3.氷刃の刺客(3)
『奴隷の絶望』。
ミラもなんとなく知っている。剣奴という種類の奴隷が、どのような生涯を送るのかを。
プロテジェール王国には大陸でも最大の闘技場が存在する。ミラ自身も何度か、父王の付き添いで観戦に出かけたことがあった。
父の隣、貴賓席で見たものは――
酒、肉、興奮。観客席は残虐な快楽に満ちていた。
鮮血、死、絶望。フィールドは凄惨な地獄そのものだった。
見物客は血を求め、剣奴は血を流し、見物客は死を求め、剣奴は死を受け入れる。
あれほど対照的に、人間が二つの種にくっきりと分かれる場所もない。つまり、死を歓喜する民と、諦念とともに死を迎える奴隷。
天上と地上。
天国と地獄。
それほどの、差。圧倒的な身分差。
奴隷に、剣奴に用意された生涯は、諦念、絶望、闘争、死。それだけだ。
……しかし例外もあった。
観客もまた貴賓席の王族と、三等席の平民に分けられるように。
剣奴にもあっけなく死ぬ未熟者と、長く生きながらえる連中がある。
『剣奴のなかの剣奴』、長くその仕事を続けている屈強の戦士たちの瞳には――
そこにあるべきはずの、絶望が見られない。
代わりに存在するのは、怒り、恨み、誇り、野心の輝き――。
ミラは一瞬だけ、当時もっとも評判の高い剣奴と目が合った。剣奴の昏い視線は、血にまみれた表情は、こう語っていた。
『いまに見ていろ。その宝玉と黄金で飾られた席から、貴様を必ず引きずり下ろす』
ミラは戦慄した。フィールドと王族貴賓席を隔てる距離、その空間的な絶対の防壁がなければ、ミラその視線だけで気を失ってしたかもしれない。
さて――
あの時目が合った剣奴の二つ名は、なんと言ったっけ?
――『小さな黒髪の――』
「さて、コイツにとどめを刺しますよ。ミラーフィール嬢」
「……!」
アルミス子爵に声をかけられ、ミラははっと我に返る。
アルミスの傍らには、斧を手にした屈強な貴族がニヤつきながら立っている。先ほどまで決闘を観戦していた者のひとりだ。
「僕が氷魔術・氷餓侵食を解除すると、氷は砕けて霧散します。同時に彼がこの斧で、体温を失ったガラオールのやつを真っ二つにしますよ。ははは」
ほら、そこで奴隷の最期を見ていてください、とアルミスは言う。
わらわらと集まってきている貴族たちも、にこにこ微笑みかけながら、ミラの名誉回復を祝福する。
彼らはあえて口にこそ出さないが、ここ数日のことは水に流して、また学園の『王女の王女』としてミラを迎え入れようとしているのだった。
ミラはとても喜ぶ気持ちになれない。
世間体というやつは、人の名誉というやつは、とても移ろいやすいものだと思った。
これが政治なのか。これが支配者の処世術なのか。不信感だけが膨れ上がる。
「舐めるなよ、貴族ども、ガルとアタシを……舐めるな!」
アマリリスが氷柱に背を向け、犬歯をむき出しにする。いまのいままでガラオールを助けようと、爪やナイフで氷を削っていたのだが、とても無理だと悟ったらしい。氷には数条のひっかき傷がついただけだ。
いまにも飛びかかろうとするアマリリス。
アルミスは双刃を重ね合わせた。氷魔術の発動。
「小汚い子猫には首輪をつけよう」
「ふえっ……!」
気づけばアマリリスは、自慢の暗殺術を封じられていた。
「氷魔術・氷餓侵食」
ガラオールが閉じ込められた氷柱から、思い出したように氷の蔦が生え出てギュルギュルとアマリリスの首にまきつく。それで終わりだった。
「この……ゴミ貴族! ふざけるな! アタシを離せ! 皆殺しにしてやる!」
アマリリスは手足をばたばたとさせてもがくが、氷の襟巻はびくともしない。
「はっ。しつけのなっていない猫だな……お前も、ガラオールも、魔術を使えない時点で僕に勝てる見込みはなかったのさ。わかるか? 力とはすなわち魔力、血統だ。高貴の生まれでない者は、生まれつき支配される側の人間、敗北を決定された種族なんだよ」
アルミスはアマリリスの額を小突く。アマリリスは涙を浮かべて歯ぎしりする。
「さ、やってくれ、君」
「死刑執行、引き受けよう」
斧を手にした貴族は、大上段に両腕を持ち上げた。
「カウントダウンする。『プロテ』『ジェール』『万』『歳』! で魔力を解くから、そうしたら君は斧を振り下ろしてくれ」
「了解だ」
ミラは呆然と、事の成り行きを見守る。他人事のように。
カウントダウンがはじまる。
「プロテ」
「ジェール」
「万――」「万死に値する、その驕りッ!」
聞こえるはずのない叫びが、大教室を揺るがした。
「――闇魔術・百騎夜皇!」
破裂。
そびえ立つ氷の円柱が砕ける。輝く破片をまき散らす。
ミラの頬を冷気が掠める。貴族たちの悲鳴が木霊する。
天井が割れ、床が破壊され、机や椅子は木片と化した。
粉塵によって視界が奪われる。怒号と狂乱。いったい何が起こっているのか。
ミラはよろめきながら、一陣の魔力風によって晴れた粉塵の先に、見た。
額や頬から血を流し、屈従するように膝をつく貴族たちを。
そして、夜よりもなお黒い鎧、闇の魔術の鎧で身を固めた、仁王立ちする剣奴を。
ガラオールは健在だった。
氷の牢獄を内部から砕き、そこに立っていた。
なんという存在感か。
高貴の生まれでないがゆえに、神の血が流れていないがゆえに、魔力を扱えないはずのガラオールから、圧倒するような魔力風がごうごうと流れてくる。
「闇の神ハーデス。ハーデスは子孫を残さなかった」
ガラオールは語る。風に乗せて、冥界の言葉を運ぶ。
「ゆえに、貴族のなかに闇魔術を扱う者はない。ハーデスは血脈を愛さない。代わりに愛するのは、卑小なる人間族のうちでも、特に『死と戯れた』者――」
つまりは、剣奴として生まれ、剣奴として育ち、死と舞踏しながら生きた男。
ガラオール。
闇の神が愛するのはガラオール。
ガラオールは闇魔術が扱える。ハーデスがそれを許した。
「闇の魔術は死と精神と魂の魔術。この世の理の裏側を司る魔力。さあ、存分に味わえ」
ミラは圧倒される。目の前にいるのは本当に人間なのか?
まるで地獄の悪鬼のような――相対しているだけで膝が震え、気力が崩れ落ちるような威圧感を与えてくるその者は、いったい――?
「闇魔術・心神喪失」
*
ミラは夢を見ていた。夢……? これが夢なのかもわからない。
時間も、空間も、言葉も、なにもかもが溶け出して蒸発する。
ただひとつ確かなのは、魂へと強制的に流れ込んでくる、悲惨な感情と光景だった。
*
「お前は道具だ。人を殺す道具だ。獣を狩る道具だ。死ぬまで、殺せ。殺し続けろ」
鉄臭い血の雨が降る大地。空から恐ろしいほど野太い声が響く。
ここはどこなのか。いまはいつなのか。私は何者なのか。
ミラはすべてを忘却していた。
「立て。剣を振るえ。目の前の敵を討て。奴隷のお前に、剣奴のお前に許されているのは唯一それだけなのだから。そうして俺を儲けさせろ。お客を骨の髄まで興奮させろ」
ただただ自分を苦しめる低い大声が、鼓膜をギリギリと痛めつけてくる。この世界に存在するのは、血と大地と黒い空と、耳障りな声だけ。
地獄。
声は繰り返される。
次第に声量は大きくなり、その調子は責め立てるように厳しい。
言葉の一つひとつが矢となり剣となり、ミラの魂を貫いていく。
「逃げられるなどと思うな」
痛い。
「戦いのうちに死ぬこと。それがお前に定められた運命だ」
苦しい。
「お前の人生には一度としてチャンスなどない。お前は人ではなく畜生なのだから」
死にたい。
「希望など抱くな」
まさしくそれは地獄だった。
生温かい血の雨粒が、ミラの頬を伝ってどろりと地に落ちる。
ぬらりとした死の恐怖。
同時にミラのもっていた最後の自制心が、ぼろりと剥げ落ちた。
ミラは絶叫する。