10.練習の成果
夜の帳が下りた頃、ミーシャはアーニャが幽閉されている牢のある地下へと続く螺旋状の石階段の中頃で蹲っていた。アーニャとの面会はマリィから一切禁止とのお触れが出ているので叶わず、気落ちしながらもせめて近くにという想いで階段に座り込んでいるのだ。
地下牢を守る女の衛兵からのどこか気遣うような視線にも気付かず、床から伝わる冷たい石の感覚が臀部を通じて脳に届く。その感覚がアーニャの境遇と被ったミーシャは本日何度目かわからない涙を静かに流す。
すすり泣く声だけが響く薄暗く冷たい空間に、鈍い甲冑の擦れる音が階上から聞こえてきた。その事に気付いたミーシャは通行の妨げにならないよう、横に逸れながらも体制を変えずに蹲り続けている。階上から下りてきた衛兵はそんなミーシャの姿を見て怪訝な表情を浮かべるが、すぐに興味を失くしたのか地下牢を守る衛兵へと声を掛けた。
「お疲れ様。どう?何か問題はあった?」
「お疲れ様です!いえ、今のところ特には問題は起きておりません」
部下、若しくは後輩と思われる地下牢を守っていた衛兵は一瞬ミーシャの方へ目をやったが、問題の範疇には入らないだろうと判断し報告した。
もう一人の衛兵もそのことに異議はないのか軽く頷き、地下牢の奥、アーニャのいる牢へと目を向ける。
「アーニャ様のご様子は?」
「はい、特に何もなされず大人しくされております。そして体調面も問題はなさそうですが、精神面に関してはなんとも・・・」
少し同情的な色を乗せた声で答えた衛兵は、同じくアーニャのいる牢へと視線を向けた。
「そう。ならとりあえず今のところは大丈夫そうね」
衛兵はそう言うと備え付けられた椅子へと腰を落し、ため息を吐いた。その姿を見たもう一人の衛兵は首を少し傾けながら疑問の声を上げる。
「所で先輩はどうしてここに?確か当主様の私室を警護されていたはずでは?」
後輩からの声に先輩である衛兵はもう一つため息を吐くと気怠げに声を出す。
「あぁ、当主様が人払いをされたからよ。だから一応ここを見に来たのよ」
「人払い、ですか?まさか・・・ベン様、ですか?」
「人払い」という単語からすぐにベンの名を思い浮かべた後輩は恐る恐る先輩に答えを求めた。脳裏にはこのヒルウェスト家では半ば禁句に近い言葉が過る。
「ええ。これから何が起こるかわからないわよ」
皆まで言わずとも後輩が何を言いたいのか理解した、してしまった先輩衛兵は意味深な言葉を呟いたが、この場にいる者には寸分の狂いもなく理解できてしまった。それは「人払い」という単語が出てきた時から、密かに二人の衛兵の会話に耳を傾けていたミーシャも同様である。
「我儘」とつい呟いてしまったミーシャに、聞こえていたのか二人の衛兵が視線を寄越してくるが、反応が無いことで二人は再び会話に戻った。
「このタイミングということは・・・」
「間違いなくアーニャ様関連ね。しかも旦那様の私室へ入られるベン様の様子が少しおかしかったのよ。もしかしたら今までにないレベルのものかもしれないわよ」
何故かしたり顔で頷いて答えた先輩に何とも言えない表情を浮かべた後輩衛兵であったが、最近のベンの挙動は確かにおかしかったな、と思い至り軽く頷いた。
「確かに最近大人しくなられた、と言うより冷たくなられた様な気がって、あ・・・」
フッと、ベンとこの中で一番接触回数の多い司書兼家庭教師であるミーシャに目を向けた後輩衛兵であったが、先程まであった姿が見当たらないことに気が付き思わず声を上げた。その声に同じく目を向けた先輩衛兵であったが「ここにいたって何も変わらないものね。部屋にでも帰ったんでしょう」と気にした素振りも見せず「所で」と別の話題を振る。
そんな姿に「それもそうか」と思い直した後輩はまた先輩との会話へ興じるのであった。
時を同じくした頃、二人の衛兵の話題に上がっていたベンはと言うと、未だに全く気の抜けない状況にいた。何故ならドイルの雰囲気が先程までと、記憶の中での見慣れた姿からかけ離れた、威風のあるものだったからである。その代わり様にノーブルウルフと対峙したときのような冷や汗が背中を伝う。
しかし今更引くことなど出来ないことは理解しているので、心の中で今一度気合を入れてドイルと対峙する。
「さてベン、なぜお前はアーニャが私の気を煩わすことが気に食わないのだ」
机に両肘をついてこちらに顔を向けるドイルが、まるで何か問い詰めるかのような声色で語りかけてくる。その声にベンは内心「その質問、待ってました!」と虚勢を張り気を高める。
「確かにあいつのことは嫌悪しております。今回のこともありあいつを牢から出すなど考えたくもありません。寧ろさらなる罰を望んでいるほどです」
(確かにあいつのことは嫌いです。今回のこともありあいつを牢から出すなど考えたくもありません)
憎々し気な表情から放たれた「さらなる罰」と言う意図しない言葉に背中を伝う汗の量が増えた気がするが、敢えて気にせず畳みかける。ちなみにドイルはベンの発言を聞いても眉を僅かに動かしただけで何も言わずにジッとこちらを見つめていた。
「しかし・・・私はお父様に憂いて欲しくないのです。それに・・・お父様の心を占めるのはあいつではなく私でなくては気に食わない」
(しかし私はお父様に悲しんで欲しくないのです。それにお父様の心を占めるのはあいつではなく私でなくては気に食いません)
「ベン・・・。」
今の言葉は紛れもなく"ベン"の本心であったのだが、口に出すことが不本意なのか徐々に尻すぼみになっていく。逆にそれを聞いていたドイルの目はそれに反比例するようにゆっくり見開いていき、呟くようにベンの名を口から零した。
(ここからだ。ここからは俺の意志だけでは無理だ。"ベン"の意志がこの発言を許してくれない限り・・・!)
脳裏に浮かぶのは、魔法の練習場所へ現れたアーニャを押し倒してしまったことへの謝罪という行為が"ベン"の意志によって阻まれてしまった場面。もし今回もその現象が起こってしまう可能性を危惧しているのである。
(大丈夫、大丈夫だ。部屋で練習したときにはしっかり声に出せた。"ベン"を信じよう!)
そう決心したベンはドイルと視線を合わせて話そうと思っていたが、意志に反して身体は何かに耐える様に俯いた。しかしこの程度の齟齬は想定内であったベンは一息つき、口を開く。
「ですから・・・あいつへの罰で・・・お父様が・・・気を煩わすのであれば・・・私は・・・」
(だからアーニャへの罰でドイルさんが悲しむのであれば俺は・・・)
「我慢します」
(許します)
あれから一体どれほどの時が経ったのだろう。時間の流れがわからないほど緊張感と静寂に満ちたドイルの私室で、ベンは床から視線を逸らすことなく微動だにしなかった。ここから先はドイルからのアクションが無い限り動けないからだ。しかしベンの発言以降何も言わないドイルに対し、心の中には不安や焦燥、困惑といった感情が渦巻いている。
そして当のドイルも目の前で俯いたまま動かないベンを見て何と言えば良いのかわからずにいた。不信感を抱いているのではない。ただ心を占める感情は歓喜、そして我が子であるベンへの愛おしさである。何故今になってここまで自身のことを気に掛けてくれるのか、私はすでにベンに頼りない父親として見限られたのではないのか、そして何よりあそこまで傲慢であった我が子が自分を殺してでも他者の為に何かを行おうという心積もりになったのか、という疑問はあるがそれらさえも今は気にならない。その証拠に「悪魔の子」と呼ばれる出来事以降向けていたベンへの怯えた視線、先程までしていた当主としての真面目な視線とは違い、どこか慈愛の籠った目を向けている。
なら何故ドイルは声を掛けないのか、自身の為に成長した息子を抱いてやらないのか。それはベンが物心ついた頃から今まで、ドイルはここまで真っ直ぐで純真無垢な感情をぶつけられたことが無かったからだ。つまり我が子からの向けられる愛に不慣れであったのだ。
なのでこういう場合どうすれば良いのかわからず困惑しているのである。
「あー・・・そう、か」
いつまでもこうしている訳にもいかないだろう、と何とか口を開いたドイルであったが、結局出てきた言葉は何とも淡白なものであった。それを聞いたベンは「失敗した!?」と内心酷く慌てているのだが、相も変わらず表面上には一切出ていない。
ドイルもドイルで自身の口から出てきた言葉が冷たすぎたと思ったのか、内心少し慌てていた。しかし事この案件に関しては安易に答えるわけにもいかない、と父親としてではなくヒルウェスト家の当主としてベンと向き合う。
「ベン、お前の気持ちは素直に嬉しい。そして私を想ってくれるその気持ちを尊重したいとも思っている」
その言葉を聞いて今まで俯いたままであったベンは面を上げてドイルを見つめながら「これは成功か!?」と心の中で期待を込めた視線を送る。しかしドイルから向けられる視線に罪悪感のようなものが混じっていることに気が付いたベンは嫌な気配を感じる。そしてそれは次のドイルの言葉で確信に変わる。
「しかし、この件に関しては私の一存で決めかねることなのだ。であるからアーニャを地下牢から出すことも罰を与えないことも難しいかもしれない」
「それは・・・」
(どうしてですか!)
ベンからの不満げな声にドイルは自身を案じてくれているのだろうと思い「私は大丈夫だ。辛くないと言えば嘘になるがな。ただお前のその気持ちだけで十分だ」と的外れな言葉を優しく投げかけてくる。そのことに「そうじゃない!」と声を大にして叫びたかったが、ベンは「むぅ」と唸るだけで特には何も反応はしなかった。「それに一番辛いのは・・・」というドイルの呟きを聞いたからだ。
それにベンは「確かに難しいとは言われたが無理、とは言われていないからアーニャが救われる可能性はある」と考えていた。ただ冷静になれば難しい=無理と暗に言われているようなものだとわかるはずであるが、今までの問答に精神的に疲弊していたベンは微かな希望にも縋った。
そしてベンに打てる手が現状尽きてしまっていることもその他力本願な可能性に賭けてしまった一因でもある。
その後二、三言取り留めもないことをドイルと交わしたベンは退室した。まだ出来ることがあるのでは、と後ろ髪を引かれる思いもあったが、アドリブの利き辛いこの身体でアーニャを救ってくれと粘ったとて何が裏目に出るかもわからない、ならこれ以上は愚策か、と自室へと歩を進めた。
その際視界の端で何かが動いた気がしたが、疲れていたベンは一瞥しただけで気に留めることは無かった。




