第十一章 眠れる力 その3
カナンに到着したルウたちは、三兄弟の案内で果樹園までやって来た。
「い、いいか、ここから先はカナンの秘密の場所だ。ぜったいに秘密だかんな」
ガグリの次兄が念を押すように何度も言った。こんなところになにがあるんだろう。果樹園の奥の茂みを抜けてしばらく行くと、すり鉢状の窪地があった。そしてそこには、なみなみと水が張ってあった。
ここはカナンの住民のみが知る隠し沼だったのだ。この沼のおかげで湖の水が涸れても農作業が出来ているのだろう。沼には湯気が立ち昇っていたが水はたっぷりあった。
「こんな所に沼があるなんて」
ルウもブッカも驚いた。次兄はそんなふたりを見て、
「ぜってい内緒だかんな」
としつこく念押しした。
ウルスはその沼の水を巨大カップになみなみと注いだ。
「よーしこれでオッケーだ。さあ白鳥号のところまで戻るぞ」
いつの間にか場を仕切っているブッカが先頭に立った。ウルスがその後に続き、ガグリの三兄弟がウルスと並んで歩く。ルウはその後ろ姿を見ながら歩いた。その時ルウは何を思ったか。一度山を振り返った。火の勢いは山頂から徐々に広がっているようだ。明るさが増していた。
白鳥号まで戻ったウルスはゆっくりとカップを置いた。その時また地響きが鳴った。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
ウルスはその音が鳴り止んだ時ついに決意した。
『ボク イカナキャ』
一休みしていたブッカは驚いて立ち上がった。
「ええ、いきなりかい。もう行ってしまうのかい」
『ウン モウイカナキャ ダレカガ ボクヲ ヨンデルンダ』
二人のやり取りを、ガグリの三兄弟は怪訝な顔で見ていた。次兄がルウの顔を見たが、その顔を見てはっとなった。ルウの顔は涙で濡れていたのだ。
ルウは泣いていた。何度拭っても涙が落ちてくる。ついにこの時が、別れの時が来てしまったのだ。ルウはぐしゃぐしゃの顔でドックを駆け上り白鳥号の甲板に立った。ウルスがしゃがんでルウの高さに目線をあわせる。
「ウルス、行ってしまうのね。これでもうお別れなのね」
ルウは覚悟していたつもりなのに涙が止まらない。もうおそらく二度と会うことは無いのだろう。たった一夏に満たない短い付き合いなのに、こんなに胸が苦しい。ルウは別れというものがこれほど辛いものだと初めて知った。思えばルウのこれまでの人生に、人との別れなんて無かったのだ。ましてやルウはウルスの名付け親だ。まだ自分だって子供のくせに、すっかり親になったつもりだったのだ。
もっともっと一緒の時を過ごしたかったな。おばば様はウルスと私たちでは時間の流れが違うとおっしゃったわ。それはわかってる。わかってるけど……
『ルウ モウナカナイデ』
ウルスが指をルウの前に持ってきたがすぐに引っ込めた。涙を拭おうとしたのだろうか。ルウはその優しさが嬉しかった。そう、ウルスはとても優しくて大きくて温かで居心地がいいのだ。そのウルスがとても心配そうな表情でルウを見ていた。
(そうだこの子の大切な旅立ちの時なんだ)
ルウは笑って送ってやらなきゃと思い、精一杯の笑い顔を作って頷いた。うん、うん、もう泣かないよ。
『ボクニ ステキナ ナマエヲツケテクレテ アリガトウ ルウノコト ゼッタイニワスレナイヨ』
「ううん、私こそありがとうだわ。あなたのこと絶対に忘れるもんですか」
「おいおい、ぼくのことも忘れてもらっちゃ困るな。ウルス、ブッカ大先生のこともちゃんと覚えておくんだぜ」
いつの間にかブッカがルウの横に立っていた。猫というのは感情のネジがずれているのだろうか。それともブッカがまだ子供なのだろうか。とにかく雰囲気ぶち壊しの乱入に、ルウとウルスは顔を見合わせて笑った。
『ブッカセンセイ イロイロオシエテクレテ ドウモアリガトウ』
「立派な山になるんだぜ」
ブッカ大先生は拳を突き上げウインクをした。ウルスはガグリの三兄弟を見下ろして声をかけた。
『ボクヲ ミツケテクレテ アリガトウ キミタチノコトモ ワスレナイヨ』
ガグリの長兄はまだ事情がよくわからなかった。何を言っているのだと言わんばかりの顔でウルスを見ている。次兄は何となく状況を把握していた。それはルウの泣き顔を見たからだ。そしてそれは末弟も同じだった。しかし末弟にはひとつの疑問があり、それを口にしてみた。
「だ、だれがお前を呼んでっだ」
『ワカラナインダ デモ コエガキコエルンダ ナイテイルヨウナ ダレカノコエガ ボクヲ ヨンデイルンダ』
「た、助けにいくのか」
ガグリの末弟はウルスとの別れを理解しているのではなかった。ただウルスが何かをするためにどこかへ行ってしまうことだけはわかっていたのだ。
『ソウカ ボクハ ソノタメニイクノカ』
ウルスは山に目を向けた。そしてもう一度みんなを見る。その表情に一点の翳りなく、己の成すべきことを知る者の自信に満ちあふれていた。
『ボクハ ヤルベキコトヲ ミツケタヨ ミンナ アリガトウ ミンナニアエテヨカッタ』
そう言ってウルスは静かに歩きはじめた。ルウはもう泣いてなんかいなかった。ウルスが見えなくなるまで笑顔で見送るんだ。そう自分に言い聞かせていた。ブッカはウルスが見えなくなるまで大きな声でエールを送っていた。ウルスの足取りは徐々に早くなる。ウルスはもう振り返ることはなかった。
ガグリの三兄弟はそれぞれの思いでウルスの後姿を見ていた。末弟はがんばれという思いで、次兄はさよならという思いで。しかし長兄はなぜウルスが行ってしまうのか理解出来ていなかった。だからウルスが見えなくなった時、ガグリの長兄は自然に走り出していた。
「あ、こら追っかけちゃだめだ!」
ブッカがそれに気づいた時にはすでに弟たちも走っていた。ルウは三兄弟を止め
るため追いかけようとした。しかしその時、頭上から『クワッ』という鳴き声が聞こえた。ルウは思わず振り返り空を見上げた。




