第1話 異変
石片が頬をかすめた。
乾いた音が耳元で弾け、足元に小さな欠片が転がる。ラティスは反射的に顔を上げた。
坑道の天井は低く、黒ずんだ岩肌のところどころに木製の支柱が立っている。壁に取り付けられた魔石灯が、湿った岩と荷車の車輪をぼんやりと照らしていた。灯りの届かない奥では、坑道が黒い穴となって続いている。
頭上からは、さらさらと砂が落ちていた。
「止まってください!」
前を歩いていた作業員が振り返る。荷車を引いていた男も、何事かと手綱を緩めた。
「ちょっと待ってください。荷車を動かさないで」
「どうした?」
先頭にいたロイグが足を止めた。厚い革の胸当てに、使い込まれた剣。背負った荷物は大きく、歩き方にも無駄がない。いくつもの坑道や遺跡を踏破してきた冒険者の姿だった。
ラティスは頭上を指さした。
「ロイグさん。ここの支柱、確認してもらえますか」
「どこだ」
「この支柱です。根元から砂が落ちています。それと、さっき荷車が通ったとき、奥の壁からも音がしました」
ロイグは腰の袋から小さな照明器を取り出した。支柱の根元を照らし、木材の表面を指で押す。黒ずんだ木肌の隙間から、細かな砂がこぼれた。
「音?」
「石が擦れるような音です。いつもの坑道の響き方と違います」
ラティスは耳を澄ませた。
水滴の落ちる音。荷物の金具が触れ合う音。
それらの向こうで、低い軋みが聞こえた。
気のせいではない。さっき荷車が通った瞬間、壁の奥から同じ音がしたのだ。
ロイグは支柱から手を離すと、隊員たちを見渡した。
「荷を下ろせ。左の旧作業通路から回るぞ」
進行方向の少し手前、左側の壁には人ひとりがかがめば通れるほどの横穴が開いていた。古い採掘作業で使われていた通路だ。足場は狭いが、持参した略図では崩れかけた支柱の先で主坑道に合流することになっている。
ラティスはその横穴と、目の前の支柱を交互に見た。
確かに、あちらを通れば危険な区間を避けられる。
「そんなに危ないのか?」
荷車を押していた男が、不安そうに尋ねた。
「少なくともこちらの方が安全だ」
ロイグは短く答えた。
隊員たちは荷車から木箱を下ろし、二人がかりで横穴へ運び始めた。車輪が岩に引っかかるたび、金属の軸が嫌な音を立てる。ロイグが先に入り、足元を確かめてから後続を呼んだ。
隊列が動き出したとき、カイルがラティスの横を通った。
「へえ。荷運びにしては目が利くじゃないか」
「運がよかっただけです」
「そうだな。運だけはな」
カイルは口の端をわずかに上げ、先へ進んだ。
背中には使い込まれた剣。歩調には迷いがなく、薄暗い通路でも足場を確かめる動作に無駄がない。第二位階の戦闘員であり、ラティスよりもずっと多くの魔物と戦ってきた男だった。
ラティスは言い返さなかった。
今は荷物を運ぶ。それが自分の仕事だ。
やがて道幅が広がり、岩肌に埋もれるようにして古い石造りの扉が現れた。表面には文字とも模様ともつかない線が刻まれている。扉は半ば開いた状態で固まっており、その向こうに小さな部屋が見えた。
今回の調査目的である、古い保管区画だった。
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部屋の壁は、坑道の岩肌とは明らかに違っていた。
継ぎ目の少ない黒灰色の壁面。角は鋭く、長い年月を経たはずなのに、表面には目立った崩れがない。天井の一部は落ちていたが、床には大きな石片がほとんど散らばっていなかった。
部屋の奥に、細長い箱のような物体が置かれている。
ラティスの前を歩いていたエルナが、持っていた記録帳を開いた。
「これが今回の回収品か」
ロイグが物体を見ながら言った。
「そうだ。持ち帰って状態を調べる」
それはラティスの腕ほどの長さがある、黒い器具だった。表面に継ぎ目も取っ手も見当たらない。側面には細い溝がいくつも並んでいるが、何のためのものかは分からなかった。
これが古代の照明器だという。
現在の職人が作る魔石灯なら、魔石を収める場所や、光量を調整する部品がある。だが、この器具にはそれらしい部分が見つからない。どうやって光を生み出すのかも、どれほどの魔石を使うのかも不明だった。
それでも、古代の遺物には現在の技術では再現できないものがある。動かなくても、失われた構造を知る手がかりになる。だからこそ、こうして危険を冒して回収するのだ。
「運搬の準備を頼む。傾けるなよ」
「はい」
ラティスは運搬用の台車を物体のそばに寄せた。柔らかな布を敷き、器具の重心を確かめながら、二人の作業員と一緒にゆっくり持ち上げる。
「下に合わせろ」
「はい。少しだけ、こっちを上げてください」
台車の上で器具がわずかに滑った。ラティスはすぐに手を添え、布の位置を直す。黒い表面は見た目より冷たく、指先に硬い感触が残った。
「これで大丈夫です」
「よし」
ロイグは器具を一度確認し、周囲に視線を向けた。
「ほかに何かあるか」
エルナは壁際を調べながら、首を横に振った。
「記録らしいものは見当たりません。ここは保管場所というより、途中の作業区画だったのかもしれません」
「分かった。持ち帰るものはこれだけだ」
ラティスは台車の固定具を締め直し、荷物が揺れないことを確かめた。
これで調査は終わりだ。
そう思って、部屋の出口へ向かおうとしたときだった。
「ロイグさん」
ラティスの目が、部屋の奥に続く細い通路で止まった。
「今度はどうした」
「これ、見てください」
壁の低い位置に、何本もの線が刻まれていた。
爪で引っかいたような傷だった。岩を削った傷にしては深く、表面の欠片が床に落ちている。照明器をかざすと、傷の縁が白く浮かび上がった。
「これ……新しいんでしょうか」
カイルが近づき、しゃがみ込んだ。指で触れることはせず、照明器を傾けて傷の奥を確かめる。
「古い傷なら、もっと表面が崩れていてもおかしくないな」
「魔物か」
ロイグが尋ねる。
「可能性はあるな」
カイルの声から、さっきまでの軽さが消えていた。
通路の先は暗く、照明器の光も数歩進んだところで途切れている。風は吹いていない。物音もしない。それなのに、奥へ続く闇は、ただの空洞には見えなかった。
ラティスは一歩、前に出た。
あの先には何があるのだろう。
古い施設の別の部屋か。それとも、まだ誰も見たことのない遺物が残されているのか。
「今日はここまでだ。照明器を持って戻る。奥は別の隊を組んで調べる」
ロイグの声に、ラティスは足を止めた。
「でも、通路の先を少しだけ――」
「今は何がいるか分からん。照明器の回収は済んだ。ここで無理をする理由はない」
ロイグはそれ以上、説明しなかった。
「撤収するぞ」
隊員たちが動き出す。台車の車輪が石床を転がり、照明器の光が壁を滑っていく。
ラティスは、最後にもう一度だけ通路を振り返った。
闇の中には何も見えない。
それでも、あの先を自分の目で確かめたいという思いは消えなかった。
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町へ戻るころには、坑道の外は夕暮れに染まっていた。
カルド坑町の通りには、仕事を終えた鉱夫たちが戻り始めている。魔石を積んだ荷車が石畳を軋ませ、食堂からは煮込み料理の匂いが漂ってきた。坑道の冷気に慣れた身体には、夕方の風がずいぶん暖かく感じられた。
調査隊は回収品を管理所へ引き渡し、記録をまとめた。ラティスも運搬の確認を済ませ、補助員としての報酬を受け取った。
窓口を離れたところで、エルナが声をかけてきた。
「お疲れ」
「そっちもお疲れです」
「今日は助かった。支柱のことも、通路のことも、記録に残しておく」
「役に立ったならよかったです」
エルナは記録帳を胸に抱え、小さくうなずいた。
ラティスが帰ろうとすると、少し離れた壁際にいたロイグが手招きした。
「ラティス」
「はい」
「今日はよく気づいていた。ああいう場所では、目が利くのは大事なことだ」
「ありがとうございます」
「だが、奥へ進むなら別の力も必要になる。分かっているな」
「……はい」
「次の調査は、戦闘要員を増やすことになるだろうな」
ロイグはそれだけ言うと、報告書をまとめている仲間のもとへ戻ろうとした。
ラティスは、その背中に声をかけた。
「俺も、次の調査に参加させてください」
ロイグが振り返る。
「今回と同じように補助員として働くなら、必要があれば呼ぶ」
「そうじゃなくて。俺も、奥へ行きたいんです」
思ったよりも強い声が出た。
近くにいたカイルが、こちらを振り向く。
「へえ。今度は荷車じゃなくて、魔物の前に立ちたいって?」
ラティスはカイルを見た。
「坑道のことなら分かります。さっきみたいな異常にも気づける。道を調べたり、危険な場所を見つけたりすることなら、俺にもできるはずです」
「壁の異変に気づくのと、魔物に襲われて生き残るのは別の話だ。魔物は、お前が危ないと気づくまで待ってくれないぞ」
「それは……」
「悪いことは言わない。自分にできることと、できないことくらい分けて考えろよ」
カイルの言葉には、わざとらしいほどの親切さがあった。
ラティスは言い返したかった。けれど、カイルが戦闘員として積み重ねてきた経験を、自分はひとつも持っていない。それも事実だった。
ロイグは二人のやり取りを見てから、ラティスに向き直った。
「お前の目が利くことは知っている。荷運びの仕事も、きちんとやっている。だが、魔物が襲ってきたらどうする。仲間が倒れたら、どう助ける。逃げ道がなくなったら、どう判断する」
問いかけられて、ラティスは答えられなかった。
「そういうことを、まだお前は実戦で証明していない」
ロイグの声に怒りはなかった。だからこそ、言葉を跳ね返すことができなかった。
ラティスは十七歳になる。幼いころに受けた判定では、魔力の反応が認められず、記録には無位と記されていた。戦闘員としての道を目指す者にとって、その判定は重い。成人後に改めて調べ直す者は少なく、周囲もまた、最初の判定が覆るとは考えていなかった。
ラティス自身も、何かを証明できたわけではない。
ロイグは静かに告げた。
「まずは自分の役割を全うすることだ」
ラティスは唇を結んだ。返す言葉はなかった。
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町の通りを歩きながら、ラティスは今日の報酬が入った袋を握り直した。
補助員としては悪くない働きをできたと思う。事故を防ぎ、回収品を壊さずに運び、報酬も受け取った。
それでも、あの通路の先を見られなかったことが、頭から離れなかった。
自分の目で確かめたかった。
あそこに何があったのか。なぜ、誰も知らない場所に新しい傷が残されていたのか。
そして、いつまで自分は、ほかの人間が決めた境界の手前で立ち止まっていなければならないのか。
ふと、右手首の内側に冷たい感覚が走った。
ラティスは足を止めた。
指先で手首を押さえる。痛みはない。感覚もすぐに消えた。坑道で冷えたせいだろう。そう考えて歩き出したが、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
手首を見つめているうちに、幼いころの記憶がよみがえった。
七歳のとき、初めて位階の判定を受けた。
町の集会所には同じ年ごろの子供たちが集められ、ひとりずつ判定石に手を置いていた。
石が淡く光るたび、検査官が結果を読み上げる。強い光が出た子供には、周囲から歓声が上がった。
ラティスも、呼ばれた順番どおりに石へ手を置く。
けれど、何も起きない。
「もう一度、手を置いてみて」
検査官は別の判定石を持ってきた。
ラティスは言われるまま、もう一度手を置いたが、やはり光らなかった。
無位。
その日の記録には、そう記された。
以来、ラティスはその判定を覆せないままでいた。
――何も変わっていない。
ラティスは手首から指を離した。
坑道で冷えたせいだろう。さっきの感覚はもう消えている。
家へ向かって歩き出すと、夕暮れの通りを馬車が追い越していった。
ラティスは振り返り、夕闇に沈み始めた山々を見た。
あの暗い通路の先には、まだ誰も確かめていないものがある。
いつか、自分の足でその先へ進みたい。
そう思いながら、ラティスは再び歩き出した。




