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第四章 船上の月 その2

 

 その日は朝から蒸し暑い一日だったという。ルウはいつもよりうんと早く、真夜中と朝の間に目を覚ました。ぴょんとベッドから飛び起きて、ひと伸び。


「今日は白鳥号の完成の日!」


 ルウはこの記念すべき日こそは誰よりも早くにドックへ行くつもりだった。トウリよりマルミの漁師よりガグリの三兄弟よりも早く。

 それにルウにとってはこんなに大切な日でも、アビコには関係ない。いつものような態度で送り出されるのであれば、今日ばかりは顔をあわせたくはないのだ。


「おはようブッカ」


 ルウは窓を少し開け、とても小さな声で軒下に住むブッカに声をかけた。が、軒下からは「スースー」と寝息が聞こえるばかり。どうやら子猫のブッカ様はすこぶる快眠中のようだ。仕方ない一人で行こう。ルウはそそくさと着替えをすませ、こっそりと外へでた。玄関の戸をそっと閉めるとルウはほっと一息ついた。どうやら大丈夫。さあ行くぞと一歩目を踏み出した時、


「ルウ」


 突然、背後から声を掛けられた。ルウがビクッとしておそるおそる振り返ると、そこにはいつもの不機嫌顔の魔女が立っていた。


「お、おはよう、おばば様。ごめんなさい……起こしちゃった?」


 ルウはばつが悪そうにそう言った。


「ふん、年寄りは早起きなもんさ」


 アビコはいつもの物言いで答えた。ルウは別に悪いことをしている訳ではないのに、なんだか咎められているような気持ちになってしまった。それはやはりルウにも後ろめたさがあったからなのだ。

 そんなルウの気持ちを察したアビコは、


「別に怒っている訳じゃないよルウ。私はこういう顔なんだ。それより今日はなんだかいつもと違う一日になりそうじゃないか。それが何なのかまだ分かりゃしないけどね。ただそれを言っておきたかっただけだよ」


 アビコはそう言うとあくびをひとつした。


「まあつまり、気をつけておいき」


「うん、いってきます」


 ルウはほっとした。そしてなんだかとても嬉しかった。でもちょっぴり胸が痛むのは、こっそり出て行こうとした自分のあさはかさが、なんだか恥ずかしかったからであった。



 ルウがカナンを通り過ぎようとした時、後ろから「おーい」と声がした。振り返るとブッカが手を振ってこちらに向かって走ってやって来た。


「ひどいじゃないか。ぼくを置いて行くなんて」


 ブッカは息も切れ切れに抗議した。


「だって呼んでも返事しないんだもの」


「あたりまえさ、寝ているのに返事なんてできるかい? そういう時は猫じゃら草でやさしく起こすべきとは思わないのかい」


「まあ、あなたいったい何サマのつもり?」


「えっへん、ぼくは偉大なる猫サマなのである」



 二人が船のドックに近づくとまだ明かりは灯っていなかった。


「やったわ、一番乗りよ」


 ルウとブッカは走った。ドックをよじ上り甲板に飛び移った。


「いってぇ」


 ルウがムギュっと何かを踏んづけた。そしてその「何か」は、いってぇと言った。


「ごめんなさい」


 ルウはあわててそう言いながら飛び退いた。


「まったく、どうせ君たちだと思ったよ」


 声の主はそう言うと、ランプに火を灯してルウとブッカに向けた。


「ソビィじゃないか。どうしてこんな所に寝ているんだい」


「どうもこうも僕は見張り番でいつもここに寝ているんだぜ」


「ええ、そうだったの。知らなかったわ」


 ルウは残念そうにそう言った。


「ふん、どうせ一番乗りのつもりで来たんだろうけど」


「そうよ、今日で修理が終わりなのよ。白鳥号の生まれ変わる日なのよ。そんな日にいつまでも寝てられなんかいられないわ」


 ルウは一番乗り出来なかった悔しさをソビィにぶつけるように言った。


「それにしても少し早すぎるんじゃあないかい」


 ソビィはふぁあとあくびしながら空を見た。真夜中とも朝とも言えぬ空にはまん丸い月が浮かんでいた。


「だって早起きしちゃったんですもの」


 ルウが口をとんがらがして上目遣いにソビィを見た。


「まあまあいいじゃないか。今日は修理が終わる記念すべき日なんだ。気が急くのもしょうがないさ。ぼくだって今から宴会が楽しみなんだから」


 ブッカはルウのフォローをしたつもりが、ついつい自分の本音まで口にしてしまった。


「まあ修理は終わるけどね……」


 ソビィの含みのある物言いにブッカが噛み付いた。


「なんだい君、その言い方。なんだか気になるなあ」


「ふん、修理が終わったって、ただそれだけの話さ」


「どういうことさ」


「つまり湖がひからびたままじゃこの船はただのオブジェってことさ。つまりただの置物だって話さ」


 ルウとブッカはハッとした。そうだ船は水が無ければ浮かばない。そんなことは当たり前のことだ。でもそんなことは考えもしなかった。いや考えないようにしていたのかもしれない。


「まあトウリ先生たちもいろいろ考えているようだがね。それにしても当面はこのままさ」


「ニャンてこった」


 ブッカはついつい猫言葉を使ってしまったが自分では気づいていない。


「なんとか雨を降らせる方法はないかしら」


 ルウはソビィに尋ねるがソビィは首を振った。


「雨ってのはね雲がなきゃ降らないのさ。空を見てみろよ」


 ルウとブッカは空を見上げた。そこには雲ひとつ無い満天の星空と丸い月が見えるだけだった。


「なら雲を造ればいいんじゃないかい」


 ブッカがひらめきを口にした。


「雲ってのはね、水蒸気と空気中の塵なんかがくっついて出来るもんなんだ。水蒸気ってのはお湯を沸かす時の湯気さ。それに気圧の問題もある。地上の暖かい空気が空に上る時、気圧の変化で冷やされる。そして空気中の塵にくっついて小さな水の粒になる。この集合体が雲ってわけさ。ところでこの湖の上に雲を造るとしたら大量の湯気を空高くまで運んでやらなきゃならない。まあ無理だね」


 ルウもブッカも途中でなんだか分からなくなってしまったが、最後の「無理だね」ですべてを理解した。


「まあ今年は異常気象だからしょうがないさ。本来は春先にアトラス山系の雪解け水が流れてくるんだけど、そもそもその雪が少なかったのさ。まあそのおかげで船が出て来たんだから文句も言えやしないけどね」


 ソビィはそう言うとまたひとつ大きなあくびをした。


「まあ雨が降ったところでどうにもならないんだけどね」


 ソビィのまたも含みある物言いに、ブッカがまたも噛み付いた。


「だからなんだい君、その言い方は。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」


 ブッカの言葉にルウも頷く。


「そうよソビィ、どうにもならないってどういうことなの?」


 ソビィは少し考える素振りを見せたが、渋々話しはじめた。


「結局水位が戻ったところで、船は浮かぶけど……それだけさ」


「どういうこと?」


「浮かぶだけってことさ。船ってのは目的地まで人や物を運ぶのが仕事だろ。つまり動いてこそ用を成すのさ。ところでこの船、白鳥号の動力はいったいなんだと思う?」


 突然の質問にルウもブッカも考えこむ。そしてブッカがひらめいた。


「船といえばやっぱり帆じゃないのかい。漁師たちの船にもついてるじゃないか。あれで風を受けて動くんじゃないのかい」


「そうそう、きっとそうだわ」


 ルウはそう言いながら上を見てハッとなった。この白鳥号には帆なんてないのだ。


「先生たちもはじめはそう思ってたんだ。しかし調べてみると違った。この船は龍石船だったんだよ」


「りゅうせきせん?」


 ルウとブッカが声を揃えて聞き返す。


「そう。龍石船ってのは龍石を動力とする船なのさ。龍石ってのは希少鉱石の一種で滅多に手に入るものじゃない。そんな高価な物を動力にするんだから、この船は正真正銘貴族サマの船なんだろうさ」


「その龍石ってのは、つまり石なのかい? そんなものでどうやって船を動かすのさ」


 ブッカが当然の疑問を口にした。


「先生が言うには、龍石というのは水に濡れると燃えるんだそうだ。その性質を利用して蒸気を発生させる。用は蒸気船なのさ。とにかくその龍石がなくっちゃこの船は動かない。そして龍石ってのはそうそう採れる鉱石じゃないってことさ」


 そこまで言うと、もはやルウもブッカも何も言わなくなってしまった。そんなふたりを見てソビィはため息をつく。


「やれやれ。それじゃ僕はもう少し寝かせてもらうよ」


 ソビィが再び眠りにつき、ルウとブッカは甲板の上でぽつんと取り残された気分になってしまった。ふたりは無言でしばらく空を見上げていた。ブッカはちらとルウを見た。空を見上げるルウの表情は見えないが、その落胆ぶりは相当なものだ。時折漏れるため息からブッカはそれを察した。


 そこでブッカは、そんな浮かない気分をどうにかしてやろうと思い、とっておきの話題をルウに振ってみた。


「そういえば知ってるかい、きみ」


「なぁに?」


 ルウは面倒くさそうに返事する。


「朝ってね、昔は青かったんだぜ!」


 ブッカは得意げにルウを覗き見たが、その反応は芳しくない。


「あ、びっくりして声も出ないのかい? でもこれはトウリに聞いたんだからどうやら本当のことだぜ。本当の朝は青いんだ! それに青どころか赤や黄色や紫にもなるんだってさ。まったくおかしな話さ。だからぼくは聞いたのさ。じゃあなんで今の空は朝も夜も真っ暗なんだってね。そしたら学者先生お決まりの授業が始まっちゃったから、もうぼくはさっさと逃げだしたんだけどね」


 ブッカはそう言うと、はははと空笑いを飛ばしたがルウはといえば、


「ふぅん」


 と気のない返事を返しただけだった。いつものルウであれば、今の話に百の質問をぶつけるほどに喰らいついたであろう。しかし心ここにあらずのルウの耳にはブッカの話など入る余地はなかったようだ。ブッカはもうこりゃダメだと思い、不意の眠気に大あくびで応え、結局そのままグースカピーといびきをかきはじめた。

 ルウはひとり甲板をぐるりと回って船首から船を見てみた。月明かりに照らされた白鳥号は真っ白でとても美しい。


(ブッカがさっきとても大事な話をしていたようだけどなんだったっけ? 朝が青いとかなんとかって……変な話。空の色はいつだって黒よ。今の私の気持ちと同じ真っ黒よ!)


 ルウはまたふぅとため息をつく。そしてしばらくもやもやした気分を持て余していたが、やがてルウも甲板の上で眠ってしまった。



 がやがやとなんだか騒がしい物音がしてルウは目を覚ました。辺りにはもう誰もいなかった。すでにブッカもソビィも起きており、ドックの下でトウリや船大工達と談笑していた。ルウも甲板からトボトボ降りていく。


「やあおはよう、ルウ。今日は早起きしてきたんだね。ああ船のことかい。そのことなら心配はいらないだろう。雨が降ればまた湖に水が溜まる。そうすれば船はちゃんと浮かぶさ。それまでは気長に待つしかないさ。はっはっはっ。それにね、雨が降る前にやらなきゃいけないこともある」


 なんだ。まるで学者らしくもないことを言う。でも、やらなきゃいけないことってなんだろう? ルウは尋ねようとしたが、トウリはすぐに船大工に呼ばれ行ってしまった。

 やがてマルミからもカナンからも人々が続々と集まって来た。みんな今日で修理が終わることを知っているから張り切っている。ガグリの三兄弟も張り切って先頭を歩いている。


「ここ数日でずいぶん逞しくなったな」


 トウリが目を細めて三兄弟を見た。確かにあの三兄弟は見違えたようだった。船を引き揚げて以来、毎日朝一番にドックへやって来ては夜遅くまで黙々と修理を手伝っていた。今まで畑仕事ひとつ手伝ったことのない三人が、だ。船大工に言わせるとこの三人は、不器用だが一心に仕事に向かうため教え甲斐があるのだと言う。

 ルウもトウリの後ろから三兄弟を見る。その表情は自信に満ちたものだった。あの日怪物に怯えていた三人とは思えぬほどに。


「ちぇっみんな船が完成したって航海に出られやしないってわかってるのかな」


 ブッカが舌打ちまじりで呟いた。


「もうブッカたら、いつまでいじけてるの。しょうがないじゃないの。せめて今日は白鳥号の完成を祝いましょう」


 ルウはガグリの三兄弟を見たままわざと明るい声でそう言ったが、ブッカにはそれが空元気だってことくらいお見通しだった。



 結局今日は初日と同じくらいの人達が集まった。早速トウリが作業工程の説明を行う。


「……という訳で午後には作業終了を予定しています。みなさん頑張りましょう」


「おう」と応じる声の後に大きな拍手があがった。その拍手が鳴り止むのを待ってトウリは話を続けた。


「ところで白鳥号の修理は本日終わりを迎えますが、まだまだやらねばならない事があるのです。明日からはその作業に入ります。その作業とは、この大岩ガ浜に港を造ることです。これはもはや一大事業です。皆様のご協力がぜひとも必要であります。明日からも一層がんばりましょう!」


 トウリが力強くそう言うと、一瞬の間があって歓声が沸き起こった。今日で終わると思っていた祭りにはまだ続きがあったのだ。みんな大喜びだった。しかしルウにとっては心晴れる話ではなかった。


(先生の仰ったやらなきゃいけないことって、こういうことなのね……)


 でもよく考えたらそれはとっても大事なことだ。湖が元の姿に戻った時、港がなければ白鳥号に乗る事だって出来ないんだ。そう思うと、やっぱり大人はいろいろ考えてるんだなとルウはなんだか感心してしまった。まあそれでも心は晴れなかったが……

 その後、網元の頭領から挨拶があった。そして最後に頭領の女将が気合いをいれる。


「仕事が終わったら今日も宴会だよっ」


 大きな拍手の後にそれぞれが仕事に向かう。ルウは女達と一緒に即席のかまどに向かった。









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