満月の夜に、君をいただく③
異変に気が付いたのは、夕飯の時刻から一時間以上が過ぎてもイスカがやってこなかったからだった。
時折、遅れてくることはあった。
健康診断が長引いたとか、献立と買い出しに悩んでいたとか、理由は様々である。
イスカにも予定ややりたいことがあるのだから、時間が多少前後するくらいは疑問にも思わない。
だが、隠れ家に身を潜めてから一ヶ月、イスカが来なかった日は一日たりともなかった。
何かが起こっている。そう考えるのが妥当だろう。
俺の不安や懸念が杞憂ならばそれでいい。
俺は地下室から出て、イスカと星空を眺めた屋上へと上がった。
月が出ている。満月だ。見るな、意識を保て。ただ、力を支配しろ。
深呼吸を繰り返し、体中のあらゆる感覚が研ぎ澄まされていく。
柔らかな風に乗った音と臭いを感じ取った。
規則的で秩序立った複数人の足音。鉄錆と硝煙、緊張と興奮の混じった汗の臭い。
体中の毛が逆立っている。危険だ、と直感が告げていた。
身を屈めて屋上の縁からこっそりと顔を出し、通りの奥の方を覗いてみる。
十何人かの集団がこちらへ歩いてくるのが見えた。
警官隊、にしては統率が取れ過ぎている。
武装も拳銃なんて比じゃない。
まさか、軍隊だろうか。
……物騒な。
おそらくこの隠れ家に俺がいることはバレているのだろう。
包囲される前に逃げなければ。
推定軍隊がやってきている通りとは反対側に屋上を伝って逃げようと立ち上がった瞬間だった。
「逃げて」
微かに、しかし間違いなくイスカの声が聞こえてきた。
反射的に足を止め、後ろを振り返り、軍隊の中に目を凝らす。
中央よりやや前方、フードを被り首から鎖で引かれたひときわ背の低い人間がいる。
後ろ手に手枷を掛けられ、不揃いな裸足の地面を歩く音が軍靴にノイズを走らせている。
罪人か奴隷か、いずれにせよ軍の人間でないことは確かだ。
というか人間扱いですらない。
分かっている。あれはイスカだ。
ただの案内役か。人質のつもりか。俺をおびき出すための囮か。それともその全てか。
何にせよ、だ。
「助ける」
イスカには聞こえるだろうと思って呟いた。
案の定、イスカは顔を上げた。フードの下から赤い瞳が俺を捉えたのが分かった。
目が合った。そう思った瞬間、イスカは目を瞑って地面に向かって叫ぶ。
「逃げて!」
通りいっぱいに声が木霊して、道行く人や屋内にいる人、また隊列にいる軍人らまでもがイスカに気を取られた。
この隙に逃げて。そんな言葉が聞こえてくる。
分かっている。助けなんて望まれていないことくらい。
分かっている。俺が逃げなければイスカの勇気と覚悟を無駄にすることくらい。
分かっている。イスカを見捨てて駆け出せば、街を出て追っ手を振り切れる可能性があることくらい。
それでも。
体を脱力させて前傾姿勢を取り、駆け出そうとした時、鈍い音が鼓膜を打った。
——はっ?
くぐもった声を漏らしてイスカが倒れた。鎖を引いていた軍人が銃床で頭を殴ったのだ。
「撃て」
聞こえたのと同時に、乾いた銃声が響いた。
「いっ、あああああああ」
悲鳴と共に、腹を押さえたイスカの手の隙間から、どくどくと血が流れ出ていく。
甘美な血の匂いが鼻腔をくすぐった。
久しぶりの人の血と肉の匂いだった。
あまりの唐突な出来事に頭が真っ白になって、これまで抑え込んでいた獣の本能が理性を跳ね除けた。
満月を瞳に映す。
そういえば、今朝から何も食べていない。
腹が減った。
肉はそこら中にある。
怒りを凌駕する飢餓感、全身に力がみなぎる万能感、衝動に身を委ねる人間性の喪失感。
遠吠えを上げている自分を他人事のように感じていた。
俺の声に釣られて視線が集まった。
「構え」
「おせぇ」
半開きになっている口から落ちた涎が地面を濡らすより速く、屋上から飛び降りた俺は壁を蹴って加速する。
イスカの鎖を持った人間の目の前に降り立ち、首を刎ね飛ばした。
「ひっ」
悲鳴を上げたやつの心臓を貫く。
「うま」
手についた鮮血を舐め、近くにいたやつの首に噛みついた。
「うま」
肉だ。新鮮な肉。久しぶりの生きた肉。
もっとだ。もっと喰いたい。
手を伸ばす。頭を掴んで力をこめた。
硬い木の実が割れたような音がして、目と鼻と口と耳から脳みそが噴き出した。
「死ね!」
引き金が引かれるより早く懐に潜り込む。
頭の付け根を自慢の爪で抉り飛ばす。
「撃てー!」
死体を盾に銃弾の雨の第一射を受け、目に付く者から片っ端に殺していった。
銃弾を何発か受け、ナイフで所々に切り傷を付けられたが、その場にいた兵士は屍となっていた。
さて、先につまみ食いをしてしまったけれど、ここからがディナーの時間だ。
足を千切り、大きく淡白な肉にかぶりつく。
程よい脂と弾力のあるもも肉は食べ応え抜群だった。
腹を裂いて腸を喰らい、順繰りに他の内臓を噛まずに呑み込む。
どの内臓も独特の臭みがあり、ゆえにそののど越しを楽しんだ。
脊椎を噛み砕き、頭蓋を割って脳みそを啜る。
バリボリと音を立てる骨は後味にうま味を残し、脳みそはコクのある苦みが癖になりそうだ。
だが、何かが物足りなかった。
俺が本当に食べたいものはこれじゃない。
もっと、美味そうな匂いのする肉があったはずだ。
すっかり真っ赤になった鼻をならす。死臭が濃すぎて鼻があまり利かない。
とん、と腹の辺りに何かがぶつかった。
弱々しい衝撃と共に、俺の求めていた美味そうな匂いが立ち昇っていた。
——これだ!
俺は大きく口を開けた。
「いいよ」
そんな声が聞こえた気がしたが、真偽を確かめるより先にかぶりつく。
じゅわっ、と濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
リキュールの入ったチョコレートのように、甘みの奥からほろ苦さが鼻を抜けていく。
喉を鳴らして飲み込めば、一口めのビールがごとく五臓六腑に染み渡る。
血だ。血液だけでこのたしかな満足感。
肉を喰ってしまったら、俺はいったいどうなってしまうんだ?
身を焦がすほどの飢餓感が薄れ、疑問が頭をよぎった時、俺は我に返っていた。
「い、すか?」
イスカが俺の腹に顔を埋めるようにしてもたれかかっている。
肩口からは、素人が見ても絶対に助からないと分かる出血をしていた。
誰だ。誰にやられたんだ。
撃たれたのか?
早く治療しなければ。
周囲を見回せば、死屍累々で生きるものもなし。
誰か。早く。イスカが死んでしまう。
口の中で血の味がした。
「お、おれがやったのか?」
信じられない。
そう思うのと同時に、満たされた空腹とぐちゃぐちゃに食い荒らされた死体の山が符合していた。
「ライ、カン」
「イスカ!」
弱々しい声が俺を呼ぶ。
焦点の合わない赤い瞳を揺らしながら、イスカは口を震わせた。
何かをたくさん言おうとしてしかし、伝えられる言葉はほんのわずかしかないようだった。
「ありが、と」
迷い、悩んで最後、そう言ったイスカはニコリと微笑み、力なく倒れた。
「イスカ、イスカ」
俺はイスカの体を抱きかかえて何度も名前を呼んだが、返事もなければ体はピクリとも動かなかった。
家族を手にかけた時と同じかそれ以上の喪失感にどうにかなってしまいそうだ。
俺は空を見上げて満月を瞳に映した。
いっそ、我を忘れて暴れてしまいたい気分だった。
それなのに、暴走する気配はまるでなかった。
流れ星が一つ、夜空を踊る。
俺は思わず祈っていた。
——イスカを生き返らせてくれ。
何度も何度も何度も何度も、何度でも。
願が叶うなんてそんなこと、ありえないと知っているのに。
夜の帳に、一匹の獣の遠吠えが虚しく響いていた。




