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第二話 死神の勇者


 悪魔と契約し、痛みのない身体を手に入れた。


 これでもう戦える。


 そう思ったフィオナだったが──すぐに、一つの問題に気がついた。


「…………」


 フィオナは自分の手を見つめた。


 刺針病(ししんびょう)は、治っていない。


 痛みを感じなくなっただけだ。


 今も自分の身体の中には、刺針病が存在している。


 そして刺針病は、感染する。


「……困った」


 これから魔物と戦う。


 そのための身体を手に入れた。


 けれど、その自分が誰かに刺針病を感染させてしまったら──


 考えるだけで恐ろしかった。


 契約によって、どれだけ傷を負っても血やその他の体液が身体の外へ出ないようにした。


 汗も出ない。


 それでも、万が一ということがある。


 そこでフィオナは気づいた。


「……唾液」


 入れ忘れた。


 契約の願いに、唾液を飛ばさないようにすることを入れていない。


 それに、咳とくしゃみも。


 痛みを感じなくなったからといって、刺針病そのものが治ったわけではない。


 咳やくしゃみをした拍子に、唾液が誰かへ飛んでしまうかもしれない。


「……そこまで考えてなかった」


 失敗したかもしれない。


 だが、すぐに別の考えが浮かんだ。


 そもそも、悪魔との契約など初めてだった。


 願ったことが、どのような形で叶えられるのかもわからなかった。


 もしも──


『唾液を外に出さず、咳もくしゃみもしない身体にして』


 ──などと願っていたら。


 唾液を飛ばさないどころか、口の中に唾液そのものが出なくなっていたのではないだろうか。


「…………」


 それは困る。


 食事をする時に、とても困る。


 咳やくしゃみも、身体に入った異物を外へ出すために起こるものだ。


 それを一切しなくなったら、どうなるのだろう。


 フィオナには、わからなかった。


 少なくとも、よくわからないまま願いに追加しなかったこと自体は、間違いではなかったのかもしれない。


 けれど、このまま誰かに感染させてしまうわけにもいかない。


 フィオナは自分の腹の上にいるヴァイオへ視線を向けた。


「……ヴァイオ」


「ん?」


「相談があるんだけど、なんかこう……唾液を飛ばさないようにする方法ってない?」


「ああ、あるぜ」


「……あるの?」


「おう」


 あっさりと返ってきた。


 それなら相談して正解だった。


 そう思ったところで──フィオナは、ふと疑問を覚えた。


「……ヴァイオ」


「なんだ?」


「なんで、刺針病のこと知ってるの?」


「ん?」


「それに……ヴァイオは大丈夫なの?」


 今もヴァイオはフィオナの腹の上に乗っている。


 刺針病は体液によって感染する。


 今のところヴァイオが自分の体液に触れたことはないはずだが、これからずっと一緒にいるのなら話は別だ。


「刺針病……感染しないの?」


「ああ。しねぇぜ?」


 ヴァイオは何でもないことのように答えた。


「俺様たち悪魔には、そもそも病気にかかるって概念がねぇんだ」


「……病気にならない?」


「おう。ついでに天使もな」


「…………」


 フィオナにとっては初めて聞く話だった。


「それとな、俺様はお前様と契約するまで、人間界で二百五十年も契約者を探し続けてたんだ」


「……二百五十年?」


「ああ」


 さらりと言われた数字に、フィオナは少し驚いた。


「だから、この二百五十年に人間界で起きたことなら、おおよそのことは把握してる。刺針病も、ここ最近流行りだした病だよな」


「……うん」


「だから、まあ、俺様からしたら、人間たちにとって非常に厄介な病だなー、ぐらいの感覚だな」


「……そうなんだ」


「……っと、お前様の唾液を飛ばさないようにするって話だったか」


 ヴァイオはそう言うと、フィオナの腹の上から飛び降りた。


「?」


 フィオナが身体を起こし、その様子を見つめる。


 するとヴァイオは、何かの言葉を唱え始めた。


 魔法の詠唱。


 フィオナがそう気づいた直後──


 ヴァイオの目の前に、黒い魔法陣が現れた。


「…………」


 黒い光を放つ魔法陣へ、ヴァイオが嘴を向ける。


 そして、その中から──


 黒い魔法陣の中から、一つの仮面がゆっくりと姿を現した。


「……仮面?」


 フィオナはそれを見つめる。


 白い仮面だった。


 人間の頭蓋骨を模した、骸骨の仮面。


 額から頬へとなだらかに続く白い骨の造形。


 目元には深く窪んだ眼窩があり、鼻の部分は削ぎ落とされたように黒く開いている。


 口元には、並んだ歯まで細かく形作られていた。


 そして何より目を引くのは──その両目から流れ落ちるように描かれた、赤い血の涙の模様だった。


 白い骨の上を、まるで骸骨そのものが血の涙を流しているかのように、赤い筋が頬へと伸びている。


 白という色とは裏腹に、死を連想させる不気味な仮面。


 ヴァイオはそれをフィオナへ差し出した。


「これなら口元まで全部隠せる。お前様が喋ったり、咳やくしゃみをしたりしても、唾が他の奴に飛ぶのをかなり防げるだろ」


「…………」


 フィオナは骸骨の仮面を受け取った。


 骸骨の仮面。


 その顔は、なんだか怒っているように見えた。


 深く窪んだ眼窩。


 剥き出しになった歯。


 見る者を睨みつけるような、恐ろしい顔。


 そして、その目元からは──血の涙のような赤い模様が流れている。


 まるで、痛みで泣いているように見えた。


「…………」


 怒っていて、痛くて──泣いている。


 それは、まるで──


「……私みたい」


 フィオナは小さく呟いた。


 そして、もう一度その仮面を眺める。


 骸骨の仮面。


 痛みで泣いていて、怒っている。


 その姿から、なんとなくだが──フィオナは死神を連想した。


「……死神」


 これから自分は、魔王を倒す。


 魔物を滅ぼす。


 そして、刺針病をこの世界からなくす。


 そのために、悪魔と契約した。


 そして自分は──勇者だ。


 人間にとって勇者とは、人々を救う存在なのだろう。


 けれど──魔王や魔物から見れば?


「…………」


 勇者は、魔王を倒す。


 魔物を倒す。


 彼らに死を運ぶ存在。


 なら──


 魔王や魔物にとって、勇者とは──


「……死神そのもの」


 フィオナは、手の中の骸骨の仮面を見つめながら呟いた。


 すると、その言葉を聞いていたヴァイオが声を上げる。


「お、だったらこんなのもあるぜ」


「……?」


 ヴァイオが再び魔法を詠唱する。


 その目の前に、先ほどと同じ黒い魔法陣が浮かび上がった。


 そして──


「…………」


 フィオナが見ている前で、魔法陣の中から次々と何かが出てくる。


 一着。


 また一着。


 さらに一着。


 服だった。


 形も色も異なる、様々な服が次々と現れ、フィオナの前に並べられていく。


「好きなの選べ。お前様に似合いそうなのもあると思うぜ」


「……いっぱい」


 フィオナが目の前に並んだ服を眺めていると、ヴァイオが得意げに口を開いた。


「ただの服じゃねぇぜ?」


「……?」


「これはな、創ぞ……」


 ヴァイオの言葉が、不自然に止まった。


「…………」


「……俺様の知り合いが創った服だ」


「……知り合い?」


「おう。それでな、こいつはなんと──切り刻まれても勝手に直る」


「……直る?」


「ああ。燃やされても燃えねぇ。どれだけ汚れても、勝手に綺麗になって元通りだ」


 フィオナは並べられた服へ、もう一度視線を向けた。


「……全部?」


「全部だぜ」


 ヴァイオは当然のように答えた。


「ここにある服、全部な」


 フィオナにとって、それは朗報だった。


 傷を負っても血やその他の体液が身体の外へ出ない。


 汗も出ない。


 けれど、それでも万が一ということはある。


 もし何らかの理由で体液が服に付着してしまえば、その服そのものが刺針病を広げる原因になりかねない。


 だが、汚れても勝手に綺麗になる服なら──その心配もなくなる。


「……これ、いい」


 フィオナが呟くと、ヴァイオが楽しそうに続けた。


「服だけじゃねぇぜ?」


「……?」


 再び黒い魔法陣へ向き直る。


 その中からヴァイオが次々と取り出したのは──


 手袋。


 そして、ブーツ。


「…………」


「こういうのもあるぜ」


 フィオナはそれらを見つめた。


 仮面で顔を覆う。


 手袋で手を覆う。


 ブーツで足を覆う。


 そして、身体は服で覆う。


 これなら──


 自分の身体を、ほとんど外へ晒さずに済む。


「こいつらも服と同じだ。燃えねぇし、切り刻まれても勝手に直る。汚れたって、すぐ元通りになるぜ」


「……すごい」


 フィオナは、ヴァイオが取り出したものを一つずつ眺めていく。


 様々な服。


 手袋。


 ブーツ。


 どれも普通の衣服ではない。


 これなら身体を覆いながら戦える。


 万が一、何かが起きても、刺針病を誰かに広げてしまう危険を極限まで減らせる。


「…………」


 フィオナは、ふと自分の手元へ視線を落とした。


 そこには、先ほどヴァイオから受け取った骸骨の仮面がある。


 怒っているような骸骨。


 痛みで泣いているような、赤い血の涙。


 それを見つめているうちに──


 一つの考えが浮かんだ。


 自分は勇者だ。


 これから魔王を倒し、魔物を滅ぼす。


 なら、自分が──


 魔王や魔物にとって、死を運ぶ存在になればいい。


 人間にとっての勇者ではなく──


 魔王や魔物から見た──死神に。


 そう考えながら、フィオナはヴァイオが取り出した服を一着ずつ眺めていく。


「…………」


 やがて、その視線が一着の服で止まった。


 黒。


 ほとんど全てが、黒で統一された服だった。


 身体を覆う黒い衣服の上から、いくつもの革帯やベルトが重ねられている。


 その上には、足元近くまで届く長い外套。


 裾は幾重にも重なり、不揃いに裂けたような形をしていた。


 さらに、頭まで深く覆うことのできる大きなフードが付いている。


 肌をほとんど外へ晒さない。


 先ほどの骸骨の仮面とも、よく合いそうだった。


「……これ」


 フィオナは、その黒い服を手に取った。


 続いて、並べられていたものの中から黒い手袋を選ぶ。


 手首までではなく、その先までしっかりと覆えるもの。


 そして最後に、頑丈そうな黒いブーツ。


 全て、黒。


「これにする」


 フィオナは選んだ服と、手袋、ブーツ。


 そして──手元にある白い骸骨の仮面を見比べた。


「…………」


 黒い衣装に、白い骸骨の仮面。


 その目から流れる、血のように赤い涙。


「これなら、死神に見える」


「死神になりてぇのか?」


 ヴァイオの問いに、フィオナは顔を上げる。


「だって──」


 そして、当然のことのように続けた。


「魔物にとって、勇者って死神みたいなものでしょ?」


 ヴァイオは一瞬きょとんとして、それから楽しそうに笑った。


「……確かにな。かっこいいじゃねぇか」


「……うん」


 フィオナも、少しだけ気に入っていた。


「……あ」


 選んだ服を抱えたところで、フィオナはふと手を止めた。


「ヴァイオ」


「ん?」


「着替える場所がない」


「……ああ、そういやそうだな」


 ヴァイオは周囲を見回した。


 人の姿はないとはいえ、ここは川辺だ。


 いつ誰が通りかかるかわからない。


「ちょっと待ってろ」


 ヴァイオは黒い魔法陣へ頭を突っ込み、何やら探し始めた。


「確か、この辺に……お、あった」


 嘴で引っ張り出したのは、折り畳まれた布と、それを支えるための骨組みだった。


 ヴァイオが魔法を唱えると、それらがひとりでに組み上がっていく。


 ほどなくして、フィオナの前に小さな天幕が出来上がった。

 

 入り口の布を閉じれば、外から中は見えなくなる。


「これならいいだろ?」


「うん。ありがとう」


「それと、こっちも必要だな」


 続いてヴァイオが取り出したのは、下着の一式だった。


「こいつらも服と同じだ。切り刻まれても元に戻るし、汚れても勝手に綺麗になるぜ」


「……便利」


 フィオナは下着も受け取ると、選んだ衣服と一緒に抱え、天幕の中へ入った。


 入り口の布を閉じようとして、ふと振り返る。


「ヴァイオ、脱いだ服はどうすればいい?」


「そこに置いとけ。下着も全部な。あとで俺様が処理しておく」


「刺針病が感染するかもしれないから……」


「わかってる。外には残さねぇよ」


「……お願い」


 フィオナは頷き、入り口の布を閉じた。


 ヴァイオは天幕に背を向け、その前で待つことにした。


 しばらくして、布の向こうからフィオナの声がした。


「……着替えた」


「おう」


 入り口の布が開き、黒い衣服に身を包んだフィオナが出てきた。


 手袋も、ブーツも、身体によく合っている。

 

 腕を曲げても、足を動かしても、窮屈なところはなかった。


 最後に、白い骸骨の仮面を顔につけた。


「どうだ?」


「……動きやすい」


「そりゃよかった」


 ヴァイオはフィオナと入れ替わるように天幕へ入り、脱いだ衣服の傍らに黒い魔法陣を開いた。


 下着も含め、残されたものを一つずつ、その中へ放り込んでいく。


 やがて、何も残っていないことを確かめると、外へ出てきた。


「これでよし」


「ありがとう、ヴァイオ」


「気にすんな」


 ヴァイオが再び魔法を唱える。

 

 天幕はするすると折り畳まれ、骨組みと共に黒い魔法陣の中へ収まった。


 川辺には、着替えの痕跡も残らなかった。


 そこでヴァイオは──ふと気づいた。


「……あ」


「?」


 フィオナが視線を向ける。


「お前様、武器も欲しいか?」


「……武器?」


 フィオナは僅かに目を見開いた。


「……あるの?」


「あるぜ」


 ヴァイオはそう答えると、再び魔法を詠唱した。


 先程とは違う黒い魔法陣が現れ、その中から次々と武器が姿を現す。


 剣。


 大剣。


 槍。


 弓。


 短剣。


 斧。


 棍棒。


 そして、巨大な鎌。


 様々な種類の武器が、フィオナの前に並べられていった。


「…………」


 フィオナはその中から、まず一本の剣を手に取った。


 父からずっと教わってきた。


 自分にとって、最も馴染みのある武器。


 だから当然のように剣を選んだのだが──


「……重い」


 フィオナは両手で剣を握ったまま、震える腕を見つめた。


 持つだけで精一杯だった。


 これでは、振ることなどできない。


「……これじゃ、戦えない」


 剣を置き、フィオナは少し途方に暮れた。


 せっかく悪魔と契約した。


 どんな傷を負っても瞬時に治り、死ぬこともない身体を手に入れた。


 痛みだって、もう感じずに済む。


 それなのに──肝心の武器を振るう力がない。


「まあ、そうだよな」


 ヴァイオも剣とフィオナを見比べる。


「痛みがなくなって、傷が治る身体にはなったが、刺針病で衰えた筋肉まで元に戻ったわけじゃねぇもんな」


「……うん」


「…………」


 そこでヴァイオは何かを思い出したように、並べた武器へ視線を向けた。


「そういや──面白いもんがあるぜ」


「……面白いもの?」


「ああ。ちょっと特別なやつだ」


 ヴァイオはそう言って、再び黒い魔法陣を展開する。


「まあ、さっき言った俺様の知り合いが、趣味で創った──生きてる武器だ」


「…………?」


 フィオナには、言われた意味がわからなかった。


 武器は道具だ。


 剣も、槍も、弓も、生きているはずがない。


「生きてる……武器?」


「見ればわかる」


 ヴァイオがそう言った直後──


 黒い魔法陣の中から、ゆっくりと巨大なものが姿を現した。


 長い柄。


 その先端から大きく湾曲して伸びる、巨大な刃。


 それは──


 一振りの、大鎌だった。


 ヴァイオはそれを嘴で軽々と持ち上げ、フィオナの前へ置いた。


 だが、その姿はフィオナが想像していた大鎌とは少し違っていた。


「……?」


 巨大な刃はある。


 よく見ると、柄は刃の付け根から折り畳まれ、刃に沿うように収められていた。


 そして、その付け根には──


「…………」


 ──何かがある。


 細長い線のような、不思議なもの。


 装飾なのか。


 それとも、この武器に必要な何かなのか。


 閉じられたままのそれを見ても、フィオナには何なのかわからなかった。


 ただ──普通の大鎌ではない。


 それだけは、一目でわかった。


「起きろ、血吸鎌啜(ちすいがますすり)」


 ヴァイオが、大鎌へ向かってそう呼びかけた。


 その言葉と同時に──


 大鎌の刃の付け根にあった、閉じられた何かが──ゆっくりと、開いた。


「…………」


 それはまるで──


 眠りから目を覚ました生き物が、瞼を開くように──


 ゆっくりと──


 確かに──開いた。


 そして、開いたそれを見て、フィオナはようやく理解した。


 ──目だ。


 だが、人間のものとは似ても似つかない。


 刃の付け根に直接埋め込まれたような、異様に生々しい眼球。


 湿った光沢を帯びた眼球の周囲には、赤黒い肉のようなものがまとわりつき、細かな血管が幾筋も浮かんでいる。


 白目は濁り、ところどころ赤く充血していた。


 その中心にある瞳孔だけが、不自然なほど黒く深い。


「…………」


 その眼球が、ぎょろりと動いた。


 右へ。


 左へ。


 まるで周囲の状況を確かめるように、ぎょろぎょろと忙しなく動き回る。


 やがて──ぴたりと止まった。


 ヴァイオを見ている。


 そして次の瞬間──


 ぐるりと眼球が動き、今度は──フィオナを見た。


「ヴァイオ、この大鎌は一体?」


 フィオナは、自分を見つめている眼球から目を離さずに尋ねた。


「こいつは、血吸鎌啜。生きてる武器だ」


「生きてる、武器……」


「ああ。こいつはな、この血吸鎌啜が認めた者には、一切重量を感じさせなくしてくれる武器だ」


 ヴァイオは大鎌を示しながら続ける。


「ただし、認められないなら物凄く重くなる。ま、今のお前様なら間違いなく持ち上げられないぐらいには重くなるな」


「…………」


 フィオナは、もう一度血吸鎌啜を見る。


 そういえば、ヴァイオはこの大鎌を軽々と持ち上げていた。


 認められていない者には物凄く重くなるというのなら、ヴァイオも、この大鎌に認められているのだろう。


 その間も、刃の付け根にある眼球は、じっとフィオナを見つめていた。


 フィオナは、血吸鎌啜へそっと手を伸ばした。


 そして、巨大な刃に優しく触れる。


「…………」


 血吸鎌啜。


 変わった名前だ。


 けれど、その名前から考えるなら──


 この大鎌は、血が好きなのだろうか。


 フィオナは、自分を見つめ続けているその目を見つめ返した。


 生きている武器。


 ならば、言葉を理解することもできるのかもしれない。


 フィオナは血吸鎌啜を優しく撫でながら、静かに語りかけた。


「血をたくさん、あなたの為に集めてあげる」


 これから、自分は魔物を倒す。


 そのために戦う。


「だから、わたしと一緒に……魔物を狩ろう?」


 フィオナは、血吸鎌啜に優しく触れながらそう語りかけた。


 すると──


 血吸鎌啜の目が、大きく見開かれた。


「……?」


 フィオナが首を傾げる。


 その目は、まっすぐフィオナを見つめている。


 先ほどまで周囲をぎょろぎょろと見回していた目が、もうヴァイオを見ることもない。


 ただひたすら──フィオナだけを見ていた。


 やがて、その目がゆっくりと細められる。


 どこか嬉しそうに──


 フィオナには知る由もなかったが──


 血吸鎌啜は、この少女を一目で気に入ってしまったらしい。


「お前様、気に入られたみてぇだな」


「……そうなの?」


「ああ。持ってみろ」


「……うん」


 フィオナは血吸鎌啜を見る。


「……持つね」


 なぜか一言断ってから、刃に沿って折り畳まれている柄へ手を伸ばした。


 柄を掴み、折り畳まれていたそれを自分の手で展開していく。


 そして、両手で握った。


「…………」


 持ち上げる。


「……あ」


 上がった。


 先ほどの剣とは比べものにならないほど巨大な大鎌が──


 あまりにも簡単に──


 フィオナの細い腕で、何の苦もなく持ち上がった。


「……軽い」


 いや──


 軽いというのも少し違う。


「……重くない」


 ほとんど、重量そのものを感じない。


 フィオナは不思議そうに巨大な大鎌を見上げる。


 血吸鎌啜の目は、そんなフィオナを嬉しそうに見つめていた。


「認められたってことだ」


 ヴァイオの言葉に、フィオナは少しだけ目を見開いた。


「……私を?」


「ああ」


「…………」


 フィオナはもう一度、血吸鎌啜の目を見る。


 そして、小さく微笑んだ。


「……ありがとう」


 血吸鎌啜の目が、嬉しそうに細くなった。


「……でも」


 フィオナが、ふと思ったように呟いた。


 手にした大鎌を見上げる。


「血吸鎌啜……」


 口に出してみる。


「……名前、長い。少し、言いづらい」


 その瞬間──


 血吸鎌啜の目が、しゅん、とした。


「…………」


 フィオナにも、それがわかった。


 明らかに落ち込んでいる。


 生きている武器。


 どうやら本当に、感情まであるらしい。


 フィオナは少し考えてから、血吸鎌啜の目を見つめた。


「……ちーちゃん、って呼ぶね?」


 その瞬間だった。


 しゅん、としていた血吸鎌啜の目が、ぱっと大きく見開かれた。


 先ほどまでの落ち込みが嘘のように。


 嬉しそうに──


 喜んでいるように見えた。


「……気に入った?」


 血吸鎌啜──ちーちゃんの目が、嬉しそうに細められた。


 フィオナは、手にした血吸鎌啜を改めて見上げた。


「…………」


 自分の身体よりも遥かに大きな武器。


 見た目だけなら、先ほど持ち上げることすらできなかった剣より、ずっと重そうだった。


 それなのに──


「……本当に、重くない」


 両手で柄を握る。


 そして、周囲に誰もいないことを確認してから──


 試しに、横へ振ってみた。


 ──ブンッ!


「……!」


 巨大な刃が、勢いよく空を切った。


 振れる。


 腕に重さがかからない。


 今度は反対へ。


 ──ブンッ!


「…………」


 フィオナは少し楽しくなってきた。


 もう一度、今度は身体ごと回すように、大鎌を振る。


 ──ブオンッ!


「……すごい」


 剣一本すらまともに持てなかった自分が、こんなに巨大な武器を振り回している。


 血吸鎌啜の目も、どこか嬉しそうだった。


 ただ──


「……使い方は、わからない」


 振ることはできる。


 だが、大鎌を武器として扱う方法など習ったことがない。


 フィオナが教わったのは、剣だった。


「…………」


 その時──手にしている血吸鎌啜から、何かを感じた。


 声が聞こえたわけではない。


 言葉でもない。


 けれど──確かに、意思のようなものが伝わってくる。


「……?」


 フィオナは血吸鎌啜の目を見る。


 そして、なんとなくその意思を受け取った。


(……振れってこと?)


 もう一度、柄を握り直す。


 そして──血吸鎌啜を振った。


「……!」


 その瞬間──


 フィオナの手が動いた。


 横薙ぎ──そこから刃を返し、身体を回転させながら斜めに振り上げる。


 長い柄を滑らせるように持ち替え、巨大な刃を身体の周囲へ巡らせる。


 まるで何年も大鎌を使い続けてきた熟練者のように──


 無駄がない。


 迷いもない。


 巨大な刃が、次々と空を切っていく。


「…………!」


 フィオナ自身が、一番驚いていた。


 こんな動きは知らない。


 習ったこともない。


 どう身体を動かせばいいのかさえ、わからない。


 それなのに──


 手が──


 腕が──


 血吸鎌啜の動きに合わせるように、勝手に追従している。


 ──違う。


 フィオナが、血吸鎌啜を振っているのではない。


 血吸鎌啜が、フィオナの手を使って自分自身を振るっている。


「……ちーちゃん?」


 大鎌の目が、楽しそうにフィオナを見ていた。


「すげぇだろ?」


 その様子を見ていたヴァイオが、得意げに言った。


「本当に生きてるんだぜ?」


「……うん」


 今の動きを体験したばかりのフィオナには、もう疑う理由などなかった。


「食料は血だな。血が大好物だ」


「……血」


「ああ。それにちゃんと意志もある。まあ、喋ることはできねぇが……」


 ヴァイオは、ちーちゃんの目を見る。


「あと、睡眠もとる」


「……寝るの?」


「寝るぜ」


「…………」


 フィオナは手の中の血吸鎌啜を見つめた。


 血を食べて、自分の意志を持って、眠る。


 武器というより、本当に一つの生き物のようだった。


「まあ、言うまでもねぇが」


 ヴァイオは付け加える。


「生きてるからといって、血吸鎌啜にも刺針病は感染しねぇぜ」


「……そうなの?」


「ああ。こいつは血を喰うために創られた武器だからな」


「…………」


 フィオナは、血吸鎌啜の目を見る。


 血が大好物。


 そして、自分はこれから魔物を狩る。


 ならば──


「……よかった」


 自分の病気を、この子に感染させてしまう心配もない。


 フィオナは安心したように、血吸鎌啜の刃を優しく撫でた。


「あと、一応言っておくが、血が足りなくて飢え死にするとかはないぜ?」


「……そうなの?」


「ああ。まあ──」


 ヴァイオは血吸鎌啜へ視線を向けると、ケラケラと笑った。


「武器が飢え死ぬとか、意味がわからねぇもんな」


「…………」


 生きている武器。


 血を食べる。


 眠りもする。


 けれど、食べなくても死なない。


 フィオナは少し考えてから、血吸鎌啜を見た。


「……でも、好きならあげる」


 血吸鎌啜の目が、嬉しそうに細くなる。


 ──その時だった。


「──フィオナお嬢様!」


 遠くから──聞き慣れた声が、川辺に響いた。


「……?」


 フィオナが声のした方へ振り返る。


 そこには、息を切らしながらこちらへ駆けてくるセルカの姿があった。


 セルカはフィオナを探していた。


 部屋から姿を消したフィオナを──


 身体を動かすことさえ苦痛で、ほとんど寝台から離れることのできなかったフィオナを──


 どこへ行ったのか。


 必死に探し回り──ふと思い出したのだ。


 フィオナが昔、好きだった場所。


 人のほとんど訪れない、この川辺を。


 そして──ようやく見つけた。


「フィオナお嬢──」


 駆け寄ろうとしたセルカの足が、一瞬止まった。


「……っ!?」


 ぎょっと目を見開く。


 川辺に立っていたのは、一瞬──死神かと思うような姿だった。


 全身を覆う、黒い衣装。


 顔には、人間の頭蓋骨を模した白い仮面。


 その両目からは、血の涙のような赤い模様が流れている。


 そして手には、小柄な身体にはあまりにも不釣り合いな巨大な大鎌。


「…………」


 だが、フードは被っていない。


 骸骨の仮面の周囲から見える黒い髪。


 その髪を、セルカが見間違えるはずがなかった。


「……フィオナ、お嬢様?」


「……セルカ」


 間違いない。


 フィオナだった。


 しかも──立っている。


 誰かに支えられているわけでもない。


 しっかりと自分の両足で、川辺に立っている。


 そのすぐそばには、一羽の黒いカラスまでいる。


「…………」


 何が起きているのか。


 まるでわからない。


 服も、仮面も、巨大な大鎌も、そばにいるカラスも──


 何一つ状況を理解できない。


 けれど──


「……よかった……」


 セルカの口から、震える声が漏れた。


 今は、それでよかった。


 フィオナがいた。


 生きていた。


 無事だった。


 それがわかっただけで──今は、十分だった。


 そんなセルカを眺めていたヴァイオが、ふとフィオナへ顔を向ける。


「フィオナ、こいつは?」


「…………」


 フィオナのそばにいるカラスが──喋った。


 セルカの表情が固まった。


「…………え?」


 目を見開き、口を開き──


 何かを言おうとして、声が出ない。


 口だけを何度かパクパクと動かしてから──


「カ、カカカカラスが、しゃ、喋った!?」


 ようやく出てきた声は、盛大に裏返っていた。


「…………」


 フィオナは、そんなセルカを見て苦笑する。


 無理もない。


 自分だって、最初にヴァイオが喋った時は驚いたのだから。


 それからフィオナは、ヴァイオの問いに答えた。


「私のことを世話してくれてる人」


 セルカは、まるで状況が理解できなかった。


 フィオナが自分の足で立っている。


 見たこともない黒い衣装を身に纏い、骸骨の仮面をつけ、巨大な大鎌を持っている。


 そのうえ、そばにいたカラスが人間の言葉を喋った。


 何から聞けばいいのかすらわからない。


「……フィオナお嬢様、一体何が?」


「…………」


 フィオナはすぐには答えなかった。


 少し考えてから、隣にいるヴァイオへ顔を向ける。


「契約内容って、他人に言ってもいいの?」


「ああ、好きにしていいぜ?」


 ヴァイオはあっさりと答えた。


「俺様の正体も喋っていい。どうするかはお前様に任せる」


「……わかった」


 それだけ言うと、ヴァイオはフィオナとセルカを交互に見る。


 それ以上、口を挟むつもりはないらしい。


 二人がどうするのか。


 ただ見守るように、その場にいる。


 フィオナはセルカへ向き直った。


「……セルカ」


「はい」


 そして──口を開いた。


「私は、このカラス……悪魔と契約した」


「悪魔!?……契……約……?」


「うん」


 フィオナの血のように赤い瞳が、目元の開いた骸骨の仮面越しにセルカを見つめる。


「私は、魔王も、魔物も、刺針病も、全部滅ぼしたい。その為に、戦える身体を悪魔に願った」


「……っ」


 その言葉に、セルカは目を見開いた。


 悪魔との契約。


 それだけでも到底すぐには受け入れられない話だった。


 けれど──


 目の前にいるフィオナが、その言葉が嘘ではないことを何よりも証明していた。


 昨日まで、身体を動かすことさえ苦痛だった少女が──今は自分の足で、しっかりと立っている。


 フィオナは続ける。


「私は、許せない。魔王も、魔物も……」


 静かな声だった。


 けれど、その言葉にははっきりとした怒りが込められていた。


「だから私は、これから各地を巡って──」


 巨大な大鎌を握ったまま──フィオナはセルカへ告げた。


「魔王と魔物を、殺しにいく」


 セルカは、まだ目の前の状況に頭が追いついていなかった。


 悪魔。


 契約。


 戦える身体。


 そして、魔王と魔物を殺しにいくというフィオナ。


「…………」


 一度、目を閉じる。


 混乱したままでは駄目だ。


 今聞いたことを、一つずつ頭の中で整理する。


 フィオナは悪魔と契約した。


 その契約によって、戦える身体を手に入れた。


 だから、あれほど苦しんでいたフィオナが今、自分の足で立っている。


 ならば──


 セルカはゆっくりと目を開いた。


「その、お嬢様」


「……なに?」


「契約した内容、は?」


「…………」


 フィオナは少し考えてから答える。


「どんな傷や怪我をしても、致命傷でも、身体が一瞬で治る」


「……はい」


「私が望まない限り、死なない。年も取らない」


「…………え?」


 早くもセルカの表情が固まりかけたが、フィオナはそのまま続けた。


「それから、痛みを感じるかどうかを、自分で決められる」


「……痛みを?」


「うん。今は、感じないようにしてる」


「…………」


 セルカの目が大きく見開かれた。


 一年間、ずっと──


 眠っている時以外、一瞬たりともフィオナから離れることのなかった痛み。


 それを──今は感じていない。


 フィオナはさらに続ける。


「怪我をしても、血や他の体液は身体の外に一切出ない。汗も出ないようにしてもらった」


「それは……刺針病を……」


「……他の人に感染させないため」


 フィオナは頷いた。


「刺針病そのものは、治ってない。私の身体の中には、まだある」


「…………」


「だから、この仮面もしてる。唾液が他の人に飛ばないように……」


 白い骸骨の仮面へ、フィオナは軽く触れた。


「これが、私が悪魔に願ったこと。それと、契約の代償は……私の魂」


「……魂?」


 セルカの表情が強張った。


「私が人生を終えた時に、ヴァイオが私の魂を食べる。それが、願いを叶えてもらう代わりに渡すもの」


「……お嬢様の、魂を……」


「うん。今すぐじゃない。生きている間に、勝手に奪われることもない」


 フィオナは、セルカをまっすぐ見つめた。


「契約する前に、ちゃんと説明してもらった。後悔しないかも、聞かれた」


「…………」


「その上で、私が決めたの」


 セルカは言葉を失った。


 痛みを感じず、自分の足で立っているフィオナ。


 その姿がどれほど嬉しくても、差し出したものの重さを知れば、胸が締め付けられる。


 けれど、契約する前のフィオナが、どれほど苦しんでいたのかも知っていた。


「……そう、でしたか」


 ようやく、それだけを口にした。


 セルカはそれ以上、何も言えなかった。


 ただ強く印象に残ったのは──


 フィオナが手に入れたのは、単純に強い身体ではない。


 どれほど傷ついても戦い続けられる身体だった。


 そこで、セルカは一つの疑問を抱いた。


「あの、お嬢様……」


「なに?」


「なぜ、契約した時に……ご自身の刺針病を治さなかったのですか?」


「…………」


 それは、もっともな疑問だった。


 そこまでの願いを叶えられるのなら──


 そもそも刺針病そのものを治してもらえばよかったのではないか。


 フィオナは少しの間、黙ってセルカを見つめた。


 そして──答えた。


「魔物に、私と同じ痛みと苦しみを与える為に残した」


「……え?」


「人には絶対に感染させないようにする」


 仮面の奥──血のように赤い瞳が、セルカをまっすぐに見つめる。


「でも、魔物には感染させてやる」


「…………」


「私のこの地獄のような苦痛を……与えるため」


 セルカは、心底驚いた。


「……フィオナ、お嬢様……」


 かつてのフィオナなら──


 病に侵される前の、明るく笑っていた少女なら──


 こんなことを口にしただろうか。


 そして、刺針病に侵されてからのフィオナは──こんな言葉を口にする力さえ失っていた。


 痛い。


 ただ、それだけで──


 息をすることも、食事をすることも、言葉を発することも、身体を動かすことさえ苦痛で、日に日に言葉を失い、寝台の上で衰弱していく。


 そんなフィオナを、セルカは一年間ずっとそばで見てきた。


 けれど──今、目の前にいるフィオナは違う。


 自分の足で立っている。


 巨大な大鎌を握り──これから自分が何をするのかを、自分の意思ではっきりと語っている。


 衰弱しきっていたフィオナは、もういなかった。


 その代わりにそこにいたのは──魔王と魔物に対して、凄まじい怒りと憎しみを抱いた少女だった。


「…………」


 セルカには、その怒りを否定することなどできなかった。


 一年間、フィオナは味わい続けたのだ。


 全身を無数の針で絶え間なく刺され続けるような激痛を──


 朝も、昼も、夜も、目を覚ましている限り、終わることのない苦痛を──


 死を望むほどの──地獄を──


 その一年が──今、セルカの目の前にいるフィオナを作ったのだ。


 セルカは、フィオナの言葉を聞き終えると、再び目を閉じた。


「…………」


 しばらく、そのまま考える。


 悪魔との契約。


 フィオナが手に入れた身体。


 刺針病を残した理由。


 そして──これから、魔王と魔物を倒すために旅へ出るということ。


 やがて──


 セルカはゆっくりと目を開いた。


「……わかりました」


「……?」


「これから、魔王や魔物をどうにかするために、各地を巡るんですね?」


「うん」


「なら……」


 セルカは一度言葉を切った。


 そして、決意したようにフィオナをまっすぐ見つめる。


「なら、私もお嬢様についていきます」


「……え?」


 フィオナが目を見開いた。


 そんな返事が来るとは、まったく予想していなかった。


 セルカは驚いているフィオナへ、柔らかく微笑む。


「だってお嬢様……魔王や魔物をどうにかするために各地を巡るのは良いのですが……」


 そこで少し困ったような顔をした。


「その間の生活は?」


「…………」


 フィオナが黙った。


「それに、お嬢様の刺針病はそのままなんですよね?」


「……うん」


「でしたら──」


 セルカは、今度は少し呆れたような、それでいて心配そうな表情を浮かべる。


「お嬢様お一人で、とてもではないですが生活できるとは思えないんですよね……」


「…………」


 魔王を倒す。


 魔物を滅ぼす。


 刺針病も滅ぼす。


 そこまでは考えた。


 だが──そのために旅をしている間、自分がどう生活するのか。


 フィオナは──そこまで考えていなかった。


「でも、いいの?」


 フィオナはセルカを見つめる。


「危険な旅になるよ?」


 魔王を倒すための旅だ。


 当然、魔物とも戦うことになる。


 何が起こるかわからない。


 それでも──セルカは迷わなかった。


「お嬢様が安心して生活できるようにするのが、私の役目です」


「…………」


 フィオナは、その言葉を聞いて目を閉じた。


 自分一人では、旅をしながら生活することすら難しい。


 それはセルカの言う通りだった。


 そして何より──ついてきてくれる。


 そう言ってくれたことが、嬉しかった。


 フィオナは目を開く。


「ありがとう、セルカ。一緒に来てくれると、助かる」


「いいえ」


 セルカは笑顔で答えた。


 そして今度は、フィオナのそばにいる黒いカラスへ視線を向ける。


「あの……悪魔さん?」


「俺様の名前はヴァイオだ」


「あ……失礼しました。私はセルカ・ナーエと申します」


 セルカは改めてヴァイオを見る。


「ヴァイオさん」


「あん?」


「フィオナお嬢様のこと──ありがとうございます」


「…………」


 ヴァイオが目を丸くした。


 まさか人間から礼を言われるとは思っていなかったのだろう。


「おいおい……」


 ヴァイオは呆れたように言う。


「俺様は契約が満了したら、こいつの魂を喰っちまうんだぜ?」


 悪魔と人間の契約。


 願いを叶えた、その代償。


「それでも感謝するのか?」


 セルカは──迷わなかった。


「はい。それでもです」


 はっきりと答えた。


 その答えを聞いて、ヴァイオはしばらくセルカを見つめていた。


「…………」


 それから、隣にいるフィオナへ視線を向ける。


「……おもしれぇのは、どうやらお前様だけじゃねぇみたいだな」


「……?」


 フィオナは小さく首を傾げた。


 そんなフィオナと、その隣に立つセルカを見ながら、ヴァイオは楽しそうに笑った。


「あと、もう一人? ……一体? 紹介するね」


「一体……?」


 フィオナはそう言うと、手にしていた大鎌をセルカへ見せた。


「血吸鎌啜っていう、生きてる武器。ヴァイオから貰った」


「生きてる……武器、ですか?」


「うん。名前が長いから、ちーちゃんって呼んでる」


「…………」


 セルカは、フィオナが見せた血吸鎌啜──ちーちゃんを見つめた。


 巨大な刃。


 そして、その付け根にある生々しい目。


 その目が──じーっとセルカを見つめている。


「…………」


「…………」


 見つめ合う、人間と大鎌。


 セルカはどうすればいいのかわからず、少し戸惑った。


 しかし、生きているというのなら──


 そして、これからフィオナと共に戦う相手だというのなら──


「私は、セルカ・ナーエと申します」


 セルカは姿勢を正した。


「フィオナお嬢様のお世話をしておりまして……これからも、お嬢様の旅に同行致します」


 そして──


「どうぞ、よろしくお願い致します」


 丁寧に、血吸鎌啜へ頭を下げた。


「…………」


 武器に向かって頭を下げる人。


 なんとも妙な光景だった。


 やがて、セルカがゆっくりと頭を上げる。


 血吸鎌啜は変わらず、セルカをじーっと見つめていた。


「…………」


 しばらくして──


 その目が、ゆっくりと細められた。


 まるで──


 ニコッと笑ったように見えた。


「……?」


 セルカが目を瞬く。


 どうやら──血吸鎌啜は、セルカのことも気に入ったようだった。


 そんな様子を見ていたヴァイオが、不意に口を開いた。


「ところで……」


「……?」


 フィオナがヴァイオを見る。


「これからどうするんだ? 早速、魔物を狩りに行くのか?」


「…………」


 フィオナは少し考え込んだ。


 魔王を倒す。


 魔物を倒す。


 そのために戦える身体を手に入れ、武器も手に入れた。


 けれど──その前に、まだやることがある。


「まだ、やることがある」


「あん?」


「指輪を取りに行かないと」


「指輪?」


「うん」


 フィオナは頷いた。


「勇者に関係する指輪が、五つあるの」


 ヴァイオは黙って続きを待つ。


「一つは、勇者の指輪。ヴァーミリオン家の血を引く人の中から、勇者になる人を選ぶ指輪」


「へぇ」


「私はもう、その指輪に選ばれてる。お父様が死んだから……今の勇者は、私」


 そしてフィオナは続ける。


「残りの四つは、勇者と一緒に戦う人を選ぶ指輪」


「仲間を選ぶのか?」


「うん」


 最強の剣。


 最強の魔術師。


 最強の軍勢。


 最強の弓兵。


 勇者と共に戦うにふさわしい四人を、それぞれの指輪が選ぶ。


「その人が同じ町にいると、指輪が反応する。どっちにいるのかも、なんとなくわかる。近づけば、もっと強く反応する」


「なるほどな。それで各地を巡りながら、そいつらも探すってわけか」


「うん」


 フィオナは小さく頷いた。


「一人で魔王と戦うつもりはない。まず、四人を探す」


 勇者一人と──勇者に選ばれた、四人の仲間。


 五人が揃って初めて──勇者の一行となる。


「だから、その前に──」


 フィオナは自分が来た方角へ視線を向けた。


「家に戻って、五つの指輪を取りに行く」


「しかし、お嬢様……」


 セルカが、少し困ったようにフィオナを見る。


「指輪を取りに行くのも、おそらくですが……面倒になるかと」


「うん、わかってる」


 フィオナは短く答えた。


 そして、一度目を閉じる。


「…………」


 しばらく、そのまま考える。


 やがて考えが纏まったのか、フィオナはゆっくりと目を開いた。


「セルカ……」


「はい」


「これから私は、悪いことをする」


 フィオナはセルカをまっすぐに見つめる。


「それでも、いい?」


 セルカは迷わなかった。


「フィオナお嬢様のなされることなら、私は止めは致しません」


「……そう」


 フィオナは小さく頷く。


「ありがとう」


 そして、手にしていた血吸鎌啜へ目を向けた。


 柄を折り畳み、巨大な大鎌を背中へと装備する。


 どうやらヴァイオから貰ったこの服には、武器を背負えるような工夫まで施されているらしい。


 フィオナは背中に血吸鎌啜を収めると、今度はヴァイオを見る。


「ヴァイオ」


「あん?」


「最初の命令」


「はいよ」


 ヴァイオは、フィオナの次の言葉を待った。


「セルカは戦えない」


 フィオナはヴァイオへ言う。


「治癒魔法は使えるけど……今から私は、家に指輪を取りに行く」


「ああ」


「でも、セルカとは別行動を取るから……セルカを守って」


 それが──フィオナがヴァイオへ下した、最初の命令だった。


 ヴァイオは素直に頷く。


「わかったぜ」


 だが、そこでヴァイオはフィオナの姿を改めて眺めた。


「ところで、お前様……」


「?」


 フィオナはヴァイオの言葉の続きを待つ。


「その骸骨の仮面のまま行動するのか?」


「…………」


「俺様はかっこいいとは思うが、かなり目立つぜ?」


「…………」


 白い骸骨の仮面。


 そこに描かれた、血の涙。


 全身を覆う黒い服。


 そして背中には、折り畳まれた巨大な大鎌。


 どう考えても──目立つ。


「……確かに」


 フィオナは今さら気づいたように呟いた。


 この骸骨の仮面は──魔王や魔物にとって、死を運んでくる象徴にしたい。


 人間にまで恐れられるためのものではない。


 ならば、戦場以外ではつけるべきではないだろう。


「……ヴァイオ、他になにかない?」


「ああ、別の仮面か。ちょっと待ってな」


 ヴァイオは先ほどと同じように詠唱する。


 すると、再びヴァイオの前に黒い魔法陣が浮かび上がった。


 その中へ身体を突っ込み、何やら探し始める。


「これとか……いや、こっちもあるな」


 ヴァイオが次々と取り出していく。


 人の顔を模したもの。


 動物を模したもの。


 顔全体を覆うものから、目元だけを隠すものまで。


 様々な仮面やお面が、フィオナの前に並べられていった。


 フィオナは、ヴァイオが取り出した仮面やお面を一つずつ眺めていく。


「…………」


 その中で──ふと、一つのお面に目が止まった。


 白く、丸みを帯びた小さなお面。


 先ほどまでつけていた骸骨の仮面とは正反対と言っていいほど、柔らかな印象を受ける。


 形は、小さな雀の顔を模していた。


 ふっくらと丸みを帯びた輪郭に、小さなくちばし。


 余計な装飾もなく、どこか素朴で、かわいらしい。


 魔物へ死を運ぶ骸骨の仮面とは違う。


 人のいる場所でも、これなら必要以上に恐れられることはないだろう。


「…………」


 フィオナは、そのお面をじっと見つめた。


 刺針病で寝台から動けなかった頃。


 窓の外を眺めていると、部屋のバルコニーの手すりに、雀が止まっていることがあった。


 小さな足で、ちょんちょんと移動する。


 不意に首を傾げたり、羽を膨らませたり。


 何かに気づいたように飛び去ったかと思えば、別の日には何羽かでやって来ることもあった。


 フィオナは、寝台に横になったまま、その姿をよく眺めていた。


 今日は来るだろうか。


 もう少し、そこにいてくれないだろうか。


 部屋から出られない毎日の中で、雀を眺める時間は、楽しみの一つだった。


「……雀、好きなの」


 フィオナは小さく呟いた。


「ん?」


「部屋の外に、よく来てた。寝てる時、いつも見てたから」


 そう言って、雀のお面へ手を伸ばす。


 手に取ったそれは、あの小さな鳥と同じように、丸くて愛らしかった。


「……可愛い」


 フィオナはしばらくお面を眺めてから、ヴァイオへ告げた。


「これにする」


「お、いいじゃねぇか」


 ヴァイオは、フィオナが手に取った雀のお面を見つめ、満足そうに頷いた。


 フィオナが普段使いのお面を選び終えたのを確認すると、ヴァイオは取り出した他のお面や仮面を黒い魔法陣へ仕舞おうとする。


 カラスの姿のまま、一つのお面を嘴で咥え上げ──


「あの……」


「ん?」


 仕舞おうとしたところでセルカに声をかけられ、ヴァイオは嘴にお面を咥えたまま動きを止めた。


 ヴァイオは、お面を咥えたままセルカを見る。


「私も選んでよろしいでしょうか?」


「…………」


 ヴァイオは嘴に咥えていたお面をその場に置くと、あっさりと言った。


「俺様に決定権はねぇ。フィオナに聞きな」


「わかりました」


 セルカは頷くと、今度はフィオナへ向き直った。


「あの、お嬢様」


「なに?」


「私も仮面を選んでよろしいでしょうか?」


「セルカもつけたいの?」


 フィオナは少し意外そうにセルカへ尋ねた。


「はい。お嬢様とお揃いにしたくて」


「…………」


 フィオナはセルカを見つめ、それから小さく頷いた。


「まあ、いいんじゃない? ヴァイオ、お願い」


「はいよ」


 ヴァイオはセルカにも選びやすいよう、取り出したお面や仮面を見せる。


「…………」


 セルカは並んだそれらを、一つずつ眺めていく。


 そして──


「あ……」


 一つの仮面に目を留め、手に取った。


「これにします」


 それは、兎を模した桃色の仮面だった。


 全体的に丸みを帯びた造形で、頭の上には兎を象った二本の耳が伸びている。


 淡い桃色を基調としたその姿は、一目見れば可愛らしい。


 けれど──目元だけが、少し違った。


 目の形がわずかに吊り上がるように作られており、愛らしい兎の顔でありながら、どこかむっと怒っているようにも見える。


 可愛らしくて、少しだけ怒っている。


 そんな、不思議な表情をした桃色の兎の仮面だった。


「それにするんだ?」


 フィオナは、セルカが手に取った桃色の兎の仮面を見る。


「はい」


 セルカは仮面を両手に持ったまま、その少し怒っているような顔を見つめた。


「……私なりの、魔物や刺針病に対する気持ちもあります」


「…………」


 フィオナは何も言わず、セルカの手の中にある兎の仮面を見つめる。


 可愛らしい桃色の兎。


 けれど、その目元は怒っている。


 セルカも──怒っているのだ。


 フィオナを一年もの間苦しめ続けた刺針病に──


 それをもたらした魔物たちに──


「…………」


 そのことが──フィオナには、少し嬉しかった。


「もう、いいよな?」


 ヴァイオが二人へ確認する。


「はい。ありがとうございます。お嬢様、ヴァイオさん」


 セルカが丁寧に頭を下げる。


「はいよ」


 今度こそヴァイオは、取り出していたお面や仮面を次々と黒い魔法陣の中へ仕舞っていった。


 最後の一つが入ると、黒い魔法陣も静かに消えていった。


「さて、行くよ」


 フィオナはそう言うと、ヴァイオから貰った雀のお面を服の内側へ仕舞った。


 そして、セルカを見る。


「セルカ。早速だけど、その仮面つけて」


「……お嬢様?」


 セルカは手にしている桃色の兎の仮面と、フィオナの顔を交互に見る。


 どうして今からつける必要があるのだろう。


 疑問に思ったのは、ヴァイオも同じだった。


「おいおい、お前様……」


 ヴァイオがフィオナを見る。


「自分の家に戻るのに、その仮面のまま戻るのか?」


 フィオナが今つけているのは、普段使いに選んだ雀のお面ではない。


 白い骸骨の仮面。


 魔王や魔物へ死を運ぶ──戦う時につけると決めた仮面だ。


「…………」


 フィオナは二人を見る。


 そして──静かに告げた。


「今から向かうのは……戦場よ」

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