第十二章 雨 その2
ガグリの三兄弟はその時、山の中にいた。
末弟は穴を掘りはじめた。それを見た次兄は、長兄を振り返った。長兄は相変わらず膝を抱えて痛がっていた。
「に、兄ちゃん、穴だ。穴掘るぞ!」
次兄は長兄の胸ぐらを掴み怒鳴った。しかし長兄は「いてぇ、いてぇ」と言うばかり。
「兄ちゃん、しっかりしってくれ」
次兄は長兄の肩を激しく揺さぶったが、長兄は目を瞑って丸くなり、そのまま固まってしまった。長兄は真の恐怖に初めて遭遇してしまったのだ。長兄の膝の痛みは、そのまま心の痛みだった。現実に立ち向かおうとしていた長兄の、その小さな志は、真っ赤な炎に侵され真っ黒焦げになってしまったのだ。
しかし次兄にはそんな長兄の気持ちがわからない。ただその態度が甘えに見えた。「チッ」と鋭く舌打ちし、長兄を睨みつけた。そして近くの枯れ枝を乱暴に拾って、末弟のそばへ行きその枝を地面に突き刺した。
「お、おれは掘るぞ。まだ、あきらめねっぞ!」
次兄は誰に言うともなく叫んだ。末弟はただ地面だけを見て一心不乱に穴を掘っていた。風が吹くたびに火の匂いが近付いてくる。それでも穴を掘り続ける。しかし土は乾いており、固い。
「ちっきしょう、かってぇな」
少し掘っただけですぐに枝が折れてしまう。
「ひ、ひとり分だ。ひとり分でいいんだよう!」
末弟が地面に差し込んだ枝にぐっと力を入れて叫んだ。
「上の兄ちゃんが穴っぽこに入れればいいんっだ。おいらたっちゃまだ走れっだろ」
次兄は今、末弟のことを初めて理解した気がした。この弟はたったこれだけの時間でそこまでのことを考え実行していたのだ。自分でさえも諦めかけたこの状況でだ。
(こ、こいつ、すげぇ)
やれる。やれるぞ。ひとり分の穴なら、なんとかなる。
「き、聞いたかよ、兄ちゃん! 待ってろよ、今穴っぽこに入れてやっかんな!」
その声は長兄にも届いていた。こんな不甲斐無い兄のために弟たちが穴を掘ってくれているのだ。長兄は丸まりながら泣いた。
「ちくしょう、ちくしょう」
しかしそんな三兄弟のささやかな思いはあっけなく踏みにじられる。
めらめらと尖った風が近付いてきたのだ。それは炎の先兵か。長兄は震えた。炎に囲まれたあの恐怖がよみがえってくる。
だめだ、だめだ、だめだ、だめだ!
「は、はやく逃げろ、ばっかやろ!」
長兄は身を奮い起こして二人の弟を怒鳴りつけた。
「うるっせい、ばっか兄ぃ! 走れねえヤツは黙ってまってろ。このばっかやろう!」
次兄が怒鳴り返した。長兄はなんとか二人に近づこうと、痛い足を必死に引き摺った。
「ばっかやろ! なんでわっかんねんだよう」
なんでわからねえんだ。お前らだけでも逃げてくれよう。しかし長兄の言葉は声にならず、ただくやし涙だけが溢れ出ていた。
その時、長兄の後方が光った。熱風が吹く。あの蛇のような炎がやって来るのだ。
「もう、間に合わねえよぅ」
長兄が叫ぶ。しかし次兄も末弟も地面に枝を打ち込むのを止めない。
「兄ちゃん、待ってろ。もうすぐだ!」
末弟が穴から少しも目を逸らさず叫ぶ。木が燃える匂いがする。火蛇が獲物を見据えたか。いいや、まだだ。まだやるぞ。しかし時すでに遅し。すでに三兄弟の周りは炎に支配されていた。それでも……
「お、おれたちはまだ負けちゃいねっぞ!」
ちっきしょう。次兄が天に向かって叫ぶ。
その叫び声は果たして天に届いたか。ぴちゃぴちゃと懐かしい感触が、天を仰いだ次兄の頬を伝った。その感触は額に目に口に、そして全身に降り注ぐ。
「あ、雨だ!」
次兄がそれに気づいた瞬間、衝撃が空から降ってきた。
ダダダダダアザザザアザアザアアア
その衝撃にガグリの三兄弟は吹き飛ばされた。なんとか立ち上がった次兄が目を開けた時には、すでに炎は消し飛んでいた。そして消えた炎の後には、真っ白な水蒸気と真っ黒な煙が立ち、混じり合いながら空へと昇っていく。
三兄弟はそれぞれに空を見上げる。空には何匹もの龍がいた。水の龍であった。水龍は弧の頂点に達すると炎めがけて落ちてくる。ついさっき次兄が雨だと思ったものは、その水龍が落ちてくる時の飛沫であった。
「な、なんだ。なんなんだ」
三人は何が起こったのか咄嗟にわからなかった。
遠くで爆発音がした。
その時、長兄が空の向こうに何かを見た。それは飛んでゆくウルスの姿であった。
「ウ、ウルス!」
長兄はウルスの名を呼んだ。ウルス、ウルス、やったのか。やり遂げたのか。行っちまうのか。ああ、行っちまうんだな。これでさよならなんだな。
飛ばされてゆくウルスを見た者は長兄だけであった。長兄は人知れずウルスに、そして弱っちぃ自分に別れを告げた。
その空は今や黒雲に支配されていた。鋭い稲妻が走り雷鳴が轟く。
「兄ちゃん、来るぞ!」
末弟が天を指差す。
点点点点点点点点点点点点点……地面が点に埋め尽くされる。水蒸気も黒煙もすべてが消えていく。何もかも流れ落とすかのように激しい雨が降ってきた。
* * *
アビコとトウリはその時、空の上にいた。
「ア、アビコ殿、む、胸騒ぎとは一体なんなのですか」
トウリは羽ばたきを増して揺れの激しくなったカラスの背に、必死でしがみつきながらアビコに問うた。
「さあね、わからないが嫌な感じではないね。しかしあんた達、山の頂上を目指し
てたんじゃないのかい。なんだってこんな外れた場所を歩いてたんだい。おかげで余計に飛ぶ羽目になったよ」
アビコはさっきの話のお返しと言わんばかりに、嫌みったらしく学者先生に言ってやった。
「い、いや誠に面目ない」
トウリは恐縮しきりだ。
『クエッ』
その時カラスが鋭く鳴いた。
「見えてきたよ」
アビコが目を細めて呟いた。トウリも丸眼鏡をずり上げ、目を凝らしてその光景を見た。
「な、なんだ。あれは一体なんなんだ」
その時トウリの見た物は無数の龍であった。
「水だね。水の龍だ。まさかまさかだね、まったくなんて思いつきだい」
アビコはそう言いながら「くくくっ」と笑った。
「ま、まさかこれも魔法なのですか。しかしアビコ殿はここにおられる。では一体誰が……ハッ、まさか」
「まったく大げさだね。私がここにいるのなら、こんな事が出来る者はひとりしかいないよ。魔女のルウ、ひとりしかね」
トウリは呆然とその光景を眺めていた。
「しかし……少し大きすぎやしないかい」
水龍は次々と燃え盛る山林に落ちてゆく。その落ちた先から大量に発生する黒煙と水蒸気は、混じり合い空へと立ち昇る。やがて稲妻が走る真っ黒な黒雲となり、空一面に広がった。
「やれやれ、ようやく降りなさるかね」
アビコが言うや否や雷鳴とともに心地よい音が響き、懐かしい匂いが辺りを包む。トウリは濡れた眼鏡を拭った。そして小さく呟いた。
「雨だ」




