2-33.膝の温度。波の声
雲海。
見えないほど小さな粒がそれぞれ霊魂、霊子とでも言うべきもの。
ノクサからそんな風に聞いた。
「……」
「すげぇ」
「綺麗……」
どこにも太陽が見えるわけではないが、薄っすらと全体が明るい。
揺らめく雲の下に光源があるような幻想的な景色だ。
イサヤとカヨウが声を漏らすのもわかる。アユミチも前に見た時には感動した。
前にも見た。
レーマ様は見ればわかるような言い方をしていたが、前に見た時と何が違うのかわからない。
よくよく見ればレーマ様の住まいは雲海に浮かぶ島のよう。
流れていく雲の粒が波のように寄せては返す。
「ほらな」
「?」
わかるだろ、というように後から出てきたレーマ様が言うのだけれど。
申し訳ないがわからない。
まずいだろうか。
「人間の言い方なら空気がうまいってやつだな」
「……すみません、わかんないです」
「えぇ、お前にっぶいなぁ」
レーマ様に言われるのは心外だが、違いがわからない。
ただアユミチを元気づけようとプラシーボ効果的な何かを狙っているのか。そういう気遣いをする性格ではないはずだが。
「あたしの足元の霊流、ちょっと綺麗になってるだろ」
「霊流って言われても……」
レーマ様の島に沿って流れる雲海の流れは、他とどう違うのかアユミチには見分けがつかない。
アユミチが鈍いだけなのかと見れば、イサヤとカヨウも困ったような顔を浮かべていた。
みんな綺麗に見える。
「あたしの足元から綺麗にして感心だって褒めてやろうと思ったのに、褒め甲斐のない奴」
「そんなこと言われても……すんません」
「はぁ……」
神様的には見ればわかる感覚だったのだと思う。
他に気の利いた言葉など用意してなくて、バツが悪そうに頭を掻いた。
「まあなんだ、アユミチ。お前はお前が思ってるよりちゃんと――」
「なんかくるよ!?」
レーマ様の言葉を遮ってイサヤが叫んだ。
雲海の上、なぜだか星空を沈めた水面を指さして。
「あれは」
黄金の戦馬車。
二頭立ての天馬が引く戦馬車が、雲海の中から水空に駆け上がり、弧を描いてこちらに向かってくる。
空中を駆ける天馬。
そういえばあれはアニラービとかいう神様がレーマ様に贈ったというものなのだろうか。
処女しか乗せないとも聞いた。
それってユニコーンの話じゃないのかなどの疑問も浮かぶが、とてもレーマ様には聞けない。
「ちょうどいいけど、呼ばなくても戻ってくんのは珍しいな。ちょっとこっち来いよ」
「あ、うん……はい女神様」
迫ってくる戦馬車が危ないのかもしれない。
そもそもあれにアユミチも轢かれて死んだのだった。
レーマ様に抱き上げられたイサヤが、おずおずとレーマ様に礼を言う。
なぜか、カヨウはその場から足を動かさず、アユミチに向かって両手を広げた。
「いや……あぁ」
「ありがとうございます、アユミチさん」
レーマ様のようにひょいっと担ぐことはできない。
腰を入れて抱き上げて、天馬が向かってくる軌道から離れる。
イサヤを見ていてカヨウも甘えたくなったのかもしれない。
「あれ大丈夫なんですか?」
「ああ、あたしに害はねえ」
勢いよく走ってくる戦車に不安を覚えて確認してみると、そんな返事。
レーマ様に害はなくてもアユミチ達には違うのかもしれない。さらに少し離れてみたが、島に近づくと天馬の方が速度を落とした。
「まだ形を残してんだから大したもんだな」
「なんです?」
「見ろよ」
促されてみて、天馬だけではないことに気づいた。
戦車の方に乗っているわけではない。天馬の白い鬣が長く伸びている。何かが繋がっている。
「あれは……」
「ちぃっとお前の世界の匂いがしてたやつだな。アユミチに用があるんだろ」
アユミチの世界、地球の匂いのする霊魂。
他にも転生者がいたのか。
ふわふわとした薄黄色の粒の集まりにしか見えない霊子の集まり。
天馬が歩調を緩めて岸に着くと、たなびいていたそれらが凝縮して形をつくっていく。
形を残していた。
生前の形を。
「死者と生者を同じ場所にするのはよくねえんだけど」
「あ、あぁ……」
「今だけならいいだろ、あたしが許してやる」
形を作る。
死んだトバの形を作り、彼に抱えられていたように内側から三人の子供たちの姿が現れた。
「普通、神域を越えたら形なんて保っていられねえ。アユミチの血で多少耐性があったにしても、あたしの傍に置いといたら粉々になってたはず……」
レーマ様が色々と言うけれど、ほとんど耳に入らなかった。
彼らを運び終えた天馬がまた雲海に駆け出すのと同時に、アユミチの膝が崩れた。
「メッソ、コーダ……ケントロ……」
「うそ……」
「俺……メッソ、俺……」
イサヤの震える声に顔を上げたメッソは、頷いて、それから首を振って。
虚穴で殺されそうだったイサヤを助けてくれたのはメッソだ。ババの手に噛みついてイサヤを解放した。
その行いを聞いたムンジィは苦い顔で讃えていたが、アユミチにはそんな気になれなかった。
「俺、お前に助けて……俺だけ、助かって……」
「ごめんな……ごめん、みんな……」
謝る。
顔を上げられない。
そうだ、ここは魂の帰る場所なのだから、彼らがここにいるのも当然のこと。
レーマ様の話なら、異世界人であるアユミチの血が混ざっていたから、少しだけ還元されにくかったのかもしれない。
魂だけが残るのはつらいと聞いた気がする。
成仏するまで魂が千切れていく痛みを、周囲の生者に押し付けることになる。そんな悪霊になるようなことを言っていた。
この雲海では押し付けられる生者はいない。
トバはきっと、子供たちの痛みを減らす為に包んでいたのだろう。
「アユミチさん」
「ごめん、俺のせいで……俺がもっと」
「アユミチさん、顔を上げて下さい」
膝を着いて謝るアユミチに、死者の言葉は届かない。
そもそも喋れないのかもしれない。
強い意思を孕んだカヨウの涙声が、顔を伏せたままのアユミチの耳を打つ。
「……」
顔を上げる。
薄く散っていくメッソ、コーダ、ケントロの姿が、にじむ視界にはっきりと焼きつけられる。
――ありがとう、兄ちゃん。
笑って、笑顔で。
優しい顔で、そう言って。
後ろに立つトバはただ力強く頷いてから、光る粒となって消えた。
三人の子供たちは大きく手を振ると、次に岸に押し寄せた波の中に塩粒ように溶けて消えた。
「あ、あぁ……」
「お前はなんにもできねえって言うけどさ」
泣きだしたイサヤを抱いたまま呆れたように、
「お前がいなきゃあいつら、最後にあんな顔できなかったはずだぜ。アユミチ」
「あ……あ、うぁ……」
「死んでも礼を言いたいなんて思わせたのは、すっげえ力だとか魔法とかじゃねえんだろ。たぶんな」
無力で迂闊なアユミチに、死してなおありがとうと伝えにきた。
何もできなかったのに。
助けられなかったのに。
「俺はただ……ただ、レーマ様の命令で……」
「お前が言い出してお前がやった結果だろ」
「子供に、甘くしたのだって……レーマ様のためで」
「別に子供に優しくしろなんて言ってねえよ」
「他にやり方がわからなかっただけなんだ。何をすればいいかわからなくて……」
ぐいっと、両襟を引っ張られた。
カヨウが両手でアユミチの襟首を掴み、強く正面から睨みつける。
「ありがとうって言って死ねる人がどれだけいるんですか!」
「カヨウ……」
「あなたがいなかったら病気で苦しんで死ぬだけだった、なのに!」
「それは、レーマ様のくれた酒瓶があったから」
「病気が治っても! 治ったって!」
悲鳴のような絶叫。
聞き分けのない馬鹿なアユミチの頭の中に叩き込むように。
「治ったって変わらない! 変わらなかった! 他の誰かの為に何かしようなんて考えたりしない!」
「そんなこと……」
「アユミチさんがそうだったから、あなたがみんなを変えた! あなたに救われたんです、目を逸らさないで‼」
薬があったから助けられた。
それで生き延びたのはアユミチの力なんかじゃない。ただ貰い物の便利な道具。
否定するアユミチに、カヨウは目を背けるなと叱りつける。
「ケントロはアユミチさんを喜ばせたくて狩りをしました」
「……」
「コーダはババ様の手を引っぱって茂みに隠れました。私は見ていました」
「ババを……」
「メッソはイサヤを助ける為に戦った。知っていますよね」
そうだ。
トバも集落の人を守る為に無謀な戦いに挑んだ。
みんな、自分の為ではなくて誰かの――
「誰かの為に生きて、死んだ。アユミチさんと同じようにしたかったんです。なりたかったんです」
「……」
「失敗した。間違えた。死にたくなかった。だけどみんな、アユミチさんに感謝していた。どうしてかわかりますか?」
「……」
「たった数日でも前向きに生きられた。お天道様に恥ずかしくない生き方ができたからです。あなたに会えたからです」
アユミチの襟から手を離して、一度涙を拭ってから続ける。
「美味しい果実汁がなくても、女神様の使いじゃなくても。アユミチさんの優しい気持ちがみんなを変えた。救われたんです」
「俺は……」
「何もできないなんて嘘。アユミチさんは間違いなくあの子たちを助けた。優しい気持ちを分けてあげたんです。あの子たちが不幸なまま死んだなんて言わないで下さい」
「俺は……おれ、は……」
ひもじくて、惨めな気持ちで、痛くて苦しいまま死を待っていた彼らに、何かできたのか。
ほんのわずかな時間でも、人として正しい道を生きようと。たとえ死んでも恨み言を残さないような何かを、彼らに残せたのか。
「だから、ね」
今度は優しく、座り込むアユミチの頭を抱きかかえた。
小さなカヨウのお腹にアユミチの顔を包んで、
「ありがとう、お兄ちゃん」
「――」
言葉にならなかった。
ただ大きな声で、子供のように泣いた。
「男が揃ってまあ……そっちはお前が泣かせたんだから慰めておけよ。女だろ」
「ご心配なく、女神様」
やはり泣きじゃくるイサヤを抱いて、レーマ様は建物の中に。
膝に縋って泣き喚くアユミチに、カヨウはただ頷いて背中を撫でるだけ。
雲海の波音で眠りに就くまで、カヨウの膝で泣き続けた。
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