第一話 少女と悪魔
「行くんだね」
「……わざわざお見送りしてくれるのですか?」
「うん。だって、本当に久々に人間界に行こうとしている悪魔がいるんだからね」
少女はそう言って、楽しそうに笑った。
二人の周囲には、どこまでも赤黒い大地が広がっている。
遠くには、白を基調とした巨大な城。
その城へ向かって、肉体を持たない無数の魂が長い列を作り、その傍らでは異形の悪魔達が忙しなく働いていた。
死者が辿り着き、生前の行いを省み、再び生まれ変わる時を待つ場所。
──地獄。
その地獄と人間界を繋ぐ〝歪み〟を前に、一人の悪魔が立っていた。
「人間と契約するつもりなんでしょう?」
「ええ。そのつもりですぜ。まあ、俺様が契約したいと思える人間がいれば、ですがね」
「ふふ。そっか」
少女は嬉しそうに笑った。
「私はね、人間の可能性を見てみたいんだ。君がどんな人間を見つけて、どんな人間と契約するのか、楽しみにしてるよ」
「俺様も、人間の可能性ってやつが楽しみですぜ」
「うん──あ、そうだ」
少女は何かを思い出したように声を上げると、一つの宝玉を取り出した。
「これも持っていってよ」
「……なんですかい、そりゃ?」
「神器」
「神器?」
聞き覚えのない言葉に、悪魔が首を傾げる。
「私達が持っているものなんだけどね。永遠に、とても大きな力を供給し続けてくれる宝玉なんだ」
「……そんな大層なものを、俺様に?」
「うん。でも、君が使うものではなくてね……」
少女は手の中の神器へ視線を落とす。
「契約した人間に渡してもいいし、別の人間に渡してもいい。誰に渡すのかは君に任せる」
「随分と適当ですなぁ」
「そう?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「だって、私が決めたら面白くないでしょう?」
そして、神器を悪魔へ差し出した。
「私はこれを、人間がどう使うのか見てみたいんだ」
「……なるほど。わかりました。では、俺様が預かっておきますぜ」
「うん。お願いね」
悪魔は神器を受け取った。
「それじゃあ、そろそろ行きますか」
「うん。いってらっしゃい」
「いってきますぜ」
少女に背を向け、悪魔は〝歪み〟へと足を踏み入れた。
その姿が完全に消えるまで、少女は笑顔で見送っていた。
◇ ◇ ◇
「……面倒くさい」
少女は独り言を呟いた。
特に何が面倒くさいとか、そういうことではない。
ただ、なんとなく呟いただけだ。
「あーー死にそう……ゴホッ、ゴホッ」
咳き込んだ瞬間、胸の奥に無数の針を突き刺されたような激痛が走る。
「……痛い」
少女は小さく呟き、それでも歩き続けた。
もっとも、痛むのは胸だけではない。
一歩踏み出すたび、足の骨を内側から無数の針で突き刺されるような激痛が走る。
服が肌に擦れるだけで痛い。
風が頬を撫でても痛い。
呼吸をすれば肺が痛み、瞬きをすれば眼球にすら鋭い痛みが走る。
喋るだけでも痛い。
何もしなくても痛い。
動けば、もっと痛い。
眠っていても、激痛から逃れることはできない。
それが少女にとって、この一年の日常だった。
──刺針病。
少女が十三歳の時に患った、未だ治療法すら存在しない病。
そして十四歳になった今、その身体はすでに限界を迎えていた。
だから先ほど少女が口にした「あーー死にそう」という言葉は、冗談でも何でもない。
本当に、もうすぐ死ぬのだ。
「……まさか勇者を継ぐ者として生まれついたのに、勇者としての務めを何も果たさずに死ぬのは、私が初めてなんじゃないかしら」
激痛が走るとわかっていても、思わず独り言を呟いてしまう。
少女は少し考える。
「……まあ、いいか」
どうせ死ぬのだから、今更考えたところで仕方がない。
「あーーやる気が出ない。面倒くさい」
ぶつぶつと文句を言いながら、少女はだるそうに歩いていく。
歩くたびに痛い。
息をするたびに痛い。
時折立ち止まり、苦しそうに咳き込んでは、また歩き出す。
ふと、少女は空を見上げた。
綺麗な青空が広がっている。
眩しい太陽に目を細めると、それだけで眼球に針を刺されたような激痛が走った。
「……いい天気」
太陽は程よく暖かい。
穏やかな風が吹いている。
──死ぬには良い日だ。
少女は、自分の命が尽きかけていることを理解していた。
なにより自分の身体なのだ。
手に取るようにわかる。
もって、あと数時間程度だろう。
少女が目指しているのは、近くにある川辺だった。
死ぬなら、そこが一番気持ちいいだろう。
綺麗な空。
暖かな太陽。
川を流れる水の音。
穏やかに吹く風。
死ぬ場所として、これほど相応しい場所を少女は他に思いつかなかった。
そこで、ひっそりと人生を終えよう。
不思議なことに、少女は少しワクワクしていた。
死ぬことが楽しみなのか。
この散歩が楽しいのか。
それとも──もうすぐ、この激痛から解放されることが嬉しいのか。
少女自身にも、よくわからない。
ただ、出かける前より気分がいいことだけは確かだった。
身体は重い。
全身が痛い。
それなのに、足取りは少しだけ軽かった。
「誰にも知られず、ひっそり死ぬ……それでいい」
勇者として何もできなかったことに、心残りがないわけではない。
けれど──
「魔王は……きっと誰かが倒してくれるでしょう」
水の流れる音が、少女の耳に届いた。
目的の場所は、もうすぐだ。
「……よし」
少女は珍しく、少しだけやる気を出した。
もしかしたら、こんなにやる気を出したのは人生で初めてかもしれない。
──もうすぐ死んでしまうのだが。
◆
ようやく目的の場所へ辿り着いた少女は、川辺の日当たりの良い場所に横になった。
「……最高」
思わず、そんな言葉が漏れた。
青い空。
暖かな日差し。
流れる水の音。
草木を揺らす、穏やかな風。
身体中は相変わらず痛い。
それでも、この場所は気持ちよかった。
このまま眠ってしまえば、きっと二度と目を覚まさない。
少女はゆっくりと目を閉じようとして──ふと思い直した。
「……一応、振り返ってみようかしら」
自分の人生を──
あまりやる気はない。
けれど、もうすぐ死ぬのだ。
最後くらい、少しやる気を出してみてもいいだろう。
少女は十四年間という短い人生を、ゆっくりと思い返す。
◇ ◇ ◇
──少女は、勇者の一族として生まれた。
ヴァーミリオン家。
レーヴェン王国に古くから存在する貴族であり、代々〝勇者〟を輩出してきた一族である。
──勇者。
そう呼ばれてはいるが、その役目は魔王を倒すことでも、魔物を討伐することでもない。
その時代に生きる人々を襲う、大きな危機に立ち向かうこと。
それこそが、勇者の役目だった。
ある時代では、多くの人々を飢えさせた大飢饉に立ち向かった。
ある時代では、長く続いた二つの大国の戦争へ介入し、和平へと導いた。
大地震や洪水に襲われた人々を救った者もいる。
疫病が蔓延した時代には、国境を越えて医師や魔術師を集め、その拡大を食い止めた者もいる。
剣を振るうことだけが、勇者の役目ではない。
人々が自分達だけでは乗り越えられないほどの危機に見舞われた時、国という垣根を越えて、その危機へ立ち向かう。
それが、長い歴史の中で〝勇者〟と呼ばれてきた者達だった。
そして少女──フィオナ・ヴァーミリオンもまた、その勇者となるために生まれ、育てられた。
フィオナの父、ロード・ヴァーミリオン。
彼こそが、フィオナの前の時代を担う勇者だった。
片手剣と魔法を自在に操り、歴代の勇者の中でも高い実力を持つ男。
そしてフィオナにとっては、自慢の父親だった。
「もう一回!」
まだ幼いフィオナが、両手で木剣を握りながら声を上げる。
「もう十回以上やっているぞ?」
「今度は当てるもん!」
「そうか」
ロードは笑い、自分も木剣を構えた。
「なら、来い」
「うん!」
フィオナは地面を蹴った。
小さな身体で懸命に木剣を振り上げ、父親へ向かって振り下ろす。
ロードはそれを軽く受け止める。
「あっ!」
「力任せに振るな。剣は腕だけで振るものじゃない」
「わかってる!」
「本当か?」
「わかってるもん!」
フィオナは頬を膨らませる。
ロードは楽しそうに笑った。
フィオナは幼い頃から、父のもとで勇者になるための教育を受けていた。
剣術。
魔法。
各国の歴史や文化。
魔物についての知識。
時には、国と国との間で問題が起きた時に、勇者として何をするべきなのかを問われることもあった。
ただ強ければいいわけではない。
剣を抜かずに解決できるのなら、その方がいい。
誰かを救うためには、戦う力だけでは足りない。
ロードはそれを、娘に繰り返し教えた。
フィオナ自身も、そんな父の後を継ぐことを疑ってはいなかった。
勇者となって、困っている人を助ける。
父のような勇者になる。
それが幼いフィオナにとって、当たり前の未来だった。
フィオナには母親もいる。
だが、母親と共に暮らした記憶はほとんどなかった。
フィオナがまだ幼い頃から、母は遠く離れた土地で暮らしていたからだ。
父と母の仲が悪いわけではないらしい。
それくらいはフィオナにもわかっていた。
ロードは時折、遠方に暮らす妻のもとを訪れていた。
けれど、なぜ三人で暮らさないのか。
幼いフィオナには、その理由まではわからなかった。
だからといって、屋敷でいつも一人だったわけでもない。
「フィオナお嬢様!」
庭を駆け回っていたフィオナが振り返る。
「セルカ!」
「セルカ、ではありません!」
息を切らしながら、一人の少女が追いかけてくる。
藍色の髪を一本に結んだ、フィオナより六歳年上の少女。
セルカ・ナーエ。
フィオナが五歳の頃から身の回りの世話を任されている、彼女付きのメイドだった。
「お勉強のお時間ですよ! どちらへ行かれるのですか!」
「剣の練習!」
「先ほどまでしていたではありませんか!」
「まだお父様に一回も当ててない!」
「だからといってお勉強を放り出してはいけません!」
「あと一回!」
「その『あと一回』を先ほどから何回聞いたと思っているんですか!」
フィオナは逃げた。
「あっ! フィオナお嬢様!」
「捕まえられたら勉強する!」
「待ってください!」
楽しそうに笑いながら庭を駆けるフィオナを、セルカが必死になって追いかける。
その様子を、少し離れた場所からロードが眺めていた。
「……元気だな」
「ロード様! 見ていないで捕まえてください!」
「頑張れ、セルカ」
「ロード様!」
「あはははっ!」
フィオナの笑い声が、屋敷の庭に響いた。
勇者になるための教育は決して楽なものではなかった。
それでもフィオナは、よく笑う子供だった。
父がいる。
セルカがいる。
いつか自分も父のような勇者になる。
そして、まだ見たことのない場所へ行って、たくさんの人と出会う。
幼いフィオナは、自分の前には広い世界が待っているのだと思っていた。
そんな毎日が、これからも続いていくのだと。
──十三歳になる、あの日までは。
◆
「……痛っ」
腕に小さな痛みが走った。
フィオナは足を止め、自分の腕を見る。
見慣れない虫が一匹、肌に張り付いていた。
「なに、これ」
手で払い落とす。
地面に落ちた虫は、すぐにどこかへ逃げていった。
腕には、小さな傷が残っている。
「……刺された?」
少し痛い。
だが、それだけだった。
剣の稽古をしていれば、もっと痛い思いなどいくらでもする。
フィオナは大して気にも留めず、その場を離れた。
それが、自分の人生を大きく変えることになるとは知らずに──
異変が起きたのは、その日のうちだった。
「……?」
最初に感じたのは、指先だった。
ちくり、と針で刺されたような痛み。
何か刺さったのかと思い、指を見る。
何もない。
「……気のせい?」
しばらくすると、今度は足が痛んだ。
次は背中。
腕。
腹。
胸。
脳。
痛みは一つ消えるたび、別の場所へ現れた。
やがて──消えなくなった。
「……痛い」
夕方になる頃には、フィオナは自分の部屋で身体を丸めていた。
「フィオナお嬢様?」
セルカが異変に気づく。
「どうされました?」
「わかん……ない……」
「どこか痛むのですか?」
「……うん」
「どこです?」
「……全部」
「え?」
「身体……全部、痛い」
その言葉を聞いたセルカの表情が変わった。
ほどなくして、知らせを受けたロードもフィオナの部屋へやって来た。
「フィオナ。詳しく話せるか?」
「最初は……指だけだった。でも、どんどん増えて……今は、全部……」
「身体の表面だけか?」
「違う……中も痛い。骨も……胸も……」
ロードの顔から、表情が消えた。
「……まさか!?」
「……お父様?」
ロードはすぐには答えなかった。
最近、各地で患者が確認され始めている病。
そして、その患者が確認された地域では、小さな虫型の魔物が目撃されていた。
その魔物は人間や動物に取りつき、刺針病をばら撒いていると考えられている。
皮膚だけではない。
筋肉、骨、内臓、眼球、脳に至るまで、全身を無数の針で常に刺され続けているような激痛を与える病。
「……刺針病」
「え……?」
「セルカ。フィオナには触れるな」
「ですが──」
「今すぐだ」
いつもの優しい父親とは違う声だった。
セルカの足が止まる。
「今日、フィオナが口をつけたものは?」
「食事と……飲み物を」
「食器は?」
「まだ片付けておりません。こちらへ運ぶ途中でしたので……」
「誰か触れたか?」
「私も含め、まだ誰も」
「衣服は?」
「本日お召しになっていたものは、こちらに」
「汗を拭いた布は?」
「ございません」
「血は?」
「出ていません」
ロードは一つずつ確認していった。
刺針病は、患者の体液を介して感染する。
血。
唾液。
汗。
排泄物。
感染者の身体から出たものに触れ、それが体内へ入れば、次の感染者を生み出す可能性がある。
──幸いだった。
フィオナが発症してから、彼女の体液に直接触れた者はいなかった。
「この部屋を隔離する」
ロードは即座に決断した。
「フィオナが使ったものは、許可なく外へ出すな。食器も衣服も寝具も、すべて感染している可能性があるものとして扱え」
すでに刺針病への対処法はいくつか判明していた。
治す方法ではない。
これ以上、感染者を増やさないための方法だ。
患者の排泄物。
汗を吸った布。
唾液の付着した食器。
血液の付着したもの。
それらは適切に焼却すれば、感染源にはならない。
だからフィオナの部屋から出されるものは、徹底して管理されることになった。
寝具も、衣服も、食事に使ったものも、そして排泄物すらも。
必要に応じて焼却され、彼女の体液が屋敷の外へ残らないよう処理された。
フィオナ自身も、屋敷の中の一室へ隔離された。
昨日まで自由に走り回っていた屋敷の中を、歩くことさえ許されなくなった。
「……私、ここから出ちゃ駄目なの?」
「ああ」
「セルカにも……触っちゃ駄目?」
「……今はな」
「お父様にも?」
ロードは答えるまで、僅かに間を置いた。
「……ああ」
「……そっか」
フィオナは、それ以上何も言わなかった。
それから、フィオナの生活は大きく変わった。
屋敷の中にいながら、自分の部屋から出ることはできない。
フィオナが口をつけたもの。
汗や唾液、血液などの体液が付着した可能性のあるもの。
それらはすべて厳重に管理された。
排泄物も例外ではない。
刺針病を治す方法は見つかっていない。
だが、患者の体液から感染すること。
そして感染者の体液が付着したものでも、焼却すれば感染を広げずに処理できることは、これまでの犠牲によって判明していた。
だから、フィオナの部屋から出されるものは徹底して管理された。
そしてフィオナ自身も、その決まりを守った。
自分と同じ苦しみを、誰かに味わわせたくなかった。
ただ──そんなことを考える余裕すらなくなるほど、痛みは酷かった。
「っ……ぁ……」
寝台の上で、フィオナが小さく息を漏らす。
何もしていない。
ただ横になっているだけだ。
それでも痛い。
皮膚を針で刺されているように痛い。
寝具に触れている背中が痛い。
身体の奥にある骨が痛い。
内臓が痛い。
呼吸によって肺が膨らむたび、その内側へ無数の針を突き立てられる。
目を閉じていても眼球が痛む。
眠れば逃れられるわけでもない。
痛みで眠れない。
ようやく意識を失うように眠れても、痛みですぐに目を覚ます。
「……フィオナお嬢様」
セルカの声が聞こえた。
フィオナは返事をしようとして──やめた。
口を開く。
息を吐く。
喉を震わせる。
たったそれだけのことでも激痛が走る。
「……」
「お食事をお持ちしました」
「……ん」
返事は、それだけだった。
以前なら、何でも話した。
今日の剣の稽古のこと。
父から教わったこと。
いつか行ってみたい場所のこと。
どうでもいい話まで、セルカへ聞かせた。
今は違う。
言葉を一つ口にするだけでも、痛みに耐えなければならない。
だから、必要のない言葉から消えていった。
それでもセルカは、フィオナの世話を続けた。
感染を防ぐために決められた手順を守りながら、食事を用意し、汚れたものを処理し、必要なものを届ける。
「お水も置いておきますね」
「……うん」
「何か必要なものはございますか?」
フィオナは小さく首を振ろうとして──途中でやめた。
首を動かすだけでも痛い。
「……ない」
掠れた声で、それだけ答える。
「……わかりました」
セルカは、それ以上フィオナに話をさせなかった。
フィオナが話したがらないのではない。
話せば痛いのだと、もう分かっていた。
だからセルカの方から話しかけることはあっても、返事を求めることは少なくなっていった。
ロードも、時間を見つけては娘のもとを訪れた。
「フィオナ」
「……」
「今日はこれを持ってきた」
フィオナがゆっくりと目だけを動かす。
ロードが持っているのは、花だった。
白い、小さな花。
「……きれい」
短い言葉だった。
それでもロードには十分だった。
「ああ。綺麗だろう」
「……うん」
「ここに置くぞ」
ロードは、寝台からよく見える場所へ花を飾った。
フィオナはそれを眺める。
ロードは毎日のように、違う花を持ってきた。
赤い花。
白い花。
黄色い花。
フィオナの知らない花。
部屋から一歩も出られなくなったフィオナにとって、それは外の世界からやって来る数少ないものだった。
「……お父様」
「なんだ?」
「この花……どこから?」
一言ずつ、息を整えながら話す。
それだけでフィオナの表情が僅かに歪んだ。
「無理に喋るな」
「……でも」
「話なら元気になってから、いくらでもできる」
「……ん」
ロードは花の出所を答えなかった。
フィオナも、それ以上尋ねなかった。
父が持ってきてくれる花。
それだけでよかった。
けれど、花が増えていく一方で、フィオナの身体は少しずつ衰えていった。
ロードも何もせずにいたわけではない。
勇者として持つ伝手を使い、各国から刺針病に関する情報を集めた。
医師。
薬師。
魔術師。
考えられる限りの人間に話を聞いた。
それでも治療法は見つからない。
そんな中──一つの噂がロードの耳に入った。
「……魔界?」
「はい」
男が頷く。
「魔界に、刺針病を治す何かが存在するのではないかと」
「何か、とは?」
「わかりません」
「薬なのか?」
「それも……」
「治癒魔法か?」
「……わかりません」
ロードは眉を寄せた。
「根拠は?」
「……ありません」
「実際に治った者は?」
「……確認されておりません」
──噂。
本当に、それだけだった。
誰が最初に言い出したのかすらわからない。
刺針病に苦しむ者や、その家族が生み出した根拠のない希望である可能性すらある。
「……そうか」
ロードは目を閉じた。
普段の彼ならば、それだけの話で動くことはない。
勇者が動けば、多くの人間も動く。
不確かな情報だけで行動するべきではない。
だが──その夜。
「……っ」
フィオナは寝台の上で、浅く息をしていた。
大きく息を吸えば、それだけ肺が痛む。
だから自然と呼吸は小さくなる。
ロードは何も言わず、娘の傍にいた。
「……お父様」
「ここにいる」
「……今日、お花は?」
「ああ。あるぞ」
ロードは持ってきた花を見せる。
フィオナがほんの僅かに目を細めた。
「……きれい」
「ああ」
「……また……増えたね」
そこで言葉が途切れる。
「っ……」
フィオナが痛みで顔を歪めた。
「もう喋るな」
「……うん」
ロードは娘を見つめた。
──十三歳。
本来なら、庭を走り回っているはずだった。
剣を握り、自分へ何度でも挑んでくるはずだった。
世界を見てみたいと笑っていた娘。
その娘が今は──呼吸することすら苦痛に耐えなければできない。
──魔界に治療法がある。
根拠はない。
何があるのかもわからない。
ただの噂かもしれない。
それでも──このまま何もしなければ、娘は死ぬ。
ならば──
何もしないよりは、調べてみる。
「フィオナ」
「……?」
「少し、遠くへ行ってくる」
フィオナが父を見る。
「……仕事?」
「ああ」
ロードはそう答えた。
治療法のことは言わなかった。
本当に存在するかもわからないものを、娘に期待させたくなかった。
「しばらく留守にする」
「……どれ……くらい?」
言葉の途中で、フィオナが息を詰まらせる。
「っ……」
「無理に喋らなくていい」
ロードは少し待った。
フィオナが痛みを堪え、呼吸を整える。
「……どれくらい?」
「わからない」
「……そっか」
それだけ答えるのにも時間がかかった。
少しして、フィオナがまた口を開く。
「帰って……きたら……」
「うん?」
「……また……剣……」
ロードには、それだけでわかった。
「稽古か?」
フィオナが小さく頷こうとして、痛みに顔を歪める。
それでも──
「……今度は……当てる」
ロードは笑った。
「ああ」
「……約束」
「約束だ」
フィオナも笑おうとした。
けれど頬を動かした瞬間に激痛が走り、その笑顔は途中で崩れた。
それでもロードには──娘が笑おうとしてくれたことがわかった。
「行ってくる」
「……うん」
ロードが部屋を出ていく。
フィオナはその背中を見つめながら、ゆっくりと息を吸った。
胸が痛む。
喉が痛む。
それでも最後に、一言だけ伝えたかった。
「……いって……らっしゃい……」
ロードが振り返った。
「ああ。行ってくる」
それが──二人が交わした最後の言葉になった。
そして──ロードは帰ってこなかった。
一日。
二日。
一週間。
フィオナは、父の帰りを待った。
どれくらい留守にするのかはわからないと言っていた。
だから、最初は気にしていなかった。
勇者なのだ。
遠くへ行くこともある。
時間がかかることだってある。
それに、約束した。
帰ってきたら、また剣の稽古をする。
今度こそ一本当ててやるのだ。
だからフィオナは待った。
激痛に耐えながら。
寝台の上で──父が帰ってくる日を待ち続けた。
けれど──
「……フィオナお嬢様」
ある日──セルカが、フィオナの部屋を訪れた。
「……なに?」
返事をするだけで喉が痛む。
セルカはすぐには答えなかった。
「……セルカ?」
いつもと違う。
それくらいは、フィオナにもわかった。
やがてセルカが、ゆっくりと口を開いた。
「ロード様が……」
そこで声が止まった。
フィオナは待つ。
身体中が痛い。
それなのに、その時だけは不思議と、その痛みが遠くなったように感じた。
「……亡くなられました」
フィオナは何も言わなかった。
言葉の意味はわかる。
亡くなった。
死んだ。
父が──
「……」
「フィオナお嬢様……」
「……いつ?」
「……少し前に」
「……そう」
それだけだった。
泣かなかった。
叫ばなかった。
そんなことをすれば痛いから──というだけではない。
実感がなかった。
父は遠くへ出かけただけだ。
そのうち帰ってくる。
いつものように花を持って──
そして元気になったら、また剣の稽古をする。
約束したのだから。
けれど──
次の日になっても、ロードは帰ってこなかった。
その次の日も──
さらに、その次の日も──
花も増えなかった。
父が最後に持ってきた花が、少しずつ枯れていった。
フィオナは寝台から、それを眺めていた。
毎日。
ただ、眺めていた。
やがて花びらが一枚落ちた。
「……」
その時になって、ようやく──
父は本当に帰ってこないのだと──
フィオナは理解した。
「……お父様」
小さく呟く。
──痛かった。
喉が痛い。
肺が痛い。
身体中が痛い。
けれど今は、それとは違うところまで痛い気がした。
それから、フィオナはさらに喋らなくなった。
もともと、言葉を発するだけでも苦痛だった。
必要なことだけを、短く伝える。
それだけになった。
「フィオナお嬢様。お食事です」
「……うん」
「今日は少し召し上がれそうですか?」
「……わから……ない」
「お水はこちらに」
「……ありがとう」
セルカは変わらず世話を続けてくれた。
医師も来た。
刺針病についての調査も続いていた。
けれど、治療法は見つからない。
痛みも消えない。
朝、目を覚ませば痛い。
息をすれば痛い。
食べれば痛い。
水を飲めば痛い。
身体を動かせば痛い。
眠ろうとしても痛い。
眠っている間だけは、何もわからない。
だから──眠ることが好きになった。
目を覚ますことが──嫌いになった。
かつては世界を見てみたかった。
父のような勇者になりたかった。
剣を振るって、魔法を覚えて、知らない国へ行って、見たことのない景色を見て、たくさんの人と出会って──その時代に生きる人々が困っているのなら、自分が助ける。
父のように──
そんな勇者になるつもりだった。
けれど、もう剣を握ることすらできない。
部屋から出ることもできない。
世界を見ることもできない。
父もいない。
それでもフィオナは生きていた。
正確には──死んでいないだけだった。
そして──十四歳になった。
身体はさらに弱っていた。
医師から告げられなくてもわかる。
もう長くない。
自分の身体なのだ。
自分が一番よくわかっている。
なら──
最後くらい──好きな場所で死にたいと思った。
◇ ◇ ◇
「……面倒くさい」
フィオナは目を開けた。
頭上には、青い空が広がっている。
暖かな太陽。
穏やかな風。
すぐそばから聞こえてくる、川の流れる音。
そうだった。
昔のことを思い出していたのだ。
「……疲れた」
人生を振り返るだけで疲れてしまった。
最後くらいやる気を出してみようと思ったが、やはり面倒くさいものは面倒くさい。
もう十分だろう。
けれど、目を閉じようとして──ふと思った。
まだ、何もしていない。
父のような勇者になるつもりだった。
知らない国へ行って、見たことのない景色を見るつもりだった。
地図に描かれた場所に、どんな人たちが暮らしているのか。
そこで何を食べて、どんな言葉を交わし、どんな毎日を送っているのか。
自分の目で、確かめたかった。
一つの国を見たら、きっと次の国にも行きたくなる。
知らないことを一つ知れば、もっと知りたくなる。
行ける場所は全部行ってみたかった。
見られるものは、全部見てみたかった。
「……欲張り」
自分に向かって、小さく呟く。
食べたことのない料理だって、たくさんある。
名前も知らない果物も、お菓子も。
好きなりんごを、痛みなんて気にせずに齧りたかった。
飲み込むたびに喉が痛むのを恐れず、好きなものを、好きなだけ食べたかった。
お腹がいっぱいになっても、美味しそうなものを見つけたら、もう一口くらい食べてしまう。
そんなことだって、してみたかった。
それから──
いつか、誰かを好きになることもあったのだろうか──
本で読んだ恋の話。
自分にも、あんな気持ちがわかる日が来るのだろうかと、考えたことがある。
好きになった人と手を繋ぐ。
肩を寄せ合う。
抱き締められて、同じように抱き締め返す。
触れたら感染させてしまうかもしれない。
そんな心配をせずに、誰かの温もりを感じてみたかった。
「…………」
今も、どこかでは──
自分と同じくらいの歳の子が、友達と笑っているのだろう。
美味しいものを食べているのだろう。
好きな人のことを考えているのだろう。
明日、何をしようか。
次はどこへ遊びに行こうか。
明日が来ることを、当たり前のように信じながら。
──羨ましい。
そう思ってしまった。
その人たちが、自分に何かをしたわけではない。
わかっている。
それでも、羨ましかった。
どうして、自分はできないのだろう。
どうして、息をするだけでも痛いのだろう。
誰かにとっては、特別でも何でもないことなのに。
──自分も欲しかった。
自由に歩ける身体も──
好きなものを食べる楽しみも──
誰かに触れられる温もりも──
明日を楽しみにして眠れる夜も──
一つだけではない。
──何もかも全部、欲しかった。
「…………」
フィオナは、ゆっくりと息を吐いた。
肺が痛む。
喉が痛む。
ただ息を吐いただけなのに、身体の奥へ無数の針を突き立てられる。
(──もう、いいや)
欲しがったところで、どうにもならない。
考えるだけで疲れてしまう。
フィオナは目を閉じた。
身体中が痛い。
いつも通りだ。
けれど、この痛みとも、もうすぐお別れできる。
そう思えば、少しだけ嬉しかった。
眠ってしまえばいい。
今度こそ、二度と目を覚まさない。
「……お父様」
最後に思い浮かんだのは、父だった。
約束を守れなかった。
もう剣の稽古はできない。
一本も当てることができなかった。
「……ごめん」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それだけで喉が痛んだ。
フィオナは力を抜いた。
川の音が聞こえる。
風が頬を撫でる。
暖かな日差しが身体を包む。
死ぬには、本当に良い日だった。
あとは眠るだけ。
そのはずだった。
その時──ふと腹の上に重みを感じた。
「……?」
何かが乗っている。
目を開けるだけでも痛い。
確認するのも億劫だったが、フィオナは重い瞼をゆっくりと持ち上げ、薄く目を開けた。
黒いものが見える。
何度か瞬きをするたび、眼球に針を刺されたような痛みが走る。
「……カラス?」
自分の腹の上に、一羽のカラスがいた。
死体だと思って、啄みに来たのだろうか。
フィオナはぼんやりとそんなことを考える。
確かに、これから死ぬつもりではある。
だが、まだ死んでいない。
啄むなら、せめて死んでからにしてほしい。
刺針病は、感染者が死ねば、その身体の中に存在する病も同時に死滅する。
以前、医師からそう聞いたことがある。
今の自分を啄めば、このカラスにも刺針病が感染するかもしれない。
そして、そのカラスが別の誰かに病を広げれば、また犠牲者が増えてしまう。
それだけは駄目だ。
死ぬことにした自分が、最後に新しい犠牲者を増やすなんて御免だった。
「……まだ……駄目」
喋るだけで痛む喉から、掠れた声を絞り出す。
「食べるなら……死んでから……」
カラスに言葉が通じるはずもない。
それでもフィオナは、そう伝えた。
「お前、おもしれぇな」
目の前のカラスが、そう喋った。
「…………」
フィオナは黙った。
痛みで頭がおかしくなったのだろうか。
──そう思った。
すると、目の前のカラスが再び口を開いた。
「おっと、わりぃ。驚かせちまったな」
「…………」
本当に、カラスが喋っている。
フィオナは驚いた。
もしかすると、自分にお迎えが来たのだろうか。
死ぬ間際になると、人の言葉を喋るカラスが迎えに来る。
そんな話は聞いたことがない。
どう考えてもありえない。
けれど、これから死のうとしていたところに現れたのだ。
フィオナは痛む頭で、そんなことを考えた。
だが、目の前のカラスはさらに衝撃的な言葉を口にした。
「俺様は悪魔だ。お前、俺様と契約しねぇか?」
「契……約……?」
フィオナは激痛に耐えながら、カラスの姿をした悪魔と名乗る存在に聞き返した。
「おう」
悪魔はフィオナの腹の上で答える。
「俺様たち悪魔はな、人間の願いを叶える代わりに、そいつの魂を貰うんだ」
「……魂……」
「勘違いすんなよ。契約したらすぐ食うって話じゃねぇ」
悪魔は翼を軽く動かした。
「契約が成立したら、お前の魂に俺様の刻印をつける。俺様と契約したっていう印だ」
フィオナは黙って聞いていた。
息をするたびに肺が痛む。
それでも、悪魔の話から意識を逸らさなかった。
「お前が生きてる間、魂はお前のもんだ。俺様が勝手に奪うことも、無理矢理食うこともねぇ」
「……じゃあ……いつ?」
「お前が人生を終えた時だ」
悪魔はあっさりと答えた。
「その時になったら、俺様がお前の魂を喰う」
「…………」
「もちろん、嫌なら断っていい。無理矢理契約する気もねぇし、お前が納得しなきゃ契約は成立しねぇ」
願いを叶える代わりに、最後に魂を渡す。
それが、悪魔との契約だった。
「……どんな願いでも……叶うの?」
フィオナが尋ねた。
短い言葉を発するだけでも、喉に無数の針を突き刺されたような痛みが走る。
「いや。なんでもってわけじゃねぇ。不老不死だとか、世界を滅ぼせだとか、人類を滅ぼせだとか、そういう願いは無理だ」
「……じゃあ」
フィオナは少し考えた。
「刺針病を……この世から消せる?」
「ちょっと待ってろ。確認してみる」
悪魔はそう言うと、黙り込んだ。
何かを考えているようにも見える。
しばらくして、悪魔が再び口を開いた。
「できるそうだ」
「……じゃあ……魔物を全部、絶滅させることは?」
「それも確認してみる」
再び、悪魔が黙り込む。
先ほどと同じように、しばらくの沈黙が続いた。
「……魔物自体はできるそうだ」
「……自体は?」
「ああ……魔王とやらと、その部下……だったか? そいつらだけは無理らしい」
「……そう」
フィオナは黙り込んだ。
刺針病を、この世から消すことはできる。
一般の魔物を、すべて滅ぼすこともできる。
けれど、魔王とその仲間だけは消すことができない。
フィオナは考える。
刺針病を消したとしても、魔王たちが残っている。
また別の病を生み出されるかもしれない。
魔物をすべて消したとしても、やはり魔王たちは残る。
また新たな魔物を生み出されるかもしれない。
魔王たちそのものを消すことはできない。
なら──結局、意味がない。
「…………」
その時──
フィオナの胸の奥で、何かがふつふつと湧き上がってきた。
──怒りだった。
自分をこんな身体にした刺針病。
多くの人を苦しめている魔物。
自分から剣を奪った。
世界を見るという夢を奪った。
何でもない毎日を、手の届かないものに変えた。
そして、父も──
どうして、自分が諦めなければならない。
好きなものを食べたかった。
知らない場所へ行きたかった。
いつか誰かを好きになって、その人に触れてみたかった。
それなのに、何一つできないまま死んでいく。
奪った側は、今もどこかで生きているのに。
「…………」
(──許せない)
ただ消えてしまうだけでは、足りない。
何も感じないまま、いなくなるだけでは──
自分は、一年間も苦しんだ。
息をすることも、眠ることも、誰かと話すことすら苦痛だった。
魔物にも、味わわせてやりたい。
逃げようとしても逃げられない地獄のような痛みを──
何もできなくなっていく恐ろしさを──
明日が来ることを、喜べなくなる苦しみを──
そのために──自分が戦えるようになれば──
魔王とその仲間を、願いの力で消すことはできない。
なら──自分の手で倒せばいい。
父が倒せなかった相手でも──
今まで誰も、どうにもできなかった相手でも──
自分が、終わらせてやる。
この身体さえ──
この刺針病に苦しめられている身体さえ、どうにかできれば──
もう一度、剣を握れる。
戦える。
そのための──力が欲しい。
傷ついても止まらずに済む身体。
痛みに動きを奪われない身体。
すべてを終えるまで、死なずにいられる身体。
どれか一つでは足りない。
全部、必要だった。
今度こそ、自分の望むものを諦めないために──
「……決めた」
声を出すだけで喉が痛む。
それでもフィオナは、腹の上にいる悪魔をまっすぐ見つめた。
「私の……願いは……」
一度、大きく息を吸う。
肺に激痛が走った。
それでも構わず、フィオナは自分の願いを一気に口にした。
「どんな傷や怪我や致命傷を負っても一瞬で身体を治し、自分が望まない限り死ぬ事はなく……年を一切取らず、痛みを任意に感じたり、感じなくさせたりする事ができ、汗も体外に出さず、どんな傷や怪我を負っても、傷口から血やその他の体液が一切外に出ず、身体を傷つけた物にも付着しない身体にして」
「…………」
悪魔は何も言わなかった。
ただ、ぽかんとしてフィオナを見つめている。
長い間、人間界を見てきた。
契約する人間も探してきた。
だが、目の前の少女が口にした願いは──あまりにも突飛だった。
「……………………」
やがて悪魔は、願いが叶えられるものなのかを確認するように黙り込んだ。
そして、その時──
悪魔は驚きの表情をした。
「──できる、だそうだ」
悪魔はそう告げた。
その言葉を聞いた時──
フィオナの中に、初めて希望が生まれた。
魔王を、魔物を、そして、この世から刺針病を──
すべて、自分の手で絶滅させることができるかもしれない。
失っていたはずの未来が、ほんの僅かに見えた。
「じゃあ──お願い」
フィオナは迷わずそう答えた。
しかし、悪魔はすぐには契約しなかった。
フィオナを見つめ、問いかける。
「本当に、いいのか?」
フィオナは何も言わず、目の前にいるカラスの姿をした悪魔を見つめた。
悪魔もまた、その赤い瞳でフィオナの目をじっと見つめ返す。
「契約しちまうと、もう後戻りはできねぇ。お前が死んだら、お前の魂は俺様のものになる」
悪魔は念を押すように続けた。
「文字通り、悪魔に魂を売っても、だ。本当に後悔しないな?」
もう一度──
フィオナの意思を確かめるように、悪魔は問う。
「…………」
フィオナは全身を襲う痛みに耐えながら、ゆっくりと頷いた。
「この世界の魔物も……刺針病も……そして魔王も……」
一言発するたびに喉が痛む。
息を吸うだけで肺が痛む。
それでもフィオナは、目の前の悪魔から目を逸らさなかった。
「全部、私が……滅ぼしてやる」
痛みに耐えながら、言葉を続ける。
「その為の力を得られるなら、私は迷わない」
そして──
「だから、私は……あなたと、契約する」
「…………」
フィオナのその言葉に、悪魔は目を見開いた。
しばらく少女の顔を見つめた後、その口元が僅かに笑みを作る。
「……どうやら、俺様の目に狂いはなかったようだ」
「……地獄のようなこの苦しみを、あいつらにも味わわせてやる」
フィオナのその言葉を聞き、悪魔は満足そうに頷いた。
「いいぜ!」
赤い瞳を輝かせ、悪魔は声を上げる。
「お前の可能性を、見せてみろ!」
そして──
「契約成立だ!」
その言葉が響いた瞬間だった。
「……っ」
フィオナの胸の奥で、何かが脈打った。
心臓ではない。
もっと深い。
身体の内側ですらない──自分という存在そのものに、何かが触れたような感覚。
次の瞬間──
カラスの姿をした悪魔の身体から、黒い靄が噴き出した。
それは瞬く間にフィオナの周囲へ広がり、地面を這い、幾重もの円を描いていく。
黒い円の中に、血のように赤い文字が次々と浮かび上がった。
「…………」
フィオナは目を見開く。
──空気が変わった。
暖かかったはずの日差しが遠のいたように感じる。
川のせせらぎも、風の音も──何もかもが遠ざかっていく。
聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
赤黒い光がフィオナの身体を包み込む。
そして、その胸の奥へ。
魂へと、黒い何かが入り込んできた。
「……っ!」
焼き印を押しつけられたかのような感覚。
フィオナの魂に、悪魔との契約を示す刻印が刻まれていく。
──その時だった。
赤と黒しか存在しなかったはずの光の中に──
まったく異質な色が生まれた。
「……?」
虹色の光。
赤。
青。
緑。
紫。
黄金。
数え切れない色が混ざり合いながら、それでいて決して濁ることなく、フィオナの身体を優しく包み込んでいく。
禍々しい悪魔の力と、美しい虹色の光。
本来なら決して交わらないような二つの光が、絡み合う。
そして──
フィオナの魂へと吸い込まれていった。
一瞬──世界が、真っ白になった。
やがて光が消える。
黒い靄も、赤い文字も、虹色の輝きも──
まるで最初から何もなかったかのように消え去り──
川の音が戻ってきた。
風が吹く。
暖かな日差しが、再びフィオナの身体へ降り注ぐ。
ただ一つ。
以前とは決定的に違うものがあった。
フィオナの魂には確かに──
悪魔との契約の証が、刻まれていた。
フィオナは、すぐに気づいた。
「…………?」
────痛くない。
先ほどまで身体中を襲っていた、あの地獄のような激痛が──どこにもない。
フィオナはゆっくりと自分の手を持ち上げた。
握る。
開く。
もう一度、握る。
「…………」
痛くない。
何度か瞬きをする。
眼球に針を突き刺されるような痛みはない。
恐る恐る、大きく息を吸い込んだ。
深く。
肺いっぱいに空気を吸い込む。
そして、ゆっくりと吐き出した。
「…………」
痛くない。
一年前までは、それが当たり前だった。
手を動かしても、瞬きをしても、息をしても──痛くない。
刺針病になってから、まだ一年しか経っていない。
それなのに──痛みのない身体が、ひどく懐かしいものに感じた。
「…………」
まだ、信じられない。
フィオナはゆっくりと顔を上げる。
そして──目の前にいる、カラスの姿をした悪魔を見つめた。
「お望み通りか?」
悪魔はそうフィオナに問う。
「…………」
フィオナはもう一度、自分の手を握った。
痛くない。
呼吸をしても、瞬きをしても、何をしても──
あれほど自分を苦しめ続けていた痛みが、今はない。
フィオナは、目の前の悪魔に心から感謝した。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
「契約だからな」
悪魔はそう答えると、自らの名を告げた。
「俺様はヴァイオ。よろしくな、お前様」
フィオナはヴァイオをまっすぐ見つめた。
「……フィオナ」
「あん?」
「フィオナ・ヴァーミリオン。私の名前」
そして、フィオナはヴァイオに言った。
「──私は、あなたを裏切らない」
「……?」
「この先、何があっても絶対にあなたと共にある。だから、あなたも、私を裏切らないで」
「…………」
その言葉に、ヴァイオは目を見開いた。
悪魔と契約したばかりの人間が──自らの魂を渡すことになる悪魔に向かって、裏切らないと告げたのだ。
そして、自分にも同じものを求めている。
しばらく呆気に取られていたヴァイオだったが──やがて楽しそうに笑った。
「お前様……やっぱりおもしれぇな!」
そして、フィオナの赤い瞳をまっすぐ見つめ返す。
「いいぜ、誓ってやる」
ヴァイオは、はっきりと言い切った。
「俺様は、絶対にフィオナ・ヴァーミリオンのことを裏切らない。絶対に、フィオナ・ヴァーミリオンには嘘をつかない」
そして最後に──
「お前様の命令には、絶対に従ってやる。ただし──」
ヴァイオは続けた。
「俺様とお前様の契約を脅かす問題が起きた場合は、俺様はそれまでの命令には従わねぇぜ」
先ほどまでの楽しそうな様子とは違う。
ヴァイオはフィオナを見つめ、はっきりと言い切った。
「独自の判断で動いて、何がなんでもお前様を助ける行動を取る」
そして最後に──
「たとえ、何を犠牲にしようがな」
ヴァイオはそう付け加えた。
フィオナは頷いた。
「わかった。それでいい」
その答えを聞き、ヴァイオは満足そうに笑った。
「おっしゃ! これからよろしくな、お前様!」
死ぬために訪れた川辺で──
フィオナ・ヴァーミリオンは、一人の悪魔と契約した。
それは──死ぬことを望んでいた少女が、もう一度生き始めた瞬間だった。




