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踏み出すもう一歩①


 ユイはスマホを見て素っ頓狂な声を上げた。


 スマホの画面に表示されている時刻は朝の八時半。


 今日は共通テスト一日目であり、試験開始まで一時間を切っていた。


 朝起きてやるルーティーンをすっ飛ばしたユイは、急いで出かける準備をしながら、移動手段を模索する。


 家から最寄りの駅まで、自転車で十分かかる。


 試験会場の最寄り駅に着く電車がやってくるのは九時ちょうど。多分、ギリギリ遅刻してしまうだろう。


 バスは普段乗らないので分からない。今から調べる余裕もない。


 自転車で会場まで行くというのもなくはないが、遅刻するという点では電車と変わらない。


 共働きの両親は今日も休日出勤だ。明日であれば家にいるので、車を出してもらえただろう。


 斯くなる上はタクシーか。出費はかさむが致し方ない。


 駅に行けば、いつも一台か二台は停まっているので、乗れる確率は高いはずだ。


「よしっ」


 ユイは鞄を持ち、「行ってきます」玄関の鍵を閉めて自転車を走らせた。


 駅の駐輪場に自転車を停め、スマホを確認すれば八時五十分、これならまだ間に合うかもしれない。


 タクシーよ、停まっていてくれ。


 そう祈りながら駅の方へと走るユイの目の前を、一台のタクシーが通り過ぎていった。


「あ、乗ります」


 つい、声を出して手を挙げたが、タクシーはおばあちゃんの前で停車した。


 ——終わった。


 ユイは足を止めて腕を下ろした。


 ワンチャンを狙って、九時の電車に乗るしかない。


 遅刻したら、これまでの努力が全て水の泡だ。


 友達と遊ぶのも断り、あらゆる娯楽を封印し、大好きな抹茶フラペチーノまで禁止して、あんなに夜遅くまで毎日勉強してきたのに。


 ——あ、やばい。泣きそう。


 後悔が、次から次へと溢れ出てくる。


 ベッドで寝たのが失敗だった。いつも通り、机の上で仮眠を取ればよかった。ベッドで眠ったせいで、蓄積していた疲れが解き放たれたのだ。


 でもそれを言うなら、そもそも夜遅くまで無理をして勉強しなければいい話である。


 ただそれだと、勉強時間が足りなくて合格の芽がなくなる。


 過去の行いを省みるというなら、普段から計画的に勉強をしていればよかっただけだ。


 まあ、遅刻したからどの道無駄なんだけどね、ははっ。……


 ユイは目頭が熱くなって、喉の奥が苦しくなり、完全に立ち尽くしていた。


 不意に、おばあちゃんと目が合った。


 潤んだ視界を擦るユイに、そのおばあちゃんは手招きをしている。


 ユイが恐る恐る近寄ると、


「急いでるならどうぞ」


 おばあちゃんは言って優しく微笑んだ。


「え、でも」


「いいのいいの。遠慮しないで」


 おばあちゃんは有無を言わさぬとばかりに、ユイの手を取ってタクシーの中に押し込めた。


「それじゃあすみませんが、よろしくお願いします」


 タクシーの運転手に声を掛けたおばあちゃんは、そのまま背を向けて駅の方へと歩いていった。


「お客さん、どちらまで」


 運転手がミラー越しにユイを見て尋ねる。


「あ、えと、○○まで」


 ユイは状況が呑み込めないまま反射的に答え、タクシーは走り出した。


 少しして、ユイは思い至る。


 ——お礼、言いそびれちゃった。


 心の中で何度も「ありがとうございます」と唱えたユイは、テストを受けに行くことを思い出し、気持ちを切り替えたのだった。


/


 サチコはテレビの朝のニュース番組をぼーっと眺めていた。


 朝食を作って食べ終え、洗濯等の必要な家事も早々に片付けてしかし、サチコにはやることが何もなかった。


 以前ならば、友人と○○教室や○○体験みたいなことに積極的に参加していた。主人が生きていた頃は旅行に出かけることも趣味だった。主人に先立たれてからは、息子たちが孫を連れて様子を見に来てくれることも度々あった。


 そんな日常がコロナによって一変した。


 緊急事態宣言により、不要不急の外出を避けなければならなくなった。


 ○○教室などは次々と閉鎖し、友人と会う機会も減っていった。


 家にいることが増えても、息子たちがやってくることはめっきり減った。


 お盆や正月でさえ会いに来なかったこともある。


 もちろん、配慮や感染リスクを考えての行動であることは理解しているのだ。


 ただどうしても、暗いことばかりが頭を過ぎってしまう。


 自分に会いに来ることは不要不急なのか、と。


 自分は誰にも必要とされていない存在なのではないか、と。


 買い物に行く時でさえ、「これは必要最低限だから」と自分に言い聞かせなければ不安になってしまうほど、窮屈な思いをしていた。


 コロナ禍が収束に向かったところで、そのような生活が数年も続いてしまえば、以前の活気ある日常に戻ることは難しかった。


 ニュース番組が今日の星座占いコーナーの時間に入った。


 一位はサチコの誕生月の星座であった。


「一歩踏み出すと良いことがあるかも」


 普段のサチコならば、一位だろうが十二位だろうが、別に気にしない。


 所詮は十二分の一の適当な占いとして、次の瞬間には忘れるのが常である。


 サチコはテレビの横の棚に飾っている写真が目に入った。


 主人と最後に行ったツーショットの写真だ。


 ふと、主人に会いたくなった。


 そういえば最近、仏壇に挨拶するばかりで、墓参りに行っていない。


 思い立ったが吉日、占いでも「一歩踏み出せ」と言っていたし、久しぶりに会いに行こう。


 サチコはすぐに外出の準備をして、最寄り駅まで歩いていった。




 墓参りにはタクシーで行くことが多かった。


 電車でも行けなくはないのだが、慣れない場所なのでお墓までの道が怪しい。


 地図は得意ではないし、スマホもあまり使い方を分かっていない。


 そのため、タクシーの運転手に住所を告げて連れて行ってもらう方が確実だった。


 駅に着いたサチコは手を挙げ、やってきたタクシーが自分の前に停まった。


 不意に、タクシーの奥にいる制服を着た女の子と目が合った。


 女の子は挙げていた手を下ろし、すっかり立ち尽くしてしまう。


 その表情は今にも泣き出しそうなほど悲しい目をしていた。


 何か、不要不急などでは決してない、タクシーに乗らねばならない事情があることをサチコは悟った。


 手招きをすると、女の子は恐る恐る近づいてくる。


「急いでるならどうぞ」


 と言いつつ、遠慮するだろうと思ったサチコは、少々強引に女の子をタクシーの中に詰め込んだ。


 お礼や断られたりすることが恥ずかしくて、サチコはタクシーに背を向けると、駅の中へと入っていった。


 ちらりと後ろを窺えば、タクシーはもういない。


「たまには電車でもいいわね」


 お墓のある最寄りの駅まで行く電車を調べたサチコは、少し旅行気分を思い出しながら電車に乗った。




 電車を降りて改札を通ったサチコは、さてどうしたものか、と辺りを見回した。


 休日だからか、ぱっと見たところでは駅員の姿がないし、人もあまりいない。


 仕方がないので、スマホのアプリを起動してみたはいいものの、やはり、使い方がいまいち分からなかった。


 このまま駅の外に出て、なんとなくで歩き出したら迷子になる可能性が高い。


「あの、どうかしましたか」


 困り果てているサチコに、スーツを着た男性が声を掛けてきた。


 その男性の身長は高く、ガタイもいい。髪は短く、清潔感もあって、若々しい溌溂とした表情からは爽やかな印象を受ける。


 この人なら大丈夫だろう。そう判断したサチコは、自分の行き先と困りごとを話して聞かせた。


「それなら一緒に行きましょう」


「そんな付き合わせたら悪いわよ。これからお仕事でしょう?」


「大丈夫ですよ。時間はありますし」


「あらそう。それならお願いしようかしら」


 男性は自身のスマホを操作すると「じゃあ行きましょう」言って歩き出した。


 お墓へ行く道中、話は男性の仕事についてが主になった。


 というのも、サチコが「休日出勤なんて偉いのね」と言ったことを申し訳なさそうに否定したところから始まる。


 男性は大学四年生であり、現在、就職活動中だったのだ。


 元々は内定が決まっていたのだが、その会社が先月倒産したため、慌てて就職活動を再開したらしい。


 せいぜいがパートしかしたことのないサチコには、就職活動も会社で働くこともあまりピンとはこなかったが、男性が大変な状況にいることはよく分かった。


「あなたなら大丈夫よ」


 同時に、この男性ならどの企業も欲しいと言うだろうとサチコは思う。


 今時、こんな年寄りに自分から声を掛けてきて、道案内までしてくれる若者がいるだろうか。


 とても親切で、明るく、爽やかなこの青年を採用しない企業の方がどうかしているとさえ思っていた。


「ありがとうね」


 道案内が終わると、サチコは心からの感謝を述べた。


 無事にお墓まで辿り着けたばかりか、帰りのためにと、サチコのスマホを操作して駅までのルートを表示してくれたのだ。


 その男性は照れたように謙遜すると、「それじゃ」と言って駅の方へと走って行ってしまった。


 重ねてお礼を口にしたサチコは、水を入れた桶と柄杓を持って、主人の墓へと歩き出す。


 主人に報告することが一つ増えたな。


 もしかしたら嫉妬してへそを曲げてしまうかもしれない。


 いやいや、そんな狭量な人でもないだろう。


 サチコはすでに幸せな気持ちになっていた。

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