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嗤う自転車乗り ~白い顔の妖魔、東京にあらわる~  作者: ウチダ勝晃


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3/5

三、白い跡を追って

 しかし、現実はさほど甘くはなかった。警視庁自慢の警察犬、カッパ、ベータ、ラムダ号の三匹によって行われた追跡は、ある古ぼけたマンホールの前で匂いが途切れて、あっけなく幕を閉じてしまった。追い回すのに使ったと思われる自転車は現場に放り出されてあり、あの格好も踏まえればそう遠くへは逃げていないのは確かだったが、場所が良くなかった。

 問題のマンホールは、小さな交差点のど真ん中にあり、今まで追いかけてきた西側以外の三方向に道が広がっているのである。

「三方向じゃあ、ちょいと見分けにくいな。――真新しいタイヤ跡もなし、となると……」

 共犯者のものらしいタイヤや、垂れたオイルの痕跡もないのを確認すると、大村部長刑事はパトカーへ戻り、非常用のバールを使って、マンホールのふたをこじ開け出した。僕と沢渡さんも加わって、どうにか重たいふたをアスファルトの上にのかすと、湿気をはらんだ、鼻のねじ曲がるような臭いが辺りに充満した。

「水音がしないところを見ると、もう使われていない下水らしいな。――ちょっとカッパ号を連れてきてくれないか」

 大村部長刑事の命令で連れてこられたカッパ号は、しばらく穴に向かって鼻を鳴らしていたが、やがてけたたましく吠え、今にも飛び込もうともがきはじめた。

「やっぱりそうか、奴はこの中に逃げ込んだらしい」

「このまま、追いかけますか」

 沢渡さんの問いに、大村部長刑事はむろん、そのつもりだ、と答える。

「一旦署に戻って、人員を再編成してこの中へもぐります。ここから先は我々池袋署でやりますから、お二人は今日のところはひとまず……」

「わかりました。では、この辺で失礼します。また何かありましたら、連絡をお願いします」

 この場はひとまず大村部長刑事たちに任せることにして、僕と沢渡さんは一旦、銀座へ戻ることにした。その道中、沢渡さんはあることに気づき、肩を揺らして笑い出した。

「――高津さん、あなたウチの関係者だと思われてますね」

「ええっ」

 思いがけない言葉にのけぞると、沢渡さんは手を振りながらなおも笑い続け、

「僕はてっきり、単に一緒にいるからお二人、って呼ばれたのかと思ってましたが、署の中にまで来てなんとも思われてないところを見ると、大村デカ長は本当に勘違いしているらしいや、ハハハ……」

「……なんか言われたらどうしましょう」

「なあに、少なくとも事件関係者には違いないんだから、責められる道理はないでしょう。適当に理由をつけておきますからお任せください、ハハハ……」

 沢渡さんの呑気な態度に救われたが、考えてみればこういう捜査の最前線に当たり前のようにいるのだから、僕も大概なわけだ。ちょっとだけ反省しながら、窓の外を流れる風景を銀座までぼんやりと眺めていた。


 翌日の新聞には、池袋署の署員による廃下水道の探索談がこの手の事件にしては大きく載っていたが、惜しくも捜査そのものは空振りであった。長いこと使われていなかったためにあちらこちらに蒸していたカビの類が、警視庁の誇る名犬たちの鼻に障り、これ以上の追跡は不可能、となったのである。

 仕方なく、O川河口につながる方面に捜査員数名が向かったのだが、川が近づくにつれてヘドロやごみの腐敗臭がひどくなり、とうとう残り十数メートルというところで追跡は打ち切りとなった。川へつながっているというところから、大村部長刑事たちは河口から犯人は逃走したという見立てだったが、沢渡さんは違う意見を抱いていた。

「――服を着こんでる捜査員がハナ曲げるようなところへ逃げるとは、どうにも思えねえんだよなあ。第一、なんの意味もなしにあんな場所に逃げるとは思えないんだよねえ……」

 追跡の行われた翌日、放課後に佐竹を伴って探偵社を訪れた僕へ、沢渡さんは大きな紙筒を出しながらつぶやく。

「なんすか、それ?」

 出されたチョコレートケーキと紅茶をつまんでいた佐竹が、右の唇へチョコクリームをつけたまま尋ねる。

「――これかい? 昭和の終わりごろの、豊島区の下水配管図。硫酸紙にコピーしてあるから、今の地図と一緒に透かしながら追えるんだ」

 見ると、紙筒には東京都の下水道局のマークが刷り込んである。そこへさらに、沢渡さんは最新版の都内の地図が入った紙筒を出し、同じ所番地なのを確認してから両者を重ね合わせた。

「――いいかい、この地図に赤鉛筆で書いてあるのが、この前白塗り男が潜ったマンホール。で、硫酸紙のほうに刷ってある下水を、警察と逆に追ってゆくと……」

 沢渡さんが地図上で滑らせる指がとまったのは、今の地図では空白になっている、下水配管図では「太平陶器豊島工場」という中くらいの工場がある場所だった。

「高津さん、覚えてますか。あのマンホールのふた、普通のやつよりちょっとだけ大きかったんですよ。それを見てて、もしかしたら……と思ったんですが、まさか上流に工場があるとは思わなかったですねえ」

「でもよお、今の地図だとなんにもないじゃんか」

 ケーキの最後のひとかけをつまみ、フォークを加えたまま佐竹が不満げに言う。

「――ところがどっこい、現地に行くとデッカい工場がそのままあるんだ。なんでも、リーマンのときに倒産して、持ち主も夜逃げしちまってな。それでもって都が処置に困ってるんだそうな。まさか、そんな建物の名前を地図にはのっけらんないからねえ」

「あ、なるほど……」

 納得がいったのか、佐竹は食い散らかしたケーキのフィルムやアルミの上にフォークを放り投げてから、紅茶の残りを音を立てて飲み干す。

「で、どうするんですか?」

「決まってるじゃないの、これから工場へ行くんですよ」

 学生服の裾をめくりあげると、沢渡さんは以前猫目さんが見せてくれたような具合に、ベルトに挟み込まれた小型拳銃を僕と佐竹に見せる。

「いちおう、仁科ちゃんとこの腕利きを二、三人ひっぱっていきます。いざというときには、犯人相手にぶっぱなすつもりです」

「――佐竹、どうする? ついてくるか?」

 おそらく、銀座でケーキをつまむ程度にしかこの訪問を考えていなかっただろう佐竹の顔を覗き込むと、意外にも佐竹は、

「もちろん、いくぜ。立花のを怖がらせた奴にゃ、一発ぐらいお見舞いしてやらねえと気が済まねえ」

「なるほど、いい心がけだ。まあ、さすがに一発カマすのは推奨しないけれど……」

 沢渡さんとそんなことを言っているうちに、和光の大時計が四時の時報を銀座の空へけたたましく響かせた。じゃ、そろそろ行こうか……と、腰を上げた沢渡さんの後ろへついて、僕と佐竹は夕闇迫る豊島区へ急行したのだった。

 あとから追いかけてきた調査二課の探偵員たちと合流すると、僕たちは錆びて根元から外れている門扉をまたいで、廃工場の中へ入った。比較的閑静な住宅地、と思っていた豊島区にこんな場所があるとは思わなかったが、それと同時に、廃墟特有の薄気味悪さを前にして、懐中電灯を握る手がひどく汗ばむのがわかった。

 しかし、そんな僕や佐竹、あるいは沢渡さんたちの期待むなしく、そこにはあの白塗り男の姿はなかった。その代わりに、あのシッカロール独特の香りが、かつてそこに持ち主がいたことを示すようべく、甘く漂っていた。

「――不用心だねえ、ブツを残してったら、足取り割れちゃうじゃないの」

 元々は出荷前の陶器が並んでいたらしい、学校の武道場ほどの大きさの空間の真ん中にはキャンプ用らしい折り畳みのテーブルがぽつんと置かれていたが、その上には男が肌に塗りこんだ、あのシッカロールの紙箱と、薬用のオリーブ油が二瓶、無造作に転がっている。

「沢渡課長、どれも量産品ですから、足取りをたどるのは至難の業かと……」

 二課の探偵員の指摘に、沢渡さんはあら、弱ったな、と頭を掻く。

「――指紋だけでもあればいいけど、シッカロールの容器は望み薄でしょうね。なんせ、余計な水分を吸い取る物質なんですからね」

 追い打ちをかけるような指摘に、沢渡さんはますます狼狽する。佐竹ともども、見ていてちょっと辛いところがあった。

「指紋の水分もばっちり取られてそうだなあ。――やれやれ、こりゃあ物的証拠から攻めてくのは難しそうだぜ」

「どうします、引き揚げますか」

「このまま居て、ホシと鉢合わせしても嫌だからな。サッサと証拠物件だけ押収して帰ろう。もう、晩飯の時間だぜ……」

 結局、その日の潜入捜査で得られたのは、テーブルとシッカロール、オリーブ油の瓶だけだった。指紋が付かないように慎重に証拠物件を押収すると、車は夜の廃工場を離れ、まぶしい電飾、街灯の輝く都心部へと走り出した。


 次の日、放課後に立花さんを連れて新宿駅前のプランタンへ入ると、僕は佐竹と一緒に、ここまでの経緯を簡単に説明した。

「そう、そんな具合になってたの……」

 レモンティーへ口をつけながら、立花さんは芳しくない表情を浮かべる。

「物的証拠はあったけど、そいつから得られそうな手掛かりがほとんどないらしいんだ。三件目の現場に散ってたシッカロールとオリーブ油を混ぜたやつも、DNAはどうにか取れたけど、前科者リストにはない型らしいし……」

「こんなことをしそうな人間をリストアップして、しらみつぶしに追っていくしかないだろうってよ。――んなことしてる間に、逃げられちまうじゃねえかよ」

 佐竹は不機嫌そうにココアを飲み干し、通りかかったボーイにお冷ください、とぶっきらぼうに告げる。

「ブクロの大村とかいうデカ長も、あんまりイイ線で追えてないらしいじゃんか。昼に図書館で見た新聞にインタビューが載ってたぜ。この調子じゃア次は、沢渡さんの言い訳が――」

「――オレの言い訳が何だって? 佐竹くん」

 覚えのある声に驚いて振り返ると、沢渡さんとその部下、調査三課の和田くんがいつの間にか背後のボックス席に陣取って、コーヒーの香りを楽しんでいるではないか。

「い、いつの間に……」

 先刻のぼやきを聞かれていたことを恥じ入り、佐竹は顔を真っ赤にして目を泳がせている。沢渡さんはコーヒーを一口なめてから、

「これでも一応探偵なんでね。ちょいと気になることがあって、都庁の中に入ってる、不動産関係者のクラブに顔を出してきたんだよ。――犯人に一歩前進、ってとこだ」

 口元に不敵な笑みを浮かべる沢渡さんに、僕たちは釘付けとなる。

「ま、詳しい話は明日にでも、探偵長からあるんじゃないかな? あまりに事件解決までの道筋が遅いので、お小言を食ってしまってね……」

「悠一さん、戻ってらっしゃるんですか」

 と、自分で聞いておいて、もう一週間近く時間がたっていることに気づく。とんだ愚問だった。

「ハハハ、ちょうど休暇も満了、ってとこだからねえ。まあ、これでオレの出番はなくなったわけだ。名残惜しいや……」

「ケッ、大した事してたいくせによく言うぜ」

「手厳しいなあ……」

 佐竹に怒りもせず、沢渡さんは愚痴をひょうひょうと流す。あの廃工場にたどり着くまでもなかなかにスリルがあったし、名残惜しくもあったけれど、やはり悠一さんの登場には、胸が躍らずにはいられなかった。

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