その20 違うなら寝台に誘うな
ティアナの様子がおかしい。頭を抱えて黙り込んだまま動かなくなってしまった。異変に気付いたザックスは声をかける。
「どうした?」
問いかけても返事がない。覗き込むと瞼を落としている。どうやら座ったまま眠っているようだ。
薬でも盛られたかと思ったが、脈や呼吸は正常だったので、起こさないように気を遣いながら寝台に転がした。
久し振りに会ったティアナは少しやつれ、目の下にはうっすらと隈が刻まれていた。
薬を盛られたというよりも、ザックスと再会したことで緊張の糸が解けたのだろうと推察する。
ティアナはザックスが思った以上に上手く立ち回ってくれていたらしい。
ファブロウェンがティアナを神の御使いとして受け入れたのも、権力者を前にして恐れない態度が功を奏したと思われる。
辺境の生まれで貧しい家庭で育ったというが、ティアナからそういった苦労は見て取れなかった。
十五歳という、まだ少年の域を出ない皇太子の側妃候補に名乗りを上げていたらしいが、権力者に対して恐れを抱かない対応は、彼女が持つ特殊な能力がそうさせているに違いないと考えられる。
横たえたティアナの胸から零れ落ちた緑の石に目をやる。
特別な意味なんて考えずに渡した首飾りだったが、偶然にも効果を発揮してくれた。
ティアナが神殿送りになっていたら、こうして再会するのも困難だっただろう。
お陰でザックスたちは命拾いしている。罪人としての扱いも軽く済んだ。
何しろ王太子への暗殺未遂容疑だ。エイドリックは幽閉としても、側近であるザックスは過激な拷問の末に殺さるはずだ。そうでなくても死なない程度に手酷くやられていた筈なのに、幸いにして爪を剥がれたり腕を折られたりなんてことにはならなかった。
剣を握るせいで太く硬くなった指を伸ばして、乱れた黒髪を綺麗に整えてやる。最後に一房手にしてそっと唇に寄せた。
感謝と敬愛、そして情を孕んだ想いが溢れそうになる。じっと見つめた後、ようやく手を放した。
開かれた扉を潜った時、安堵に揺れた漆黒の瞳にザックスの心は射抜かれた。その瞬間を思い出して胸に手を当てる。
奇跡をみせた彼女に惹かれる輩は多いだろう。そんなつもりはなかったのに、ザックスもそのうちの一人になってしまったようだ。
何よりも彼女の必至さには気持ちを持っていかれてしまう。
王太子相手にたった一人で、よく務めを果たしてくれたと思う。
神に等しい力を見せつけるがただの娘だ。川で体を洗うときに確認したが、背中に羽もついていなかったし、食べて寝て、感情の起伏もある同じ人間だ。
エイドリックに逆らい、敵に塩を送ってしまう行動は、戦いを知らないからこその行動だった。
ティアナの内にあるのは、帰還をあきらる原因となった兵士たちの死なのだろう。
命を救うのに敵味方関係ない、それがたとえイクサルドに大きな被害を齎す重要人物だったとしてもだ。
目の前の救える命を見捨てたと、己を責めるティアナの後ろ姿が今も脳裏から離れない。
「本当に帰れないのか?」
指の背で白い頬を撫でる。
たった一人、異界の地より落とされた哀れな娘。
ザックス達を救ってくれたが、羽を捥がれたティアナ自身が救われる日は永遠に来ないのだろうか。
彼女の言うヴァファルがどこにあるのかザックスは知らない。けれどこの世界ではないことはなんとなく納得していた。
見た目はザックスたちと同じだ。人であることに間違いはないが、どうやるのか分からない不思議な力を持っている。
彼女が使う魔法というものは、ザックスたちにも使いこなす術があるのだろうか。使いこなせるなら、今すぐにでも彼女をこの環境から遠ざけてやりたい。
エイドリックやファブロウェン、そして神殿のどの場所にいてもティアナは守られるだろう。
保護され、奇跡の力を持った存在として祭り上げられる。今後も隠しようのない力を請われ、翻弄され続けるに違いない。
ザックスは、その場所がどこであろうと守り抜くと誓っていた。
それがこの世界に彼女を縛り付けてしまったザックスの償い方でもある。
今更だが、さっさと解放して追い出していればと思わなくもない。その場合、ザックスたちはすでにこの世にいないが。
過ぎた過去はどうしようもない。
それなら救われた命を彼女のために使っても悪くない気がした。
ザックスは眠りに落ちたティアナの傍らで、その姿をじっと見つめていた。
※
「ぅん……」
まどろみから覚めて瞼を持ち上げると、薄暗い部屋の中だった。
小さなランプの光だけが頼りで、魔法による光源は失われていた。
いつの間に眠ったのだろう。ま額に手を乗せ、ふと大きな影が側にあるのに気付いて身を起こした。
影は寝台に腰を下ろし、俯いた状態で瞼を落としている。
「これじゃいけない。ザックスさん」
疲れている彼に譲るべきなのに。
ティアナは慌てて寝台を降りる。
眠れない夜が続いていたが、ザックスの顔を見て安心してしまったようだ。
いつの間にか寝入って、酷い扱いを受けて弱っている彼を蔑ろにしてしまった。
焦っていると、身動きしたティアナに気付いたザックスが目を開いた。
「起きたのか」
「ごめんなさい、話の途中で眠り込んでしまったみたいで。お譲りしますのでここで休んで下さい」
ティアナが何をしようとしているのか気付いたザックスは、ちょっと待てと肩を押して動きを封じた。
「女性を差し置いて眠れるわけがないだろう」
「そんなこと気にする必要はありません。ザックスさんは疲れを癒やさないと。どうしてもとおっしゃるなら一緒に寝ますか?」
寝台はザックスとティアナが並んで眠っても十分な広さだ。
ティアナの提案に、ザックスが目を見開く。彼の言いたいことに気付いたティアナは「大丈夫です」と続けた。
「ザックスさんとは二晩一緒に眠って、紳士だというのはよく分かっていますから」
「あの時はお前を逃がさないのと、男所帯に迷い込んだ娘にちょっかいを出す輩がいては困るから見張っていたんだ。状況が違う」
「でも、信じてますよ?」
頼る人は彼しかいないし、不埒なことを警戒する場面でもない。
信用しきっているので、いらぬ心配をされてきょとんとしてしまう。
警戒心はどこに行ったのだろうと思われるかもしれないが、ティアナにとってザックスは、不安でたまらない時にようやく戻ってくれた頼れる男性だ。疑う余地などない。
首を傾げたティアナにザックスが大きな溜息を落とした。
「お前はいい大人だ。抱いて欲しいならそう言え。違うなら寝台に誘うな」
大真面目に諭されて、首を傾げていたティアナは顔から火を噴く。
信用しているし疑っていない。だからって言うべきではないことを口にしてしまったと気づいた。
考えなくても分かることだ。まったくどうかしている。ティアナは恥ずかし過ぎて何も言えなくなった。
「理解してもらえたか?」
こくこくと、何度も頷いて、ごめんなさいと真っ赤になったまま頭を下げる。
「俺はこれから殿下の無事を確認して来る。夜明け前には戻るからしっかり寝ておけ」
言うなりザックスは、物音一つ立てずに寝室の窓を開け、するりと夜の闇に体を忍ばせた。
ここは三階だ。
ティアナは慌てて窓の下を覗いたが、ザックスの姿は見当たらない。
魔法を使ったわけでもないのに、驚くべき身体能力の高さだ。
ザックスの不在を知られてはいけない。
ティアナは寝室の扉に耳を当て、人の気配を探った。
ザックスは言葉通り夜明け前に戻って来た。
跳び下りた窓から再び姿を見せたザックスは、扉にぴったりと張りつけているティアナを見つけると、「何をやっているんだ?」と妙なものを見る視線を向けた。
翌日から、恒例になっていたファブロウェンとの夕食は中断された。
食事は全て部屋に運ばれるのでザックスと共にする。
日中はマリアが出入りしては何かとティアナの世話をしようとするが、特にすることもなく引き籠っているティアナに焼く世話もたいしてない。
夜になると二人で寝室にこもった。
辺りが寝静まると、ザックスは窓から抜け出して闇にまぎれて行く。
エイドリックが王太子暗殺を企てた……と、偽の証言をした者との接触を試みていたのだが、男に辿り着いた時には毒を飲んで自害した後だった。
大事な証人として生かしておくべき存在だったはずなのに、何者かに毒を飲まされたと思われる。
神の御使いとして現れたティアナ、そしてザックスの解放と続いたせいで、接触して証言を覆されてはと処分された可能性が大きかった。
ザックスは深夜に出かけ、夜明け前に戻ってくるので、ティアナはその時間以降ザックスに寝台を譲るようにしていた。
忠告されたので同衾しようなんて二度と口にしない。
ザックスは同じ寝台を使うのにもいい顔をしなかったが、居間の長椅子に寝転がっているのをマリアに見られるよりはと大人しく頷いた。
ザックスによれば、エイドリックは城の敷地内にある塔の最上階に幽閉されているとのことだ。
部屋から出たり面会は許されていないが、拷問されるでもなく王族としての扱いを受けている。
王太子暗殺未遂の証人が死んでしまって、処刑の可能性はわずかにも無くなったが、偽りだと証言させることはできなくなった。
「証人が死んだのなら、自由にして貰えるよう訴えないんですか?」
ザックスが最初に塔に向かった夜、エイドリックは逃げ出すことで疑惑が増すことを望まず、そのまま残った。
それはティアナも正しい選択だと思うが、ファブロウェン暗殺を企てた証人が亡くなった今となっては、解放されてもいいのではないか。
「殿下は王太子自らが撤回されるのを望んでおられるんだ」
「タフスの問題もあるのにそんな悠長でいいんですか?」
弟を厭い、自国の砦や領地を敵に渡してまでもエイドリックを殺してしまおうとした人だ。逃げた……というか、ティアナが逃がしたイシュトが言ったように、これからタフスが軍を率いて戦いを仕掛けて来たらどうするのか。
砦に残ったロヴァルス将軍の姿が脳裏に浮かび、ティアナは服の上から首飾りについた石を握り締めた。
「それだが、どうやらタフスは使者をたてこちらへやって来るらしい」
「使者?」
何のためにとティアナが首を捻る。
「戦いを仕掛けて来たタフスが負けたんだ。その保証の話し合いに、タフスの王の使者がイクサルドへやってくる」
「保証って、損害賠償ですか?」
戦いに勝つとそんなものが貰えるのかとティアナは感嘆したが、大軍を率いてやって来たタフスがあっさり引くという状況にも驚いた。
「平和なら何よりですけど」
「タフスにもお前の噂が流れたようだ。これ以上仕掛けてもイクサルドを簡単に手に入れられないと判断したのだろう」
ティアナの癒しは完璧で、大風の力は驚異となる。
「戦いが長引けば負けた時の賠償も跳ね上がる。勝つまでやるなら長い戦いになるしな。民の生活と利益を天秤にかけるなら正しい判断だ。あの男を癒やした奇跡がさらに拍車をかけたのかもしれん。タフスが軍勢を率いて乗り込んできたら、互いに多くの被害が出る。奴を生かしてよかったな」
ザックスの言葉に、ティアナはイシュトを逃がした時のエイドリックを荒れようを思い出した。
「エイドリック様は許して下さるでしょうか」
あの日から口を聞いていない。近寄りがたい雰囲気で、ティアナに一瞥をくれることもなかったのだ。
城に着いて最後の最後に気遣う視線を寄こしてくれたが、ティアナの犯した罪を帳消しにしてくれたわけではない。
気落ちするティアナにザックスは、エイドリックはティアナに対して怒っているわけじゃないと口添えた。
「あの男の状態が悪いと分かっていて、寄り添うのを許したのは俺や殿下だ。死の床でお前が何をしでかすかなんて分かっていたのに敢て見過ごした。殿下も分かっていたくせに、いざとなると頭に血が上ったんだろう。なにしろお前は殿下のもとに落ちて来た御使いだ」
エイドリックもザックスも、ティアナが神の意思でこの世界に落ちたなんて思っていない。
けれど状況からしたら、例え比喩であってもそうなのだ。
そしてティアナも、ファブロウェンの信仰心につけ込んでいる。
「その御使いが殿下の意思を無視して敵国の王子に慈悲を与えたもんだから、勝手に裏切られたような気分になったのさ。今の殿下はお前に怒っているんじゃない、身勝手な怒りのままにお前を傷付けた自身に怒りを抱いているんだ。あの男を逃がしたのはお前を奴から遠ざけなかった俺や殿下の落ち度だ。気にするな、そのうち殿下の方から頭を下げて来る」
でも――と言いかけたところで扉が叩かれ、ティアナは瞬時に口を噤んだ。
「よろしいでしょうか」と扉の向こうから声がして、ザックスが扉を開くと、不安そうなマリアが立っていた。
「王太子殿下より、ティアナ様へお誘いがかけられております」
マリアの縋る瞳は断ってくれるなと語っていた。




