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3/3

第3話 地の底で

最初に感じたのは、痛みだった。


「……っ!」


 ラティスはうめき声を漏らし、ゆっくりと目を開けた。


 だが、何も見えない。


 何が起きたのか、すぐには思い出せなかった。


 崩落。巨大な魔物。逃げる仲間たち。そして、足元が崩れた瞬間。


「……そうだ。落ちたんだ」


 ラティスは起き上がろうとした。


「ぐっ……!」


 左脚に激痛が走った。


 思わず身体を丸める。息をするだけでも脇腹が痛んだ。


 しばらく動けずにいたが、ようやく呼吸が落ち着くと、震える手で脚を確かめた。


 太腿のあたりが濡れている。


 指先についたのは血だった。


「……まずいな」


 服が裂け、脚には深い傷ができていた。


 ラティスは上着の裾を破り、傷口に押し当てた。布で押さえながら、どうにか固定する。


 それだけで額から汗が噴き出した。


 腰に手を伸ばす。


 携帯用の魔石灯は砕け、使い物にならなくなっていた。


「ロイグさん!」


 ラティスは頭上に向かって叫んだ。


「カイルさん! 誰か!」


 返事はなかった。


 声が暗闇に響き、再び静寂が戻ってくる。


 もう一度叫ぼうとして、咳き込んだ。脇腹がひどく痛む。


 ラティスは口を閉じた。


 まずは状況を確かめよう。


 手探りで周囲を調べると、背後には崩れた岩が積み重なっていた。


 どうやら途中の斜面を滑り落ち、ここまで転がってきたらしい。


 登れないだろうか。


 近くの岩に手をかけた。


 その途端、頭上から小石が落ちてきた。


 続けて、岩同士が擦れる音がする。


 ラティスは慌てて手を離した。


 崩落したばかりの岩場だ。下手に登れば、また崩れるかもしれない。


「……無理か」


 助けを待つべきだろうか。


 ロイグたちなら、きっと自分を探してくれる。


 だが、あの巨大な魔物がいる以上、すぐに救助が来るとは限らない。


 何より、脚からはまだ血が滲んでいる。


 ここで何時間も待てるとは思えなかった。


 ラティスはゆっくりと息を吐いた。


 そのとき、先日の調査を終えた後、ロイグに言われたことを思い出した。


 ――逃げ道がなくなったら、どう判断する。


 あのときは、何も答えられなかった。


 今だって、正しい答えは分からない。


 それでも、このまま何もしないわけにはいかなかった。


「……動こう」


 ラティスは床に手をつき、ゆっくりと身体を起こした。


 そして、ふと指先を止めた。


 床が妙に滑らかだった。


 普通の岩盤なら、もっと凹凸があるはずだ。


 手を伸ばしてみる。


 硬く、冷たく、継ぎ目がほとんどない。


「これ……」


 先ほど見た黒い壁。


 あれと同じ材質ではないだろうか。


 もしそうなら、自分は古代施設の一部に落ちたことになる。


 そう考えたとき、暗闇の向こうに小さな光が見えた。


 青白い光だった。


 目を凝らすと、細い線のようなものが壁に沿って続いている。


「……なんだ、あれ」


 ラティスは壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


 左脚に痛みが走る。


 それでも、どうにか歩くことはできそうだった。


 光のある方向へ、一歩ずつ進んでいく。


          *


 やがて、周囲の様子が少しずつ見えてきた。


 ラティスが歩いていたのは、細長い通路だった。


 壁も床も黒灰色で、ところどころに青白い光の線が走っている。


 その表面には、岩を積み上げたような継ぎ目がない。


 古代施設。


 間違いない。


「こんなものが、町の地下に……」


 いつもなら、興奮していたに違いない。


 だが、今は出口を探すことが先決だった。


 通路の先には、いくつかの分かれ道があった。


 ラティスは足を止め、顔を上げた。


 頬にわずかな冷たさを感じる。


 風だ。


 試しに床の埃を指で払うと、細かな粒が一方向へ流れていった。


 どこかで空気が動いている。


 坑道で働いていれば、こうした小さな変化に気づくようになる。


 風が通るなら、その先にも空間が続いているはずだ。


 出口につながっている保証はない。


 それでも、手当たり次第に進むよりはいい。


「こっちだな」


 ラティスは風の流れる通路を選んだ。


 歩くたびに脚が痛んだ。


 何度も壁にもたれ、呼吸を整えながら進む。


 やがて、通路の先から物音が聞こえた。


 カリ、カリ。


 何かが硬いものを引っかいている。


 ラティスは足を止めた。


 そっと壁の陰から覗く。


 青白い光の下に、四つ脚の生き物がいた。


 犬ほどの大きさだ。


 灰色の毛はまばらで、口元には長い前歯が突き出している。白く濁った小さな目を持ち、鼻先を床に押しつけるようにして歩いていた。


 魔物だ。


 ラティスの背筋に冷たいものが走った。


 あの大きさなら、カイルにとっては大した相手ではないのかもしれない。


 だが、無位の自分には十分すぎる脅威だった。


 ラティスはゆっくりと後退した。


 そのとき、足元の小石が転がった。


 カツン。


 魔物が顔を上げた。


 ラティスは息を止めた。


 魔物はしばらくこちらを向いていたが、すぐには襲ってこなかった。


 代わりに、鼻をひくつかせながら歩き始める。


 こちらを探しているのだろうか。


 ラティスは近くの石片を拾った。


 そして、魔物から離れた横道へ投げた。


 石が床を跳ね、大きな音を立てる。


 魔物はすぐさまそちらを振り向いた。


 そのまま、音のした方へ駆けていく。


「……やっぱり」


 少なくとも、音には敏感らしい。


 ラティスは魔物が離れた隙に、壁沿いに歩き出した。


 できるだけ足音を立てないように。


 だが、しばらくすると背後から低い唸り声が聞こえた。


 振り返る。


 魔物がこちらを向いていた。


 鼻をひくつかせている。


 ラティスは自分の脚を見た。


 布には血が滲んでいた。


「……匂いか」


 魔物が走り出した。


「くそっ!」


 ラティスは壁に手をつき、必死に前へ進んだ。


 しかし、脚が思うように動かない。


 背後から爪の音が近づく。


 振り返った瞬間、魔物が跳びかかってきた。


「うわっ!」


 ラティスは横に倒れ込んだ。


 魔物の爪が壁を引っかき、耳障りな音を立てる。


 その隙に立ち上がろうとしたが、脚に激痛が走った。


 もう一度逃げようとしても、間に合わない。


 ラティスは腰の小刀を抜いた。


 刃渡りの短い、作業用の小刀だ。


 こんなもので倒せるとは思えない。


 それでも、何もしなければ食われる。


 魔物が再び身を低くした。


 そのとき、ラティスは魔物の足元に散らばる石片に気づいた。


 ラティスはそれを掴み、魔物の鼻先へ投げつけた。


 魔物が反射的に顔を背ける。


 その一瞬を逃さず、ラティスは立ち上がった。


 脚が悲鳴を上げる。


 それでも、止まらなかった。


 通路の先に、大きな扉が見えた。


 黒い壁に埋め込まれた分厚い扉だ。


 片側が歪み、人ひとり通れるほどの隙間が開いている。


 ラティスはそこへ身体を滑り込ませた。


 背後で魔物の爪が床を叩く。


 追ってきている。


 ラティスは必死に部屋の奥へ進んだ。


          *


 扉の向こうは、広い部屋だった。


 壁には見たこともない器具が並び、床には黒い破片が散らばっている。


 部屋の中央には、細長い台が置かれていた。


 ラティスは近くの器具の陰にしゃがみ込んだ。


「はあ……はあ……」


 息が苦しい。


 左脚はほとんど感覚がなくなっていた。


 入口から爪の音が聞こえる。


 魔物が部屋に入ってきた。


 ラティスは口を押さえた。


 頼む。


 気づかないでくれ。


 しかし、魔物は迷わずこちらへ向かってきた。


 鼻先を床に近づけ、血の跡を辿っている。


 ラティスは歯を食いしばった。


 このままでは見つかる。


 他に隠れられる場所はないだろうか。


 視線を巡らせ、中央の台に目を止めた。


 近づいてみると、台の上部には透明な覆いがあり、その一部が開いていた。


 人が横になれるほどの大きさだ。


 中に入れば、少なくとも魔物の爪を直接受けずに済むかもしれない。


 だが、あれが何なのかは分からない。


 何より、逃げ場を失うことになる。


 ラティスは入口を振り返った。


 魔物がこちらを見つけた。


 白く濁った目が向けられる。


 もう、迷っている時間はなかった。


「……頼むぞ」


 ラティスは最後の力を振り絞り、台まで走った。


 そして、開いていた覆いの内側へ身体を滑り込ませた。


 背後で魔物が床を蹴る。


 ラティスはとっさに頭を抱えた。


 その瞬間。


 カチリ。


 小さな音がした。


 台の側面に、青白い光が走る。


「……え?」


 次の瞬間、開いていた覆いが動き始めた。


 ラティスは驚いて身を起こそうとした。


 しかし、覆いはそのまま閉じていく。


 魔物が跳びかかってきた。


 鋭い爪が、目の前まで迫る。


 ガンッ!


 激しい音が響いた。


 魔物の爪が、閉じた覆いに叩きつけられていた。


 ラティスは思わず目を閉じた。


 だが、痛みはなかった。


 恐る恐る目を開ける。


 魔物が覆いの向こうにいた。


 何度も爪を立てているが、透明な表面には傷ひとつついていない。


「……助かった?」


 ラティスは呆然と呟いた。


 そのとき、台の内側から低い音が響いた。


 身体の両側から細い器具が伸び、腕や脚に触れる。


「な、なんだよ、これ……!」


 慌てて起き上がろうとしたが、身体が動かなかった。


 柔らかい何かが、全身を押さえつけている。


 台の周囲で、青白い光が次々と灯り始めた。


 古代の装置が動いている。


 どうして動き始めたのかは分からない。


 装置の内部で何かが回転し始め、耳障りな高い音が響いた。


 魔物はしばらく覆いを引っかいていたが、やがてその音を嫌がるように後ずさった。


 ラティスはそれを見届け、少しだけ息を吐いた。


 しかし、安心したのも束の間だった。


「があああっ!」


 左脚に激痛が走った。


 傷口の奥に、熱いものを流し込まれたようだった。


 痛みは脚から脇腹へ、そして胸へと広がっていく。


 ラティスは叫んだ。


 何が起きているのか分からない。


 ただ、身体の内側で何かが変わっていく。


 そんな感覚だけがあった。


 やがて、焼けるような痛みが少しずつ弱まった。


 その代わりに、胸の奥に奇妙な温かさが生まれた。


 ラティスは荒い息を吐いた。


 何だ、これは。


 温かい何かが、身体の中を流れている。


 胸から腕へ。


 腕から指先へ。


 そして、脚へ。


 まるで、自分の身体の中に新しい道ができたようだった。


 ラティスはその感覚を確かめようとした。


 だが、思うように意識を集中できない。


 身体が重い。


 視界がぼやけていく。


 それでも、右手首に走ったかすかな冷たさだけは、妙にはっきりと感じられた。


 先日、坑道から帰る途中にも感じた、あの奇妙な冷たさだ。


「……なんだ、これ……」


 そう呟いたのを最後に、ラティスの意識は途切れた。


     *


 次に目を開けたとき、部屋は静まり返っていた。


 ラティスはしばらく天井を見つめていた。


 生きている。


 それに気づくまで、少し時間がかかった。


 身体を覆っていた透明な蓋が、音もなく開いていく。


「……なんだったんだ、今の」


 ゆっくりと起き上がった。


 そして、違和感を覚えた。


 左脚が痛くない。


 いや、正確には少し痛む。


 だが、さっきまでの激痛とは比べものにならなかった。


 ラティスは慌てて傷口を確かめた。


 服には血がこびりついている。


 しかし、深く裂けていたはずの傷は塞がっていた。


「……嘘だろ」


 恐る恐る脚を動かす。


 動いた。


 台から足を下ろし、ゆっくりと立ち上がってみる。


 少しふらついたが、立てた。


 あれほどの怪我をしていたのに。


 ラティスは目の前の装置を見つめた。


 これが、自分の傷を治したのだろうか。


 そんなことができるものが存在するなんて、聞いたこともなかった。


 だが、それ以上に気になることがあった。


 ラティスは自分の胸に手を当てた。


 まだ、感じる。


 身体の内側にある、温かな流れ。


 意識を向けると、それがほんの少しだけ強くなった。


 指先がかすかに熱を帯びる。


「……これって」


 ラティスは息を呑んだ。


 何度も冒険者たちの戦いを見てきた。


 カイルが剣に魔力を巡らせる姿も、魔法使いが術を放つ姿も。


 彼らが何をしているのか、頭では理解していた。


 だが、自分自身が魔力を感じたことは一度もなかった。


 それなのに、今は。


「……魔力?」


 右手を握りしめる。


 七歳のとき、初めて位階の判定を受けた。


 判定石は光らなかった。


 もう一度試しても、結果は同じだった。


 それから十年間、ラティスはその判定を覆せないままでいた。


 冒険者に憧れても、自分には戦う力がない。


 坑道で役に立つことはできても、魔物が現れれば仲間に守ってもらうしかない。


 先日の調査でも、ロイグにそうした現実を突きつけられた。


 悔しかった。それでも、何も言い返せなかった。


 自分に魔力がないのは、事実だったからだ。


 だが。


 ラティスはもう一度、胸の奥に意識を向けた。


 温かな流れが、確かにそこにあった。


「……あったんだ」


 思わず言葉が漏れた。


「俺にも、あったんだ……」


 胸の奥が熱くなった。


 魔法を使えるようになったのかどうかも分からない。


 それでも、十年間感じることのできなかったものが、今は確かに存在している。


 ラティスはしばらく、自分の手を見つめていた。


 そのときだった。


 ガリ...ガリ...


 聞き覚えのある音がした。


 ラティスの表情が強張った。


 部屋の入口に、白く濁った目が浮かんでいた。


 あの魔物だ。


 どうやら、まだ近くをうろついていたらしい。


 魔物は床の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりとこちらへ向かってきた。


 ラティスは一歩後ずさった。


 傷は塞がっている。


 だが、身体はまだ重かった。


 それに、魔力らしきものを感じられるようになったからといって、使い方が分かるわけではない。


 目の前の魔物を倒せるようになったわけでもなかった。


 ラティスは腰の小刀を抜いた。


 魔物が低く唸る。


 逃げ道を探して周囲を見渡す。


 入口は魔物の背後にある。


 先ほどの装置に戻ることも考えたが、あれが再び動く保証はない。


 それに、いつまでも隠れているわけにはいかなかった。


 ラティスは小刀を握り直した。


 手は震えていた。


 それでも、目だけは魔物から離さなかった。


 ここで死ぬわけにはいかない。


 ようやく、何かが変わったのだ。


 自分にも魔力があるのかもしれない。


 今まで諦めるしかなかったことが、できるようになるのかもしれない。


 その可能性を確かめる前に、死ぬわけにはいかなかった。


「……生きて帰る」


 ラティスは小刀を構えた。


 魔物が身を低くする。


 その瞬間、胸の奥で、温かな流れが再び動き始めた。


 ラティスは目を見開いた。


 今度は、はっきりと分かった。


 その流れは、間違いなく自分の身体の中にある。


 どうすればいいのかは分からない。


 それでも、ラティスは必死に意識を集中させた。


 魔物が距離を詰めてくる。


 ラティスは小刀を握りしめた。


 そして初めて、身体の奥にあるその力を、自分の意思で動かそうとした。

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