二、謎の香り
白塗り男に襲われた明星学院の男子生徒・望月匡くんの付き添いとして探偵員の彼が救急車に乗り込んだのを見送ると、残された僕たちは所轄の池袋署の刑事、大村部長刑事とともに、事情聴取を受けるべく本署へと向かった。奇しくも、大村部長刑事は立花さんが事情を最初に話した警察官であり、折しも謎の白塗り男の行方を部下と探っているところであったという。
「災難だったねェ、探偵社さんも……」
四角い顔に、年季の入ったしわを浮かべながら、大村部長刑事は黒眼鏡越しに沢渡さんや僕をいたわる、優しい目線を向ける。
「ちょうど四月でしたかね、立花さん。あなたがご相談にいらっしゃったのは……」
大村部長刑事の問いに、立花さんはええ……とつぶやく。
「――で、大村デカ長、今んとこ捜査の具合はどうなんですか。こっちは今日、ここにいる彼女から話を聞いたばっかりなんで、全ッ然なんですがね」
やや慇懃な沢渡さんの質問に、恥ずかしながらお手上げでね……と、大村部長刑事は困った顔を返す。
「なにせ、あの辺はそもそも、通行量が多い場所ではないからねぇ。目撃者も乏しくて、すっかり参っているんだ」
「――意外だなあ、豊島ってのはもっと人がいると思ってましたが」
出された緑茶をなめながら、沢渡さんが窓の外、往来を流れる車の光を見下ろして言う。
「いやいや、住宅地となればこんなものです。――で、これはまだ本決まりではないんですが……」
その後ろに立った大村部長刑事は、しばらく考え込んでから沢渡さんを前に、こんなことを告げる。
「わが署としては、いつまでも区民の眠りを妨げるような事件を放置しておくわけにはいかないが、こうも空振り続きではどうしようもない。そこでひとつ、探偵社のみなさんのお力を拝借願えないか……と思いまして」
「なあんだ、そんなことでしたか。――あいにく、山藤は休暇で不在ですが、調査三課でよければお引き受けいたしましょう。なにせ、僕がその三課長ですから……」
沢渡さんのあまりにも簡単な返答に大村部長刑事はいささか面食らった様子だったが、やがて彼の手をつかむと、よろしくお願いいたします、と、必死な様子で握手を交わす。
かくして、怪談じみた謎の白塗り男の捜査は、池袋署から銀座のさつき探偵社本部、豊島支局へと委任されたのであった。翌日、そのことを佐竹に伝えると、やつは白塗り男の再登場にひどく驚いていたが、同時に、
「まあ、探偵社に任せたんなら大丈夫だろうよ。なんかあの人、悪い感じしなかったしさ」
と、沢渡さんへのあつい信頼を覗かせて、事件の解決は早い、とすっかり安心しきっている。
「じゃ、あとはお前に任せたぜ」
「――えっ」
ポンと肩をたたかれ、言っている意味が分からずに佐竹に聞き返す。
「鈍いなあ、調査の進捗を聞きに行ってくれ、ってことだよ。――立花のやつ、またおんなじのを見たのが怖かったらしくてさ、あんまり元気がないんだよ。こういうときは、言い出しっぺがそばにいてやらねえと、どうしようもないっていうかさあ……」
「へえ、案外お前、優しいところがあるんだなあ」
心意を察してやや含み気味に返すと、佐竹は目をそらしながら、まあねえ、と言う。わかりやすいやつだが、二人の間を邪魔するのも趣味ではないと思って、それ以上の追及は止しておいた。
さっそく、その日の放課後に銀座の探偵社へ顔を出すと、ちょうど沢渡さんが社用車へ乗り込もうとしているところに遭遇した。聞けば、先日の被害者である望月少年から、気持ちの方の整理がついたから事件のことを話したい、という申し出があったのだという。
「大村デカ長から立花さんのことをかいつまんで聞いて、捜査に協力しないと……と思ったんだそうです。――で、どうします、着いて来ますか?」
「じゃ、お邪魔じゃなければ……」
社交辞令的なものだろうから、と期待せずに返事をすると、予想以上に沢渡さんは歓迎ムード一色で、
「ハハハ、一人も二人も大して変わりませんや、乗ってってください……」
そのまま後部座席へ乗り込むと、沢渡さんはハンドルを握る男の子、先日も一緒だった和ァヤンこと和田くんに出してちょうだい、といつものひょうひょうとした調子で命じ、銀座から一路、豊島の赤十字病院にむかって車を走らせた。
受付で身分証を出し、そのまま看護師さんに案内されて望月くんの個室へ入ると、ちょうど、見舞いに来ていた同級生たちが出ていくところだった。すれ違いざまに軽く挨拶を済ませて彼らを見送ると、沢渡さんは手に提げたレジ袋の中から高そうなゼリーを出して、果物に飽きてませんか、と尋ねる。
「ありがとうございます。――なんでこういうときの見舞いって、みんな果物なんでしょうね」
「そっちのほうが送りがいがあるからじゃないですかねェ、もらう側はアキアキしてくるけど……。あ、どれ食べます?」
ありがたいような、それでいて困ったような顔で、背後に並んだ果物かごを見やると、望月くんは沢渡さんからメロン味のゼリーを受け取り、それをぱくつきながら事情聴取、ということに相成った。
「だいたいのことはお巡りさんたちに話したんですけど、また話さないといけませんか?」
よほどしつこい聞かれ方をしたのか、辟易とした顔で望月くんはスプーンを往復させる。
「いやァ、どのみち池袋署からは調書の写しが回ってきますからね。それを踏まえて聞き直すことはあっても、今は別段問題ありませんよ。どうしても伝えたいことがあるなら別ですけど……」
すると、今まで取り調べはうんざりだ、と言いたげだった望月くんが、身を乗り出してこんなことを話し始めた。
「刑事さんたちはあまり関心がなさそうに聞いてたんですけどね、あの白塗り男、甘い匂いがしたんですよ」
「甘い匂い! どんな具合の……?」
こんなのかい、といって、自分の食べていたオレンジゼリーのカップを見せる沢渡さんに、望月くんは自信がなさそうに返す。
「果物や食べ物の甘さじゃないのは確かなんですけど、具体的には思い出せないんです。どこかで嗅いだような気がするんですけど……」
「――なるほどねえ。僕らにも覚えのある、かなりポピュラーな匂い、ってことになるわけか……。いやあ、大変参考になりました、どうもありがとうございます。あ、そうそう、ゼリーのほう、もっと大きな箱入りのを届けさせますから、お暇なときにどうぞ……じゃあ……」
ほんの十分ほどで、しかもほとんど雑談のような具合で話を終えると、沢渡さんは僕を引き連れて、病院を後にした。学校を出て、銀座の探偵社に向かったのが四時前。そこから移動やらなんやらを含んだせいで、いつの間にか辺りはすっかり薄暗くなっている。
「――高津さん、あなたどう思います」
帰りの車の中で不意に尋ねられて、僕は返答に詰まった。
「なんのことでしょう……?」
「彼の言ってた『甘い匂い』ってのの正体ですよ。背後に果物、手元にゼリーがあって、そのどれかに該当するような香りだったらすぐに答えが出るだろうに、どれでもないと来てる。てえことは……ってわけです」
「どこかで嗅いだような、っていうのもミソだと思いますね。そんなに頻繁じゃないってことですから、かなりレアな匂いってことになりますよ」
「――あ、それは言えてるなあ。高津さん、あなた探偵の才能がおありですよ、よかったらウチにいらっしゃいな」
「ハハハ、ども……」
本気か冗談かわからない沢渡さんの言葉を聞き流しながらモケットに腰を下ろしていると、助手席に据え付けられた無線機が鳴りだした。
「こちら警視三十五号、警視三十五号、さつき七号どうぞ」
「ちょっと失礼――ハイ、こちらさつき七号、こちらさつき七号、感度良好、どうぞ」
ヘッドレストを左腕でつかみながら、沢渡さんは無線機のレシーバーをつかむ。相手が警視庁のパトロールカーであることはわかったが、ガラガラとした無線の温室ではだれの声だかわからない。
「池袋署の大村です。大至急、署までお願いします。また、あいつが現れました――」
「なんですって」
レシーバーをにぎる沢渡さんの顔がこわばる。いくらなんでも、昨日の今日では現れるのが早すぎるような気がしたが、犯罪者相手に常識が通用するとも思えない。
「わかりました、至急そちらへ向かいます。――和ァヤン、進路変更!」
和田くんに行き先を伝えると、沢渡さんはいまいましげに舌打ちをし、モケットに背中を沈める。
「ここまで期間が縮まったってえのはどういう了見だ、こりゃ……」
犯人の意図が読めないことにいらだつ沢渡さんを乗せて、車は一路、池袋署のある豊島目指して速度を上げるのだった。
池袋署へつくと、玄関先に控えている門衛のお巡りさんと並ぶように、大村部長刑事が待ちかまえていた。
「――お待たせしました」
「やあ、お待ちしておりました。被害者は、奥で手当てを受けてます……」
「奥で? 頭を打ったりはしてないんですか」
沢渡さんの疑問に、大村部長刑事はいったん口を開きかけたが、まあ、本人に会えばわかりますよ、と、それ以上の説明は行わなかった。どういうことだろうと、訳も分からぬままに相手のいるという会議室へ入ると、かなりガタイのよい、一見して柔道部員らしい学ラン姿の少年が、婦警さんに足の擦り傷へ消毒液を塗りこまれているところに出くわした。
「おや、こりゃまた強そうなお人で……」
「都立四高二年の大垣正雄くんといって、空手部の中堅選手だそうだよ。――わたしはむしろ、犯人の安否のほうが気がかりだ」
まさかとは思いますが……という沢渡さんの問いを察して、大村部長刑事はそのまさかなんだよ、と返す。なんでも、大垣くんは追いかけてきた白塗り男を自転車から引きずり下ろして、二、三発ほど拳をお見舞いしたのだという。
「なるほど、そりゃ確かに、犯人のほうが気がかりですわな」
「まったくだよ……。ああ、それと、やつの正体に一歩近づけたかもしれない発見があってね。どうも、あの白塗りはシッカロールに医療用のオリーブ油か何かを混ぜたものらしい。現場に点々と散らばっているのを、さっき鑑識が検査したらそう出たんだ」
「シッカロールっていうと、赤ん坊のお尻にハタくあれですか」
「それそれ。この前と違って、今度の現場は甘い匂いが充満していてね。ちょっと暑くなり出したから、汗と一緒に蒸発してるのかもしれんなあ」
甘い匂い、という大村部長刑事の言葉に、僕と沢渡さんは顔を見合わせる。おそらく、望月くんの言っていた「甘い匂い」の正体は、シッカロールで間違いなさそうだった。
「そういえば、先の二人とも、ラッカーや絵の具の匂いがした、なんては言ってなかったなあ。しかしまあ、どうしてシッカロールなんか、ねえ……」
不思議なチョイスの謎に沢渡さんともども首をかしげていると、誰かの携帯電話のバイブレータが衣擦れを起こしながら唸っているのが耳に入った。
「ちょっと失礼。――はい、大村ですが……なに、本当か! で、その跡は…………? かなり明瞭…………なるほど。じゃあひとまず、念のために呼んでおいてくれ…………わかった、合流しだい、追跡を行おう。じゃあ……」
電話を切ると、大村部長刑事は僕と沢渡さんを手招きして、廊下の方へ連れて行った。
「例の白塗り男のシッポをつかめるかもしれん。流れ出たシッカロールが、足跡みたいに路上に落ちているそうだ。追いかけていけば、どの方面に逃げたかわかるかもしれないぞ」
降ってわいたような吉報に、僕と沢渡さんは勝利を確信して、目に一杯の笑みを浮かべる。
「まだ痕跡のあるうちに、追跡を行いましょう。警察犬も動員したほうがいいんじゃありませんか」
沢渡さんの提案に大村部長刑事はにこりと笑って、なあに、それも織り込み済みです、と返す。
「本庁の方から優秀なのを三匹、現場に向かわせたよ。我々も急ぎましょう――」
けたたましいサイレンの音を響かせながら、僕と沢渡さんは大村部長刑事の乗るパトカーについて、現場へと急行した。すっかり日も落ちた、六時過ぎのことである。




