君といた日
終わった。
やっと終わったんだ。
雪春は肩で息をしながら、動かなくなった犬飼を眺めた。
こんな男が。
そういう思いはあったが、もう怒りは湧いてこなかった。
「先生。」
涼やかな声がかけられる。振り向くと、夏目が立っていた。
その顔に安堵の色が伺えて少しおかしくなった。
この子でも、心配するんだな。
絶対無敵なわれらが生徒会長にも、人間らしい一面があったらしい。
「大丈夫。」
安心させるように背伸びをして夏目の頭をわしわしとなでると、夏目は少し憮然とした顔をして探るような目をむけた。
「今、どっちなんですか?」
質問の意図はわかったが、答えは自分にもわからなかった。
代わりに、少し微笑んだ。
「お兄ちゃん!」
一花が雪春の腕の中に飛び込んできた。どうやら潤平が縄をほどいてくれたらしい。
背丈がほとんど変わらない体を全身で受け止めると、一花は首筋に顔をうずめて、すがりつくように服を握った。
「お兄ちゃんなんでしょ・・・。私を助けるために、来てくれたんでしょう?」
逃がさない、とでも言うように、背中にまわした手に力を込める。
耳元で囁く震える声、押し殺すような嗚咽。幼い一花がそこにいるようだった。
雪春は静かに抱きしめた。
ごめんなさい
その一言を皮切りに、一花から言葉が止めどなく溢れてきた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・そんなつもりじゃなかったの、あんなこと・・・言うつもりじゃなかった・・・。」
ただ少し、兄を困らせたいだけだったのだ。約束を反故にしてばかりでしきりに謝り続ける兄を、からかってやろうと。引っ込みがつかなくなって言いすぎてしまったが、入学式が終わったらきっと元通りになると思っていた。ちょっとすまなそうな笑顔で、今日は行けなくてごめんなって言う幸太郎が、自分を迎えてくれるだろうと。いつも来る明日が訪れないなんて考えてもいなかったのだ。
一花は否定するように額をこすりつけた。
「嫌いなんて嘘・・・大好きだよ・・・。」
もう後は声にならなかった。
雪春は震える小さな肩を抱いて、静かに目を閉じた。
心の片隅で、幸太郎が逡巡する気配がする。
ごめんね。幸太郎。
雪春は謝って、息を吸った。
「ちがいます。」
一花の肩がピクリと止まった。
「お兄ちゃん・・・?」
体を離して、探るような目をむけてくる。大切な人を亡くしてしまうと、幽霊でもいいから会いたいと思ってしまう。だから幸太郎が帰ってきたという突拍子もないことにすがってしまうのだろう。しかし今から雪春がすることは、その一花の希望を打ち砕くことだ。心が揺れそうになったが、雪春は首をふった。
「ちがいます。私は君のお兄さんではないですよ。」
一花は目を見開いた。
「そんな・・・だって・・・」
「君のお兄さんだったらこうするだろうなと思ってやっただけです。ごめんなさい。」
一花はまだ信じられないようで、涙の溜まったまつげを瞬いた。
ごめんね。幸太郎。
雪春はもう一度ささやいた。
ここで幸太郎のことを言えば一花は喜ぶだろう。嬉しいだろう。
伝えられなかったことを伝えて、気持ちが晴れるだろう。
でも、それからどうなる?
今後何かあるたびに、兄の存在を願うかもしれない。
一度現れたという過去に、すがりついてしまうかもしれない。
不安定な希望は、一花の足を止めてしまうだろう。
死者は、蘇ったりしない。それが当然の摂理なんだよ。
それをみんな乗り越えて、前を向いていく。
大丈夫。
君の妹はわかってる。
君に愛されていた自分を、ちゃんとわかってる。
雪春は一花の目をまっすぐ見て、もう一度言った。
「一花さん、お兄さんとのお別れはすみましたか?」
一花ははっとしたように目を見開いた。
彼女は自暴自棄になっていたわけじゃない。思い出そうとしていたのだ。
今まで過ごした場所を巡ることで、嫌いと言ってしまった時の悲しそうな顔や、体温がなくなって冷たくなった顔ではない、幸太郎の笑顔や、照れた顔や、すねた顔や、怒った顔を。
雪春は天井を振り仰いだ。
壊れかけた壁の隙間から覗く夕日は、まるで涙のように雪春の頬をなでた。
「今度、一緒にお墓参りに行きましょう。」
雪春の言葉に、一花はこらえるように口を引き結んだ。服を握り締める手に力がこめられる。
「お墓だけじゃなくてもいい、君がお兄さんと一緒に行ったところを、一緒に巡りましょう。私も知ってるから。」
たった9日間だったけど、わたしも知ってるから。
天然で、朗らかで、心配性で、悲しいくらい優しい幸太郎を。
「一緒に、思い出しましょう。」
彼と過ごしたあの道を、あの丘を、あの雲を眺めて。
あぁ、そうだね。
そう言ってあげられるから。
一花の肩が小刻みに震え、かすかな声を上げた。その聞こえるか聞こえないかのそれは次第に大きくなり、全身で受け止めなければこぼれていまいそうだった。
今まで固く縛っていたものを少しずつ解いていくように一花の声が空に溶けていく。飾らないそのままの叫びが、雪春の胸に残って響きつづけた。
雪春は静かに目を閉じる。
心の片隅にいたものがふわりと揺れて消えた。
ありがとう、ユキ
そう、耳元で囁いて。




