6 - 地獄の底で跪く -
――パン、と。
拍手のような音が聞こえた瞬間、世界が暗転した。
「……あ?」
最初に聞こえたのは波音。
ただし、潮騒と呼ぶにはあまりにも重い。どぷり、どぷりと腹の底に響く音に合わせ、目の前に広がる黒い海が盛り上がっては沈んでいく。まるで海そのものが巨大な生き物になって、呼吸をしているようだった。
「どこだ、ここ」
身を起こしたところで、俺は自分の異常に気づく。
折れたはずの肋骨も、潰された脚も痛まない。服は血で真っ赤なのに、傷だけが跡形もなく消えている。刀もなければ、いつも宙を浮くメダマの姿もない。
代わりに頭上を覆っているのは、見たこともない赤い空だ。そこには漆黒の太陽が浮かび、黒い海を照らすでもなく座している。雨まで降っていたが、雫は墨汁のように黒かった。
「悪夢かよ」
独り言ちてから、さらに悪い夢みたいなものを見つけてしまう。
海岸のそこかしこに半裸の人間がいる。首や手足を鎖に繋がれ、鬼に金棒で殴られていた。煮えたぎる釜の前では、泣いて命乞いする者も。腹を裂かれても死ぬことすら許されず、再び立たされている者までいた。
それら凄惨な光景は、言うなれば――
「地獄?」
「はい正解! いやぁ早い! 実に話が早いね君は!」
「うおっ!?」
突然声を掛けられ俺は飛び上がった。
振り向けば、白髪の少女が立っていた。
年頃は十七歳くらいだろうか。白い長髪が靡く蝋細工めいた顔には、人を食ったような笑みが浮かんでいる。瞳の虹彩は真っ黒で、日蝕のような瞳孔が開いていた。
身に纏うのは黒一色の巫女服。腰には古めかしい飾太刀。地獄には似つかわしくないほどの美貌なのに、不思議と場違いには見えない。むしろ獄卒たちの方が、少女を恐れて道を空けているように思えた。
「いやしかし、派手にやられたね君ぃ! 私ね、途中から見てて思ったもの。もういいだろうと。あそこまでやる必要あるのかと。最後なんて金槌だよ? 金槌! 大工さんじゃないんだから! よく頑張ったよ君は、あんなもの何発も食らってさぁ!」
「……誰だ、お前」
「そこから入るのかい!?」
少女は目を見開くと、なぜか大仰に後ずさった。
「いやいやいや、ちょっと待ちなさいよ! おかしいでしょうよ! 君ねぇ、死んだんだよ? 死んだの! で、目ぇ覚めたら地獄でしょう? だったら普通もっとあるじゃないの! 『俺は死んだのか』とか『なぜ傷ひとつないんだ』とか! そういうのを私は待ってたわけです! それを開口一番『誰だお前』って!」
「一気に喋んな。頭に響く」
「君が誰だって聞くからだろう! こっちは説明してるのに!」
「いいから名乗れってんだよ」
「何だその態度は! 死んで早々ずいぶん元気じゃないか!」
俺が呆れている横で、少女は異様なまでに機嫌よく話し続ける。だが、ふっと表情を変えたかと思うと、今度は芝居がかった仕草で人差し指を立てた。
「まぁいいよ。いいですよ。今日はね、私も機嫌がいいから許すよ。なんでかって? 聞いてごらんよ。聞きなさいよ。……聞かないのかい! いいよもう、言っちゃうから! 君のためにね、とっておきの話を持ってきたんですよ私は!」
少女は咳払いして姿勢を正すと、満面の笑みを浮かべた。
「おめでとう、不来方くん。なんと君には、生き返る機会が与えられまぁす!」
「…………」
「……生き返る機会が与えられまぁす!」
「聞こえてるよ」
「聞こえてるんだったら、もうちょっとあるでしょうよ! 喜ぶとかさぁ! なんなら泣いたっていいんだよ!? 死んだんだよ君は? それが『生き返れます』だ! こんな朗報ないでしょうよ!」
「言い方が怪しいんだよ」
「なんなのよもう! 疑り深いねぇ君は!」
少女は額に手を当てた。
「こっちはね、善意で! まったくの善意で助けてあげようとしてるんですよ! それをさぁ……昔っからそうだよ、人間ってのは。話も聞かないうちから『裏がある』『裏がある』って。そんな世の中裏ばっかりだったらね、表はどこなんっだい!?」
「じゃあタダなのか?」
「いや、条件はある」
「ほら見ろ!」
「当然だろう。契約なんだから」
「契約?」
その言葉を聞いた瞬間、浮ついていた空気が遠のいた。
「そうとも。しかも今回は特別に、選べる豪華仕様ときた!」
少女の宣言とともに地面が膨らみ、そこから三つの塊が飛び出す。
「ここに三匹の怪異がおるじゃろ?」
いずれも真っ黒なスライム状の怪異だった。丸い身体に黒い単眼を持つまで同じだが、一体は生意気にも俺を睨み、もう一体は小馬鹿にするような笑みを湛えている。最後の一体は気味が悪い無表情で目を瞠っていた。
「こいつら見たことあるぞ」
「だろうね。君が助けた子と同じ、私の可愛い眷属ですよ」
少女が三体のスライムを紹介した。
「まずこちら、とにかく頑丈! 殴られようが斬られようがくたばらない! お次はこっち、速い! ちょこまかちょこまか動く! 私でもたまに鬱陶しい!」
「褒めてるのか?」
「褒めてますよ! で、最後のこれ、器用! 使い方次第じゃあね、これがもう便利なんだ! どうだい、選び甲斐があるでしょう? 迷っちゃうでしょう?」
「通販みたいになってんぞ」
「分かりやすいと言いなさいよ!」
少女は俺の反応が気に入らないらしく、さらに魅力を語り続けた。
「一体選んで私と契約すれば、その子は君に付き従う。力も共有できる。君が成長すれば眷属も育つし、眷属が力を増せば君にも返ってくる。いいかい、不来方くぅん。ここ大事よ。ここテストに出るからね。今の君は、弱い!」
「うるせぇな」
「いや弱い! だからこそ強くなるんだ! 私のバックアップによってね!」
そこで少女が妙な顔をして、俺の足元を見た。
「おや?」
「むにゃ」
聞き覚えのある声に視線を落とす。
「お前……」
俺の右足に、四体目のスライムがくっついていた。
烏に囲まれていた、あの怪異だ。目が合うと、嬉しそうに身体を震わせた。
「むにゃん!」
「何でここにいるんだよ」
「いや、それはこっちの台詞だよ! お前、いつ抜け出したんだい?」
少女が詰め寄ると、スライムは俺の後ろに逃げた。
「むにゅっ」
「……ははぁ。こりゃ、気に入られちゃったねぇ」
先ほどまで騒いでいた少女だったが、俺に身体を擦りつける四体目を見ているうち、ふっと口元を緩めた。その瞬間だけは、妙に大人しく優しい笑い方だった。
「お前の眷属だったのか」
「うん。ただねぇ、その子は如何せん不出来なんだ」
「急に酷いな」
「いや、ここは正直に言っておかないと。後で文句言われるし。その子は弱い、遅い、得手もない。先ほど紹介した三体と比べれば、はっきり言ってお勧めできない」
「むにゃ……」
露骨にスライムが萎んだ。
「ほら落ち込んだぞ」
「何で私が悪者なんだ! 事実を言っただけじゃないか!」
「本人の前で言うなよ」
「君はそっちの肩を持つのかい!?」
ひとしきり文句を言った後、少女は諦めたように肩をすくめた。
「……まぁいいですよ。その子は君を選んだみたいだし、君も気に入ったんなら好きにしたらいい。ただし、後から『やっぱ替えてくれ』とか言わないでよ? 返品はききませんからね。クーリングオフもなし!」
「いや、いらねぇ」
「…………え?」
「契約しねぇ」
少女が固まった。ポカンとした顔の後、渋面を晒す。
「今の流れで?」
「ああ」
「いやいやいやいや、ちょっと待ちなさいよ! おかしいおかしい! 君さっき何て言った!? 力が欲しいって言っただろ!? それはもう聞こえたよ! すごい声だったもの! 誰にも負けない力が欲しいって、馬鹿みたいに言ってたじゃないか!」
「言ったよ」
「でしょうほらぁ! だから私がこうして持ってきたんでしょうよ! 蘇生します! 眷属もつきます! なのに『いりません』はないでしょう! じゃあ、なんのために私は来たのよ!?」
「俺は力が欲しいとは言ったけど、お前と契約したいとは言ってねえ」
「細かいなぁ君は! ここにきて言った言わないで済ますとは!」
「とにかく断る。だが断る。絶対断る」
「ああそう、なぁるほぉどね! そういう態度に出るわけだ!」
少女は苛立った様子で白髪を掻き上げた。だがこちらが折れる気配を見せないと、ようやく勢いを抑えて俺を見据えた。
「……理由くらい聞かせろよ」
「お前、怪異だろ。なら《伏魔憑き》も知ってるよな?」
少女は何も言わない。
「数年前、怪異と契約して力を得た護法使いがいた。最初は英雄扱いされたらしいが、最後は自分の力に呑まれて日本を滅ぼしかけた。それで全国の護法使いが結集して、そいつを殺して終わらせた」
伏魔憑き。覚醒者なら嫌でも知っている事件だ。
教習では当時の映像まで見せられる。崩壊した街。何千人もの死者。そして人間だったとは思えない姿に変わり果てた護法使い。
「あれ以来、怪異と契約するのは禁忌になった。同じことやって馬鹿を見るくらいなら、このまま人として死んだ方がマシだ」
「ああ、それ持ち出しちゃうかぁ……」
少女が腰に手を当て、大げさに溜息をつく。
「いや、分かるよ? 分かりますよ、そりゃあね。分かるけどもさぁ、よりにもよって今それ言うかね!? このタイミングで!? せっかく私が助けたっていうのにさぁ! なんなんだ君は、このクサクサボーイめっ!」
「事実だろ」
「事実だから厄介なんだよ!」
「じゃあ余計できねえよ」
「ああ言えばこう言う! 本当に頑固だな君は!」
「頑固も何も《伏魔憑き》だぞ。生き返っても死ぬ運命じゃねぇか」
「だから強くなりなさいよ! この私が手伝うって言ってんの!」
「わかんねー奴だな。だいたい、なんで俺なんだよ」
「それには理由がある!」
「んだそりゃ」
俺の指摘に、少女はしばらく憤然としていたが、やがて俺の足元にいるスライムを見ると、三日月みたいに笑いだした。
「だって君――世界がこうなる前から、私たちに優しかったろう?」
「は?」
頭の中で、何かが引っかかった――世界がこうなる前。
神々が現れ、誰もが怪異を目にするようになるより前。
どうして、こいつがそれを知っている?
「お前、まさか……」
少女は答えなかった。ただ目を細め、慈しむように俺を見ている。
その視線に、たまらなく怖気が走った。
「ダ、ダメだ。なおさら信用できねぇ」
「そうかい」
足元のスライムが残念そうに「むにゃ」と鳴いた。
「悪いな。お前も他を当たれ」
俺はスライムを剥がして地面へ置くと、少女に背を向けて歩き出した。
ここが本当に地獄なら、どこへ行こうと苦しみが待っている。それでも、自分から二度目の《伏魔憑き》になるよりかはマシだ。
「おい」
背後から声がした。諦めの悪い女だ。
「なんだよ」
振り向いた瞬間、少女の顔が眼前にあった。そう理解したときには、閃く刀が俺の顎下から突き上げられ、そのまま頭蓋骨を貫いていた。
「が……ハ……ッ!?」
身体が硬直する。
声を出そうとしても喉が震えるだけで、口内に溢れた血が気道に流れ込む。膝が折れかけた瞬間、胸倉を掴まれ、そのまま無理やり引き立たされた。
少女の顔から、さっきまでの陽気さは消えていた。
「勘違いしちゃあいけないよ、君ぃ」
「ぉ……前……ッ!?」
「君に選ばせてあげたのはね、眷属だけ」
少女は俺の頭を貫く刀をグリッと捻った。
「拒否権なんて、最初からないんだよ」
刃がさらに押し込まれ、激痛で視界が明滅する。
「君は力が欲しいと言った。私が与えると決めた。これは確定事項だ」
「こ、の……ッ!」
俺の意思など、最初から勘定に入れてなかったのか。
少女が視線を落とし、俺を見上げるスライムに命令した。
「入れ」
「むにゃ!」
「ま――」
制止するより早く、スライムが跳ね上がった。
胸元に張りついた黒い身体が液体のように崩れ、俺の皮膚を這うように広がっていく。瞬く間に全身を覆ったかと思うと首筋までせり上がり、そのまま口内へ流れ込んできた。
「ぉぐッ!?」
吐き出そうとしても止まらない。鼻、耳、刀で刺された顎の傷からも黒い液体が侵入する。目を閉じても瞼を押し広げられた。全身の穴という穴から侵入してくる。
「んぼあああ――――ッ!?」
息ができない。肉と骨の間をスライムが這い、臓器の中で這い回る。その感触から逃げようにも、刀で頭を貫かれた身体は動かなかった。
少女が俺の耳元で囁く。
「期待しているよ、不来方くん」
直後、体内のスライムが脈動。
「君は――怪異を統べる王となれ」
「お、あああぁぁぁ――――ッ!?」
俺の絶叫が、赤い空と黒い海を震わせた。




