前編
最寄り駅の改札から出て、すぐ傍にあるコンビニエンスストア。そこには、ドーナツを頬張る一条凛の姿があった。邪魔にならないよう自動ドアの脇に立ち、夢中で甘い輪を食べ進めている。
朝からよくそんな重たいものが入るな、と半ば呆れながら眺めていると、ふいに一条の顔が上がった。
「あ」と呟いた彼女の手が止まる。口元へ運びかけていたドーナツを見つめた後、気まずそうにくるりと背を向けた。
俺が歩み寄る頃には、一条は最後の一口を食べ終えたところであった。振り返った彼女と正面から向かい合う。
腰の上まで伸びた絹のような長髪。茶色の瞳は長い睫毛に縁取られ、目つきはきりっと鋭い。すらりと通った鼻筋に、きゅっと結ばれた唇。制服姿の一条は、俺より少し低く、頭のてっぺんがちょうど俺の顎あたりにくるくらいの身長だった。
上目遣いのまま、パチパチと瞬きを繰り返す彼女は、俺からの言葉を待っているようで。
「珍しく早いんだな」
「そっちこそ、寝坊がお似合いなのに。雪でも降るのかしら?」
「今日はあいにく晴れ模様だよ」
優雅にウエットティッシュで拭き取る彼女の口元が弧を描く。
高校のクラスメイト、一条凛。彼女は二人きりになると、決まって俺をからかってくる。口が達者なうえ、俺の反応を楽しんでいるときたものだ。彼女のどこが完璧な人間なのか教えてほしい。確かに成績優秀、運動神経抜群、才色兼備であることは疑いようもないが――。
「ジロジロ見ないでくれる? いやらしいわね。朝早くから尾行して、私の欠点でも探し出そうとしているのでしょうけど無駄よ。私は常に完璧だわ」
「……いい性格してるよ、ほんと。俺は会計の仕事を学校でやろうと思って早く来たんだ。家じゃ集中できねぇしな」
適当な憶測を並べる彼女を流し、俺は溜息混じりでここにいる理由を口にした。因みに会計の仕事とは、文化祭の経費をまとめる作業である。レシート内容を一枚の紙に書き写すだけなのだが、これがまあ面倒で、家でやる気にはなれなかった。
「まだ終わっていないの? ほんとナマケモノさんね」
「知ってたか、ナマケモノの睡眠時間って八時間くらいらしいぞ。なんで、俺はナマケモノではないな」
「睡眠時間ではなく、仕事の遅さを揶揄しているのだけれど。理解力の欠片もないわね」
俺の返しに呆気を取られた一条は、額に手を当て吐息をこぼす。そのやれやれといった様子に俺は鼻を鳴らした。一本取った気がしたから。
ゴミ捨ててくるわね、と一条はコンビニに踵を返す。そこに別れの意味合いはない。また戻ってくることを前提にした彼女の言葉に俺は、
「なんか不思議な関係だよな」
と二人の在り方に感慨がこぼれた。
一条は俺と同じく文化祭委員の一人だった。彼女を主導にして出来上がった『お化け屋敷』は中々の完成度だったと自負している。確かに一条の手腕は見事であったし、完璧だと得意げに話すのも無理はないと思う。ただ、お人好しがゆえに全ての仕事を背負おうとするまでは、だが。
そそくさと戻ってきた一条は俺を一瞥し、隣へ並んだ。やはり一緒に登校する気らしい。コンビニに背を向けた俺たちは、駅のホームから出るため歩み出す。
「んで、そっちは?」
簡潔な俺の問いに一条は怪訝な様子を見せたが、すぐに意図を理解。
「私が早く来たのは勉学のためよ。先生に不明点を教わろうと思って」
「へー、お前でも分からない所ってあるんだな」
「そら人間だもの。学んだのちに人は完璧を歩むのよ」
なるほど、こいつも努力しているのか。
先の言動を失言と思ったのか、足取りを早める一条。
俺は揃っていた足並みを崩さないよう、足に力を入れた。
駅のホームから出た俺たちは、並木通りを横に並んで歩く。高校まではほとんど道なりであるため、脳裏に地図を浮かべる必要はない。ただ無心に足を進めるだけだ。しかし、一応駅前であるここらは車通りも多い。
俺が車道側に移動すると、一条に「その優しさ、古いわよ」と吐かれた。優しさに古いも新しいもあるかよ。
「というか、俺と一緒に居てもいいのか?」
「なに、ずいぶん卑屈ね」
「クラスの嫌われ者だろ、俺って。お前の完璧像に泥を塗るかもしれねぇぞ」
「それは否定しないけれど、まあ大丈夫よ。この時間なら誰にも見られないでしょうし」
現在の時刻は七時四十五分。ちょうど朝練が始まる頃で、ホームルームにはまだ早すぎる時間だ。登校する人数が一番少ない時間帯と言っても過言ではない。確かに同じ制服を前後には見掛けないが、先日俺は教室であれだけの啖呵を切ったわけで。
「私が良いったら良いの。ほら行くわよ」
これ以上何か言ったら拗ねるわ、という視線を食らい、俺は口を噤んだ。
気にも留めないと彼女がそんな様子なものだから、俺もつい調子を取り戻してしまう。
「昨日のお化け屋敷。大反響だったな」
「そうね。でも残念だったでしょう?」
「なにが」
「私のお化け姿を見られなかったこと」
目を細めた彼女の、見透かしたような笑み。自分が他人からどう見られているか分かっている様子だ。まあ確かにクラスで、いや学校の中でも群を抜けて顔が整っているとは思うが。
「いや俺は怖いものが苦手だから、見なくてよかったとほっとしてる」
「怖い、私が? 冗談は顔だけにしなさい」
「まだ恨んでるからな。俺の配役を人面犬にしたの」
「うふ。お似合いだったわよ」
思い出したのか、一条は口元を押さえ、クスクスと笑い出す。
人面犬とは、犬の体に中年男性の顔がくっついた怪異だ。よくもまあ、俺が完璧に熟せると思ったものだ。解せぬ。
一条は口元に笑みを浮かべたまま、耳に髪をかける。
「というか龍之介くん、驚かすの上手すぎるわよ。悲鳴がこっちまで聞こえて、まともに仕事が務まらなかったんだから」
勘弁してちょうだい、と腹を抱えて笑う一条に、俺は苦笑するしかなかった。今日の一条はよく笑う。昨日今日で何かあったのか、ただ機嫌が良いだけなのか、俺に思う所があるのか。本人ではないのでわかり得ないが、聞いてみたさはあった。
喉元まで出かかった問い。それはしかし、背後から響いたペダルを漕ぐ音とともに飲み込むことになった。
「――あれ? 龍之介くん……と一条さんじゃん!」
「あ、おはよう。村山さん」
自転車を漕いでいた同じクラスの女子、村山が俺の横で止まる。村山は車道を走っていたため、左手に居た一条の姿は俺に隠れる形となっていた。
「ふーん」
が、間が悪い事に見られていたらしい。
「一条さん、龍之介くんの前ではそんな顔見せるんだぁ」
「ち、違うわ。これは、その――」
何が完璧だよ。ほんと世話がかかる奴だ。
俺は吐息を零しつつ、熱くなる口元を思うまま動かした。
「俺が変な事を言ったばっかりに、笑われていただけだ。一条が俺なんかの前で笑顔を見せると思うか?」
狼狽える一条に、俺は語気を強めて言葉を被せる。村山は訝し気な視線を俺と一条に向けたが、納得したように頷いた。
「まぁ、それもそうか。じゃあ一条さん。高校まであと少しだけど、一緒に行かない?」
龍之介くんは邪魔、と言外に含ませた村山の言葉に俺は嘆息を零す。
一条のためにここは退くべきか。そう思い、二人から距離を取ろうとした瞬間。
「ごめんなさい。私、龍之介くんと話したい事があるから」
そんな一条の声音が背中に届いた。咄嗟に振り向くと、粛然と佇む一条とそれに唖然とする村山の姿がある。
「そ、そう? 一条さんはほんとお人好しだね……襲われたりしたら私に言ってね」
襲ったりしねぇよ、そんな言葉を俺が吐く前に。
「――龍之介くんはそんな事しないわ」
一条が否定してくれた事が何よりも嬉しかった。




