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22話統一後

昨日は、体調不良の為更新出来ずに

申し訳ありません。

弘治元年年(1555年)12月


九州連合との戦が終わり九州も落ち着き始めた

その間尼子家の連合参加は、同盟大名として認められた。


島津を領地没収の上四兄弟再教育の上復帰

有馬・伊東・大友も同様に当主は、再教育

嫡男達は、岩田学校(幼)に行かせた

大友家は、晴英が再教育の上終わり次第当主に復帰となった。


大内家は、肥前・肥後・筑後・豊前をもらう代わりに本州の領地を連合へ渡した。


毛利家は、日向・大隈・の代わりに安芸を渡した。


薩摩には、宇喜多家を入れている。


尼子家は、長門・周防・安芸の代わりに備前・美作・伯耆を渡した。


別所を伯耆に、小寺を因幡に与えた。


別所・小寺・宇喜多は、後に領地替えがあると伝えた上である。


大隈の国人・豪族は領地没収の上毛利家入りになった。


別所・小寺・宇喜多は、国持にはなったが、

家臣が足らず新領で野に下った将を捜し集める事からのスタートになった。



其から一年程たった弘治3年(1557年)1月後半

全大名での会議が開催された。

「折角挨拶の為全員上洛してんだから、勿体無くね?」との清秀の言葉で決定した。


会議は、この一年の報告で始まり。

昨年の収穫の事や、貿易状況等々であった。

その中には、蒸気機関による鉄道網の構築・

船舶の増産発展化・通信技術の構築・今後の戦略等々が決まった。


まず、船舶の増産・発展化だが。

蒸気機関自体は、東国遠征前に清一が作っていたのだが、配管の腐食や水漏れ等問題が有った為進んでいなかった。

九州遠征前には、これ等の問題を解決し

腐食に関しては、黒錆びを配管に塗布して対応

水漏れは、ゴムが無かった為漆喰を塗り対応した。

造船所を中心に近代化をしていた。


ガレオン鉄甲船では、ボイラー部分が木造船には適さず、一からの作製になった。

その為、戦艦扶桑をモデルに2年掛けて作製していた。(マスト無し)

名を日の本丸とした。

レシプロ式ではなくタービン式での作製である。

この為電力を作れる様には、なっていたが、

硝子の加工の問題で、電球が作れず

鯨油のランプを使用していた。


完成した蒸気機関に伴い列車建造を進めており全国に鉄道網を作る計画が決まった。


通信は、火花送信機を採用された。

各地に有る滝を利用した水力発電をおこない

この電力により無線を実現させた。


船への通信は、タービン式で発生した電力を用いる事になる。


船の増産と通信システムの構築が終了次第

琉球・台湾・ルソン島を占拠して要塞化を進めるとした。


当面の目標も決まり各大名が動き始める。

本州の大名は、鉄道網の構築・水力発電の設備作製


大内・毛利・三好北海道組は、日の本丸型の増産を進める事になった。


そして3年がたった弘治6年(1560年)


その間朝倉宗滴が亡くなったりした。


連合は、岩田正清を代表として宇喜多・別所・小寺・有馬・伊東が連合水軍2万5千と共に

通信システムを搭載した日の本丸型艦船15台と大型輸送艦2台補給艦3台に乗り込み

琉球を目指した。


翌日には、琉球国本土に到着宇喜多直家を使者として琉球王尚元に降伏を迫った。


尚元は、此を不服として断ろうとしたが、家臣からの大きな偉容な船が沖に来ていると言われ

判断を保留とした。

2日後に返事をすると約束を取り付けた直家は一旦船に戻った。

翌日正清は、沖に向けての射撃訓練を開始し

轟音に驚き護衛を伴って見に来た尚元は、砲撃の距離に恐怖し降伏の使者をだした。


その後正清は、信長に琉球降伏の連絡して待ち第2陣を待ってから、宇喜多直家と兵3千を残して台湾を目指した。


この頃の台湾は倭冦の拠点が多かった為


倭冦の船4百隻が正清達の前に立ちはだかった

しかし帆も無ければ櫂もない異様な船に手が出せず、回りを囲むだけであった。


正清は、全艦に鉄砲での攻撃を命じた。

相手からの鉄砲での反撃も有るには有ったが

船の装甲に阻まれ打つ手無しで逃げ始めた。

そこに正清からの砲撃が命じられ

船の横壁面からの砲撃が開始された。

後方にいた倭冦百隻程に逃げられたが、75%の内半分が大破・残りが中破となり降伏した。

降伏した者の尋問をした際逃げた倭冦の拠点が

判明したため、

別所に拠点を攻撃を命じ壊滅させた。

その際奴隷・金品・食料等全て奪い取り降伏した倭冦の拠点も全て回り再起できなくした。


この頃の台湾は、まともな政権もなく一応明の支配?であった。

ポルトガルも支配迄しておらず阿片の取引をしているだけで有った。


正清は、台湾の支配と阿片の販売禁止を宣言し

ポルトガルの阿片商人を追い出した


明からの使者が連合に台湾の返還命令をして来たが、

信長は「何故お前らに命令されなければならぬか」と激怒し此を拒否した。

此により明との戦争が決まった。


信長は、全大名に東シナ海を中心に

船の警戒体勢を構築するように命じた


正清は、台湾本土と澎湖を要塞化して明からの攻撃に備えた。


福州から明船が何度も攻めてきたが、

船の性能差で瞬く間に沈められ澎湖に近付けても島からの砲撃で沈められた。


業を煮やした明の12代皇帝嘉靖帝は、

朝鮮と協力して直接日本を攻めろと命じた。


此に対し信長は、朝鮮半島の海沿いの街と北京から杭州迄の海沿いの街を攻め港の破壊のみ命じ上陸は、禁止した。


正清も福州から廣州迄の海沿いの街を攻め港の破壊を行っていった。


明は、対応しきれず港と船を失い元に戻すまで

最低でも4~5年の歳月が必要な程のダメージを食らった。


朝鮮半島は、もっと悲惨で有った。


そこで信長は、朝鮮王朝に氏康と義元を使者に出し食料を贈って融和を図ろうとしたが、

朝鮮王朝は拒否した。

氏康達は、海沿いの朝鮮の民に食料を配りながら直接移住を持ち掛けた。

「このまま、この枯れた大地で生きていくのか?新しい肥沃な土地で日本の統治の元に生きていくのか?」


山間の街や村には、忍を派遣してどこどこの街に行くと、食料が貰え新しい土地に導いてくれると噂を流し朝鮮から民をかなり流失させた。


その為朝鮮王朝の復興は更に厳しくなった。


一年掛けて台湾をある程度発展させた正清は

弘治7年3月ルソン島を目指して南下を開始した。




台湾・琉球を取りました。

明が攻めて来ましたが、海に出られない様にはだけして放置します。


陸戦は、人口が違い過ぎますので・・・


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