いつか青葉が育つとき~清原佳奈子~
古いアルバムをめくると、そこには私と桜花が一緒に写っている写真が並んでいた。
桜花の騎手免許取得祝いの宴会のときの写真、私の大学合格祝いのときの写真、桜花の初勝利のときの写真、桜花と稔くん、私と当時の彼との4人で出かけたときの写真、ふたり揃って出席した成人式の写真、私の就職祝いのときの写真。
そして、桜花の結婚式と私の結婚式のときの写真。
このアルバムには、私と桜花の思い出がたくさん詰まっている。
騎手免許取得祝いのときには、ふたりとも未成年だったくせにこっそりお酒を飲んでふたりまとめて父に叱られたりした。
車の免許を取ったばかりのころ、桜花に頼まれて当時稔くんが入院していた病院(美浦から片道1時間)まで運転させられたこともあった。そのときはあまりに腹が立ったので桜花を置いてそのまま帰ってきてしまったけれど、あれはあれでいい思い出だ。
ダブルデートのときには喧嘩してしまった私と彼を宥めようとした桜花が逆にキレてしまって三つ巴の争いになり、間に挟まれた稔くんを呆れさせたこともあった。
住所を美浦に移していた桜花と一緒に成人式に出て、小学校時代に私をからかっていた奴らをびっくりさせたりもした。
彼と喧嘩して泣いていた私の話を聞きながら、途中で桜花が寝てしまったこともあった。
結婚し、子供を産んだりしているうちに何人かの友人とは疎遠になってしまったけれど、それでも、この近くに住んでいる桜花とはずっと仲良くしてきた。34歳になった今でも親友と呼べる存在なのは、桜花くらいかもしれない。
最初のころは、私はあんなに桜花を嫌っていたというのに。
確かに、当時の私は桜花に対してあまりいい感情は持っていなかった。子供のころにそれが原因で苛められて、それで競馬関係者が嫌いになったというのが理由だ。また、いつもやたらと自信満々な桜花の態度が鼻について仕方がなかったというのもある。けれど、それとは別に桜花には言えなかった理由もある。
それは、今から思えばあまりにも子供じみた理由だったとは思う。ただ、競馬のことに一生懸命になるあまりに娘をほったらかしにする父が、憎かっただけなのだ。その憎しみが、何の関係もない桜花に向かってしまった。
今でも現役の調教師である父は、もともとは調教助手だった。所属していた厩舎の調教師が定年退職するのを受け、1番信頼されていた父が調教師免許を取得してその厩舎を引き継いだのだ。
自分の厩舎を持ってからというもの、父はあまりの忙しさに私をほとんどかまってくれなくなった。うまくいかない厩舎の経営に苦しみ、笑わなくなった。徐々に厩舎の成績が上向きになってきても、当時所属騎手が誰もいなかった父の厩舎は、レースの度に鞍上を探すのにてんやわんやで、それが原因で父はずっと気苦労が絶えなかったようだ。
笑わない父を見るのは、子供だった私には本当につらかった。
そんな父が、桜花が実習に来ることが決まってから一変した。競馬学校時代から高い評価を受けていた桜花が来ることで父は安心し、そんな父を見て母もよく笑うようになり、私ひとりだけがその輪から取り残されてしまった。
自分という娘がいるくせに、それなのに赤の他人である桜花を受け入れる両親の気持ちが、どうしても理解できなかった。私をかまってくれなかったくせに桜花のことを大事にして持て囃す父が、憎かった。ただ、それだけのことだったのだ。
そうやってあまりにも身勝手な理由で桜花につらくあたっていたけれど、でも、あの日、桜花と喧嘩した翌日に父に叱られて目が覚めた。あのときの父は、それまで私が見たことがないような剣幕で私と桜花を叱った。双方から事情を聞き、双方の主張を認めた上で、双方を平等に叱った。それだけでだいぶ気持ちは冷えたのだけれど、桜花が実家に戻ったその後に、父は私にこう言ったのだ。
『ずっと寂しい思いをさせて、ごめんな』
父は、ずっと前から私の気持ちに気づいていたのだ。もうすぐ2児の母になる今ならわかる。見ていないようで、親はちゃんと子供のことを見ているのだ。
凍てついてしまった私の心を溶かすには、その言葉だけで十分だった。それと同時に、桜花への反感もいつの間にか消えていったのだ。
冷戦状態の始まりの理由もあっけなかったけれど、終わりはもっとあっけないものだった。
結婚したのは、桜花のほうが先だった。中学を卒業してから10年間ずっと稔くんとつきあい、そのまま結婚してしまったのだ。その一途さにはほとほと感心してしまう。私なんか、旦那以外の男と2年続いたためしがないというのに。
結婚式のときの桜花は、とても輝いていた。結婚してもずっと騎手を続けると言っていたし、周囲もそれを信じて疑わなかった。
その1年後にあんなことになるとは、誰も予想していなかった。
玄関のチャイムが鳴り、我に返る。臨月のこの状態では椅子から立ち上がるのすら面倒だけれど、主婦である以上さぼってばかりはいられない。よっこいしょ、と掛け声をかけて立ち上がり、玄関に向かう。覗き穴から姿を確認しようとするけど、見えない。息子の友達でも尋ねてきたのだろうか。
玄関を開けると、そこにはランドセルを背負った青葉くんと、その妹の弥生ちゃんが立っていた。弥生ちゃんを保育園に迎えに行った帰りらしく、弥生ちゃんは黄色い鞄をかけたままだ。
けれど、うちの純のところに遊びに来たにしては様子がおかしい。青葉くんは何も言わずに押し黙っているし、弥生ちゃんはそんなお兄ちゃんを心配そうに見ている。
「どうしたの? 純、今友達のところに遊びに行ってるけど」
「…………」
尋ねても、青葉くんは答えない。まだ4つの弥生ちゃんに聞いてもまともな返事ができるわけもないので、しばらく妙な沈黙が流れる。さすがに心配になって、とりあえずは家に上げようかと思って口を開いた瞬間、
「佳奈子おばちゃん」
黙っていた青葉くんが、ぽつんとつぶやいた。顔を上げて、まっすぐに私を見つめてくる。その表情が、一瞬だけ桜花とだぶる。やっぱり、似ている。その瞳も、そのまっすぐさも。――――全てが、桜花に生き写しだ。
ほとんど泣き出しそうな顔をして、弥生ちゃんが青葉くんの服の裾をつかむ。
「教えて。ボクのおかあさんは、どうして騎手をやめたの?」
結婚してから1年後、桜花は騎手を辞めた。最後にきっちり秋華賞を制覇して、7年間の騎手人生にピリオドを打った。
そして、青葉くんを授かり、弥生ちゃんを産み、私の父の厩舎で調教助手として働き始めた。
自分が騎手だったということを、桜花は子供たちに伝えていない。気を遣わせるといけないから、と。自分たちが生まれたせいで騎手を辞めたのだと思ってほしくはないからだと言っていた。昔の思い出よりも、子供や稔と生きていく今のほうが大事なのだから。桜花はそう繰り返していた。
けれど、いつまでも隠し通せるわけがない。子供たちは成長するにつれ外の世界を知る。特に桜花は今でも競馬の世界に残っているから、必然的に子供も競馬の世界に関わって成長していくことになる。そんな状態では――――事実が知れるのは、時間の問題だ。
『青葉くんのおかあさんって、すごい騎手だったんだねー』
おそらく何気なしに発したのだろうクラスメイトのその一言が、今こうして、青葉くんや弥生ちゃんを苦しめている。その証拠に、ふたりは出してあげたオレンジジュースにも全く手をつけずにぐずぐずと泣いている。自分たちが予想している最悪の結果を聞きたくないが故に、家にも帰れずにいる。
「おばちゃん、どうしておかあさんは騎手をやめたの? おなかの中にあかちゃんがいるときって、馬に乗っちゃいけないんだって聞いた。おかあさんは、ボクや弥生がいたから騎手をやめたんでしょう? おばちゃん、うちのおかあさんと仲良しだから知ってるでしょう?」
そうやって言う青葉くんの姿を見ていたら、なんだか私まで泣きそうになってしまった。まだたった7歳なのに。うちの純と同い年だというのに、ここまでおかあさんのことを思いやって、そうして悩んでいる。弥生ちゃんだって、まだ小さいなりにおかあさんのことを心配して、そして、泣くお兄ちゃんにつられて泣いている。
同じ子供を持つ親として、そして、母親の親友として。この子たちに、そんなつらい気持ちをさせたくはない。
気づくと、口が勝手に動いていた。
「そうじゃないわ。青葉くん、弥生ちゃん。おばちゃんの話を聞いて」
「……え?」
「あなたたちのおかあさんが騎手をやめたのは、あなたたちのせいじゃないのよ」
その言葉に、弥生ちゃんがいち早く反応する。
「じゃあ、どうしておかあさんはキシュをやめたの?」
まだ小さい弥生ちゃんには、『騎手』という言葉はどこか難しいものなのだろう。少したどたどしくそう発音して、大きな目をこっちに向けてくる。この子は、どっちかと言うとのほほんとした稔くんに似ている。
桜花に近いところにいる人しか知らない引退の真相を、今私は、桜花に最も近い存在であるこの子たちに話そうとしている。
外は、既に暗い。
「おかあさんね、疲れちゃったんだって。騎手ってお仕事は、乗ってくれって頼まれたらたとえ知らない馬にでも乗らなきゃいけないでしょう? おかあさんは、それがイヤになっちゃったんだって」
「どうして? だって、それが騎手のお仕事じゃない」
青葉くんが口を挟む。それもそうだろう。知らない馬であっても、頼まれればそれをチャンスと思って乗るのが騎手の仕事だ。そんなことは、桜花自身よくわかっているはずだ。
それなのに、桜花は騎手を辞めると言った。私も、私の父も、厩舎のスタッフも、そして稔くんも。最初は、その意味がわからなかった。子供が欲しいのであれば、産んでから復帰すればいいじゃないか。何も引退する必要はないじゃないか。あからさまに口に出しはしなかったけれど、みんながそう思った。
桜花の実家側の人は、誰も反対しなかった。
「青葉くん、弥生ちゃん。ちょっと聞くけど、おかあさんのほうのおじいちゃんとおばあちゃんは何のお仕事してる?」
「お馬さん育ててる」
私の質問に、兄妹は揃って返事をした。育て方がいいのか、こういうところはやたらと素直だ。
「そうよね。おかあさんは、小さいころはずーっと、おうちの牧場の馬と一緒だったでしょう? だからね、知らない馬のお世話をするってことがなかったの。もし知らないお馬さんがいたとしても、時間をかけてそのお馬さんと仲良しになるのが、おかあさんのやりかただったの」
脳裏に、あのときの桜花の言葉が蘇る。どうしても納得がいかなかった私が理由を問い詰めたとき、桜花はあっけらかんと笑って言った。
『騎手7年やって気づいたけど、あたし、不特定多数の馬にレースのときだけ乗って力技で勝たせるのはどうも性に合わないみたいなの。それよりも、子供のころみたいにじっくり馬と向き合って、育てていくほうがいい』
そのときの桜花の瞳を、私は忘れることができない。まっすぐに前を見つめる、揺らぐことのない強い瞳。そのときには既に、桜花は次の夢に向かって走り出していたのだ。そうなってしまった桜花を止められる人は、たぶん誰もいない。
そうして桜花は騎手を辞め、調教助手として再び秋本厩舎のスタッフに加わった。青葉くんや弥生ちゃんがおなかにいるときはさすがに産休を取っていたけれど、それでも、ずっと調教助手として馬に携わって生きている。
だから、誰のせいでもない。桜花は今でも元気に馬に乗って、旦那や子供の面倒を見ている。やりたいことだけやって、生きている。
結局、あの子を止められる人間なんているわけがないのだ。
そんなようなことを話しているうちに、泣き疲れて眠くなったらしい弥生ちゃんがこっくりこっくりと舟をこぎ始めた。それに気づいた青葉くんが、妹の頬をつねる。
「あ、こらバカ、寝るな弥生っ」
「ん~……おにーちゃんのいじわるぅ」
「もう、早く帰らないとおとうさんとおかあさん心配するだろ? 起きろ」
まだ寝ぼけ眼といった感じの弥生ちゃんが、その言葉に反応して帰り支度を始める。支度を終えたふたりは手を繋いで玄関へ向かい、見送りに出た私にぺこりと頭を下げる。
「おじゃましましたっ。ほら弥生、帰るぞ」
「はーい。おばちゃん、ばいばい」
「気をつけてね。おかあさんによろしくね」
「はーい……ねえ、おばちゃん!」
玄関のドアを開けかけた青葉くんが、そう言って私を振り返った。どこかで見たことのあるような笑顔で、こう叫ぶ。――――桜花の姿と、またもやだぶる。
「ボクね、大きくなったら騎手になるよ!」
その言葉を残して、ふたりは急いだ様子で帰っていった。可愛らしいその宣言に、思わず頬が緩む。
桜花、あの子たちが家に着いたら、まずは抱きしめてあげなさいね。そうして、どうして騎手を辞めたのか、自分の口から説明してあげてね。
いつか青葉くんが育って、本当に騎手になりたいと思ったときには、自分の実体験をちゃんと語ってあげなさいね。そうして、あの写真を見せてあげて。さっき青葉くんが浮かべた笑顔と、うりふたつの写真を。
リビングに戻り、私はアルバムの最後のページを開いた。
引退レースで勝ったときの桜花の満面の笑みが、そこにはあった。
以上で SHOOTING STARS 完結です。
長い話ですが読んでいただいてありがとうございました。
活動報告にあとがき(サイトに掲載していたもの)を掲載しますので、興味のある方はご覧ください。




