川辺に着くころには日が暮れていた。
水浴びしたい、と。
歩いて汗をかいた。
カヨウは少し川で汗を流したいと、神域でもらった上質な手拭いを持って行った。
着ている服も行きとは違う。
薄いベージュ色のワンピースドレスのような服で、その下に純白のレース付き下着をつけているはず。
レーマ様からもらった……というか、カヨウが勝ち取った。
泣き止んだアユミチに意地悪を言うレーマ様に対して、あなたの使徒を慰めた自分に褒美をくださいと。
過去に献上された衣類や布類は、有り余るほど。
神様に捧げる物品なのだから最高品質だ。
長く神域に置かれ、わずかに神性を帯びたそれらは汚れに強い。アユミチがもらった衣類と同じ。
一緒にお願いしてファニアやゼラたちの分ももらった。
他のものはもらえなかったが。
「とりあえず一仕事、だな」
『お疲れ様』
カヨウが水浴びに行って腰を下ろしたら、なんだかようやく一仕事終えた心境になった。
月夜。満月の夜。ノクサと出会った夜と同じ。
ちょうど一回りとわかりやすい。
目まぐるしい一ヶ月だったと思い返す。
『アユミチってほんと、レーマに気に入られているのね。驚いちゃった』
「あれで?」
『昔なら、美少年以外とはほとんど口きかなかったもの。その為の伝言係がいたくらい』
「めんどくさい神様だな」
らしいと言えばらしいが、信者は大変だったんじゃないだろうか。
あの神域に追放されたのか、その辺の経緯はわからない。どうやらかなり長い期間を過ごして、少し丸くなったのかもしれない。
『あの三人の霊魂をしゃぶりつ尽くさないで残してあげるなんて、昔のレーマなら……昔は霊魂より生身を好んでいたわ』
「たぶん、俺の血が混じってたから」
『そうかも』
地球の匂いがするとか言っていた。
ようはアユミチの匂いだと思う。
しゃぶり尽くすといつ言葉に顔をしかめて、はぁと溜息を吐いた。イサヤは大丈夫だろうか。今しばらくはアユミチの匂いが残っているだろうけど。
「森の魔獣ヘレボルゼ対策の何かもらえれば助かったんだけどなぁ」
『あの子、きれいな服ほしそうだったものね』
なにか褒美を、と言ったカヨウに対して、レーマ様が適当に取り出した中。
放り出された衣類を見て、自分の着ているものと見比べてしまったカヨウの様子に気づいた。
女の子なんだなと思った。
『武器をもらえって言えば良かったんじゃない』
「子供のご褒美に口出しすんのは野暮だろ」
『あらあら、そう。じゃあ野暮なノクサは月光浴で朝まで留守にするから』
今までそんなことしたこともないくせに、なぜだか今夜に限ってそんなことを。
『頑張ってね、アユミチ』
「はぁ?」
ふわりと浮かんで、ひゅいっと星空に消えていった。
意味ありげに笑って、何が言いたかったのか。
「また大サソリでも出るのか……?」
「アユミチさん」
何かどうしよもない危険があるのかと警戒したアユミチの後ろから、少女の声は少し湿った感じで。
「カヨウ、もしかしたら危険が……」
振り向いて、理解する。
ノクサの悪い笑顔の理由を。
「……や、いや、服は?」
「いりません、よね?」
そうなのか?
いらない?
手拭いで申し訳程度に体を隠しただけのカヨウに、アユミチは何の手立ても思い浮かばず、ノクサの消えた星空と少女に視線を左右させるだけだった。
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