第一話 迷いのない足音、掠れた声
聞き慣れた電車の音が響く、朝の駅前。
白杖がアスファルトを叩く規則正しい音が、私の世界の輪郭を作っていく。
「右、よし。前方、障害物なし……」
高橋杏奈は、心の中でそう呟きながら、いつもの通学路を確実な足取りで進んでいた。
私の視界は、濃い霧の向こう側のようにひどく曖昧だ。
光の明暗や、近づけば大きな物の輪郭がぼんやりと分かる程度。
だからこそ、私は誰よりも「しっかり」していなければならない。
目が見えないことを理由に、他人に迷惑をかけたり、憐れまれたりするのは絶対に嫌だった。
完璧な白杖さばき、完璧なマナー。
周囲に「手がかかるお荷物」だと思われないこと。
それだけが、私の不自由な身体を支える唯一のプライドだ。
しかしその朝、駅前の賑やかな交差点で、そのプライドに予期せぬ衝撃が走った。
「うおっ、!? あぶねぇな、どこ見て歩いてやがる!」
強い衝撃とともに、私の身体が大きくよろめく。
肩に激しい痛みが走り、手から白杖が滑り落ちそうになった。
相手は、急に曲がってきた大人の男性のようだ。
足音のテンポや衣服の擦れる音からして、スマホでも見ながら歩いていたのだろう。
完全に相手の不注意だ。
駅前の喧騒が、一瞬だけ私を中心に歪んだような気がした。
「あの、大丈夫ですか?」
周囲の誰かが心配そうに声をかけてくれる。
いつもなら、ここで「大丈夫です」と無理に笑ってやり過ごすのが『誰にも迷惑をかけない私』の正しい選択。
だけど、今日の私は違った。
相手の男が、あからさまにこちらを邪魔者として見るような、ひどく冷酷な舌打ちの音を響かせたからだ。
その理不尽さが、私の胸の奥にある頑固な芯を刺激した。
「…そちらこそ、どこを見て歩いていたんですか?」
私は白杖を握り直し、相手の呼吸音がする方向をまっすぐに見据えた。
「私は点字ブロックの上を、正しい速度で直進していました。
よそ見しながら急に曲がってきたのはそちらです。
私が目が見えないからといって、すべてこちらの落ち度にするのは理不尽ではありませんか?」
「はあ? なんだよその態度は! 障害者様だからって偉そうに――」
男の声が怒りで一段と大きくなる。
周囲の空気がピリピリと張り詰めていくのが分かった。
ここで引いたら、自分の足で生きている私を否定することになる。
一歩も引くつもりは無い。私は間違った事を言っていないはずだ。
胸を張って顔を上げる。
その時だった。
「――おい」
低く、地を這うような冷たい声が、男の怒声を真っ二つに切り裂いた。
その声が発せられた瞬間、周囲の喧騒が嘘のようにピタリと止まる。
私の肌が、ゾクりとするような強烈な威圧感を察知した。
声の主の足音が、ゆっくりと近づいてくる。引きずるような、だけど全く迷いのない、奇妙に落ち着いた足音。
周囲の人間が「ひっ……」と小さく息を呑み、サーッと左右に割れていく気配が肌に伝わってきた。
すれ違う誰もが恐怖し、目を逸らすほどの凶悪な目つきと、圧倒的な不良のオーラ。
姿は見えなくても、空気そのものが急速に凍りついていく感覚で、その人物の「恐ろしさ」が分かった。
絡んできた男は、その声の主にじっと睨みつけられただけで、完全に蛇に睨まれた蛙になっていた。
ガチガチと歯を鳴らすような音のあと、男は悲鳴に近い情けない声を漏らす。
「く、くそっ……! 悪かったよ!」
男は捨て台詞を吐くと、逃げるように慌ただしい足音を立てて、一目散に去っていった。
静寂が戻る。私は、自分を窮地から救ってくれた圧倒的な存在感の主に向き直った。
お礼を言わなければ、そう口を開きかけた時。
「……平気か?」
少し掠れた、ひどく短い言葉が降って来た。
周囲を恐怖に陥れた冷徹な響きは消え失せ、そこには不器用な、だけど確かに私を気遣う「温度」が含まれている。
「はい。私は――」
言い終える前に、衣服が擦れる微かな音がして、彼はすぐに背を向けた。
彼はそれ以上何も語らず、人混みの向こうへと歩き去ってしまった。
名前も知らない。どんな顔をしているかも分からない。
ただ、私の耳に残ったのは、周囲が怯えるほど低いのに、なぜかとても静かで、澄んだ響きを持つ男の子の声だった。
♢♦︎♢♦︎
駅前の喧騒を抜け、私はいつものように地元の公立高校の校門をくぐった。
視覚特別支援学校への進学を勧める両親や中学の先生を、「私は普通の人と同じようにやれます」と説得し、猛勉強の末に掴み取った進学。
だからこそ、私は絶対に弱音を吐けない。
初めて向かう移動教室以外は、校内のマップをすべて頭に叩き込んである。
友人たちが「手伝おうか?」と声をかけてくれても、「ありがとう、でも大丈夫」と笑顔で断るのが常だった。
人に迷惑をかけるくらいなら、自分の限界を少し超えてでも完璧でいたい。
教室に入り、自分の席に着く。
机の上にタブレット端末を置き、イヤホンを片耳に装着した。
教科書のデータを音声読み上げソフトで聞きながら、ノートテイク用の点字ディスプレイに指先を走らせる。
これが私の戦闘スタイルだ。
誰の足手まといにならない為の、私の戦い。
昼休みが終わり、次の時間は選択授業のため、別の階にある「視聴覚室」へ移動する。
あそこへ行くのは今日が初めてだ。
いつもなら友人に頼るところだが、今は皆、次の授業の準備で忙しそう。
(大丈夫。さっき頭の中でルートは確認した。一人で行ける)
私は白杖を手に、一人で廊下へ出た。
壁に沿って歩き、階段の位置を足裏で確かめる。
手すりをなぞって、階段を降りる。
そこまでは順調だった。
目的の階に降り立ち、廊下を進んだ。
長い廊下と何度目かの曲がり角。
私は自分が今、何番目の教室の前にいるのか分からなくなってしまった。
おまけに、廊下の向こうから騒がしい足音と、いくつかの怒鳴り声が近づいてくる。
「おい、そこ退けよ!」
「先生にチクったらどうなるか分かってんだろうな!」
男子生徒たちの荒々しい声。
どうやら、この学校で噂に聞く「不良グループ」が揉め事を起こしているらしい。
巻き込まれないように壁に寄り添おうとした、その時。
ガツン、と強い衝撃が私の白杖を襲った。
ふざけ合って走っていた男子生徒の一人が、私の白杖を蹴飛ばしたのだ。
プラスチックの乾いた音を立てて、私の「目」である白杖が、遠くの床へと転がっていく。
「あ、わりぃ。…って、なんだよ、危ねえな!」
謝罪の言葉の後に続く、荒々しい声。
周囲の冷ややかな視線と、助けるのを躊躇するような気配が肌に刺さる。
白杖がどこへ行ったか分からない。
しゃがみ込んで探せば、彼らに踏まれるかもしれない。
だけど、私は背筋を伸ばした。
ここで怯えたら、「公立高校を選んだ私の負け」になる気がしたからだ。
「……危ないのは、廊下を走っていたそちらではありませんか?」
私が凛とした声で言い返すと、廊下の空気が一瞬で凍りついた。
「あ? なんだお前、生意気な――」
男子生徒が声を荒らげ、一歩踏み出してきた気配がした。
その時。
ドゴォン! と、私のすぐ横の壁を強く叩く、凄まじい衝撃音が廊下に響き渡った。
「ひっ……!」
さっきまで威勢の良かった男子生徒が、短い悲鳴をあげる。
廊下に、引きずるような、だけど全く迷いのない、奇妙に落ち着いた足音が響いた。
「……やかましい」
低く、地を這うような冷たい声。
その一言だけで、騒がしかった廊下は一瞬にして静まり返った。
「さ、朔……! いや、俺たちは別に……!」
「消えろ」
短い宣告。
それだけで、不良グループは慌ただしい足音を立てて逃げ去っていった。
また、彼に助けられた。
今朝の駅前と同じ、あの圧倒的な威圧感。
少し掠れた、ひどく短い言葉。
私は驚きで目を見開いたまま、声の主がいるであろう方向を向いた。
彼は無言のまま、数歩歩いた。
カラン、と床からプラスチックを拾い上げる音がする。
そして、私の手元に、コツンと硬い感触が戻ってきた。
彼が私の白杖のグリップを、そっと手の中に握らせてくれたのだ。
間違いない。今朝、私を理不尽な男から守ってくれた人だ。
去ろうとする彼の気配を察して、私は慌てて声を張り上げた。
「――あのっ、今朝はありがとうございました!」
私の言葉が響いた瞬間、彼の足音がピタリと止まった。
廊下に、張り詰めたような沈黙が流れる。
姿は見えないけれど、彼がすごく驚いているということだけは、私にも分かった。
彼の大きな体を縮めるように、衣擦れの音が鳴る。
やがて、私の耳元に、今朝と同じ掠れた声がそっと降ってきた。
驚きを隠すような、だけど、どこか照れくさそうな響き。
「…右手側、視聴覚室。…もう、迷うなよ」
それだけ言い残すと、彼は今度こそ、少しだけ歩調を早めて去っていってしまった。
手の中に残る、白杖の温もり。
「しっかりしなきゃ」と張り詰めていた私の心が、彼の短い言葉によって、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。




