第五章 動く岩山 その2
「こ、これはアビコ殿。アビコ殿はこれをご存知なのですか」
トウリは丁寧なお辞儀をしてアビコに問うた。
「ふん、学者どのはこんなことも知らんのかね。この者は山の子だよ。学者語で言うとダイダラボウとでも言うのかね」
アビコは岩の巨人をみたまま、トウリに向かって言った。
「な、なんとダイダラボウですと。あの古文書に出てくる伝説の巨人だというのですか」
「ふん、少しは知っているようだね。今日は朝から様子が変だったから何かあるとは思ったけどね。まさか山の子が現れるなんて、まったく今年はおかしな年だね」
アビコは一瞬鋭い目でトウリを見たが、すぐにまた岩の巨人に目を向けた。その目はルウが見たことも無いほどに優しい眼差しだった。
「先生、ダイダラボウとは何なのですか」
呆然とするトウリにソビィが尋ねた。トウリはその質問で我に返り、丸眼鏡をずり上げながらソビィに説明した。
「ダイダラボウとは『古耳喜』という古代の神話や伝説を集めた古文書に出てくる巨人のことだ。その巨人は山よりも大きいといわれ、人語を解し心穏やかな怪物とも記述されている。ある日あてもなく北に向かった巨人は果ての地で疲れて寝てしまい、そのまま山になってしまった。そしてその足跡は沼や湖になったといわれている。他にも『北方風説集』や『アーネストの収文録』にも同じような話が載っている」
とトウリは話しながらも目の前の事実がまだ信じられない。古文書の出来事が、自分の目の前に出現したのだ。
「ふん、だからここはアシアト湖と言うんじゃないか」
アビコはトウリの説明を退屈そうに聞いていたが、最後に面倒くさそうに付け加えた。
「な、なんとそうでありましたか。ではこの湖とはダイダラボウの足跡に出来たものなのですか。ダイダラボウとは伝説ではなく本当に実在したのですか」
トウリはやや狼狽えながらアビコに確認した。アビコはとても面倒くさそうに答える。
「何を言っているんだい。あんたは今、目の前で見ているじゃないか。それが信じられないのかい」
「いやしかし、そうするとこのダイダラボウ……いや山の子は、まだ生まれたばかりなのでしょうか」
「さあね。生まれたばかりなのか、ずっと湖で眠っていたのか。そんなことまで私は知らないよ。ただ地上へ出て来たという意味では今日が生まれた日といっていいだろうね」
アビコは呆れたように手を広げてそう言った。ルウは湖で眠っていたと聞いて白鳥号と同じだと思った。その白鳥号の生まれ変わった日に生まれた巨人さんだなんて。そう思うとなんだか急に愛おしいものに思えてきた。
「先生、しかしこりゃ一体どうすりゃいいんだ」
漁師の親方が困惑顔でトウリに尋ねた。トウリはいやはやどうしたもんかと首を捻り、そのまま親方と同じ質問をアビコにぶつけてみた。
「ふん、やれやれ困ったもんだね。山の子が現れるなんてまたとない吉兆だよ。間違ってもいじめたりなんかするんじゃないよ」
と言いながらガグリの三兄弟をジロリと睨んだ。その静かな迫力に、三兄弟は手に持った棒を急いで後ろに隠した。
「ルウ」
アビコに呼ばれ、ルウは一瞬ビクッとなった。
「なあに、おばば様」
「あんたはこの山の子の出現を、生まれる所を、見たのかい」
「ええ、私だけじゃなくブッカもガグリもこの子供たちも一緒に見たわ」
「ふん、そうかい」
アビコは子供達の顔を一人一人見た後に巨人の上にいるブッカに向かって話しかけた。
「これブッカ。いつまでそこにいるつもりだい。さっさと降りといで」
「む、無茶言わないでおくれよ。こう見えてぼくは高いところが苦手なんだよ〜」
「馬鹿いってんじゃないよ。邪魔だからさっさと降りな」
アビコの強い口調の物言いにブッカは仕方なしに、
「はいはい今降りますよ〜」
とおずおずと降りてきた。その姿は腰が引けてなんとも不格好なもので周りのみんなは思わず笑ってしまった。
「ふう、やれやれ、とんだ目にあったぜ」
地上に降り立ったブッカは格好つけてそう言った。アビコはそんなブッカを無視して巨人に対して話しかけた。
「おおい、山の子や聞こえるかい」
山の子と呼ばれた巨人はジッと動かずにいたが、アビコの呼びかけにわずかに反応した。
「やっと気づいたかい。よーくお聞き。あんたはまだ地上に出てきたばかりで訳が分からないだろう。あんたはしばらくこの辺りで過ごすことになる。なぁに、旅立ちのきっかけが来るまでのほんの少しの間だけさ。しかしここで暮らす間に色々学ばなきゃならないよ。私らのようなちっこいのを踏まないよう歩く方法やらなんやらね。それから名前も付けなきゃならない。名付け親になるのはルウ、お前だよ。そしてここに居る子供達に立会人になってもらうよ。なんせあんたたちは、この子の生まれた瞬間に立ち会ったんだからね」
ルウは突然そんなことを言われてびっくり仰天だった。私がこの子の名前を付けるですって。ルウのほほが次第に赤く染まっていく。
「おばば様、ほんとに私が名前を付けるの?」
「そうさ。それがあんたの役目だよ」
アビコがルウの目をまっすぐに見て言った。
「なんて素敵なことかしら」
ルウは飛び上がらんばかりの喜びを押さえて静かに喜んだ。ルウは巨人を見上げながら言葉にならない気持ちを噛みしめていた。今日はまったくなんて日なのかしら。白鳥号の修理が完成し、でも航海が出来ないと知って少し落ち込み、今度は思いもしない山の子との出会いがあって、しかもその山の子の名付け親になるだなんて!
さて巨人、いや山の子はアビコの話をぼんやりと聞いていたが、やがてまた動かなくなってしまった。その姿を見て、大人たちは山の子が危険な存在でないと知り、ひとまず安心したようだった。
「ねえ魔女さん。その名前ってのはいつ決めることなんだい」
網元の女将がアビコに聞いた。
「ふん、いつとは決まっていないがね。まあこの山の子が少しは人の言葉が解るようになってからだね」
「ああそうかい。じゃあ、まだ先の話だねぇ。ねえ魔女さん、その時はきっと私らも呼んどくれよ。ささやかなお祝いくらいしてあげたいじゃないか」
女将がそう言うと、
「おお、そりゃいい考えだ」
「パーティだ! お茶会だ!」
と周りの大人達が口々に相づちを打って盛り上がっている。ルウは少し不安な気持ちでアビコを見た。おばば様はきっとそういうのは好きじゃないんだわ。と、思ったがアビコの答えは意外なものだった。
「ふん、お茶会かい? いいじゃないか。山の子の門出だからね」
アビコがそう言うと、みんながワッと歓声を上げた。ルウはアビコの思わぬ返答に嬉しいよりも先にほっとした。ああ、よかった。
さてその後の顛末だが、おかみさん連中が、
「じゃあ、いついつにしましょう」
と日程を決めようとしていたところに男達も加わり、
「この日はだめだ」「あの日がいい」
なんて好き勝手言ってるもんだから、決まるものも決まりやしない。アビコはその様子を興味無さげに黙って見ていたが、やがてトウリが代表して意見を聞きにきた。
「アビコ殿。我々の話し合いではどうにもお茶会の日程が決まらない。そこでアビコ殿にお伺いしますが、さていつ頃がよろしいでしょうか」
「ふん、学者先生がいながらそんなことも決められないのかい。まあいいよ。それじゃあ次の満月の日にしようじゃないか。その日の昼鳴りの鐘が鳴ったらはじめる。それでいいね」
アビコがジロリと睨んだ。トウリは一瞬唾を飲みコクリと頷く。
「それまでの間に子供達はこの山の子に色々教えなきゃいけないよ。あんた達がこの子の先生になるのさ」
アビコが子供たちに向かってそう言うと、子供たちは緊張した面持ちでみんなうんうんと頷いている。
「それから女達はうんとごちそうを用意しなけりゃいけないよ。男どもはこの山の子のために食器を作ってくれなきゃいけないね」
アビコはみんなにお茶会までの役割と準備するものとを説明した。みんなこの魔女の言うことには素直に従っていた。ルウはアビコがこんなによその人と話をしているところを今まで見たことがなかったので、とても驚いたがとても嬉しかった。
そしてその日はぼんやりと立ち尽くす山の子を置いてみんなで白鳥号の元にもどった。
「さあさあ、戻ったら宴会の始まりだよ」
ガグリの母は「ああ忙しい忙しい」と、他のおかみさん達と一緒に先にかまどへと戻って行った。
すでに修理を終えた白鳥号は、ピカピカの新しい船のように輝いていた。ルウやブッカやガグリの三兄弟や子供たちは、白鳥号が見えるや、我先にと駆け出した。ルウは甲板に登ると船首からアビコを呼んで手を振った。
「おばばさまー!」
アビコは船に近づき、目を丸くして、まじまじとその姿を見た。
「いかがですかな。とても美しい船でしょう」
隣にはいつの間にかトウリが立っており、アビコと同じように白鳥号を見上げていた。アビコはトウリを見ずに、ただその白鳥のように真っ白な船を見ながらほんの一言だけ呟いた。
「またずいぶん古い船を拾ってきたもんだね」




